『ダスティン・ホフマンに
なれなかったよ』に
“愛を唄う吟遊詩人”大塚博堂の
本質を垣間見る
詩の内容を見事に音楽へ反映
M10「色エンピツの花束」はテンポがスロー~ミドルでありながらも、A、Bはエレキギター、オルガンが背後で鳴り、サビではファンキーなベースラインも聴こえてくる。サウンドがロック寄りだろう。ハーモニカも印象的だ。一転、M11「あなたという名の港」はメジャー感の強いアップチューン。細かく刻まれるギターなどいわゆるバンドサウンドもさることながら、リコーダー(だと思うが、ピッコロかも)の軽快な旋律がなかなか興味深い。ちなみにアレンジはあかのたちお氏だが、M5といいM9といい、この方は管楽器の扱い方は興味深い。それが氏の特徴なのかもしれない。
フィナーレはアルバムのタイトルチューン、M12「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」。テンポもゆったりだし、前半はサウンドもギターのアンサンブルに若干のピアノくらいなので、メロディーもサウンドも派手だったM11に比較して、随分とどっしりとした印象がある。もしかするとその落差は意図的だったのかもしれない。それほどに、サビの《ダスティン・ホフマンになれなかったよ》は不思議な迫力がある。インパクトが強い。B面は随分と駆け足で解説してしまったけれど、多彩さは理解してもえるのではないかと思う。
叙情性は、これはもう歌詞由来というか、その内容から醸し出されているものに尽きると思う。全てがそうではないけれど、本作での藤公之介氏の詩にあるものは“後悔”だろう。主だったものを引用する。
《コーヒーはブラックで/外国のタバコすい/マニキュアと つけまつげ/濃いめのくちべにで》《オ… 君なんだね/一年ぶりのめぐり逢い/ア… 何がそんなに/君を変えてしまったんだろう》(M2「坂道で」)。
《耳に押しあてた 電話の向こうで/どこか寂しげに うるんだ/きみの声がする/ぼくだと気づいて きみは声を呑み/他人行儀なあいさつで/黙ってしまう》《きみはあれから幸せか/泣いてはいないか……》(M3「季節の中に埋もれて」)。
《坂の通り見おろせる 窓ぎわの席/いつも空いている 向かいの椅子に/きみの想い出が 今日もただよう》《レジの電話見つめながら かけてみようかと迷う》《クツクツ煮えたぎる/サイフォンの音に/にがい想い出が ゆれるゆれる》(M7「坂の上の二階」)。
《あなたに借りた 五木寛之/今ごろ読む気に なりました/また逢う口実 作りたくて/返すためにだけ 借りた本です》《本をあなたに 返さなければ/本をあなたに 返さなければ》(M9「一冊の本」)。
《まるであの日の二人みたいで/胸が熱くなって仕方がなかった》《君にもう二人も子供がいるなんて/僕のまわりだけ時の流れが遅すぎる》《なのにあの日僕は教会で/君を遠くからながめてるだけだった》(M12「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」)。
細かいシチュエーションは異なるのだろうが、基本的には“あの時ああしておけば良かった”という想いを吐露したものがほとんどだ。そもそもこれが藤氏の作風の偏りなのか、こういう内容を大塚氏がピックアップしたのかは分からないが(そこまで調べることはできなかった…)、言葉にすれば同じ“後悔”でも、メロディー、サウンドの違いによって機微の差がよく分かる。M3は激しく悔いている感じだし、M9はそこまでの悲壮感はない気もしてくる。M2には嫌悪の気持ちが入っているようにも思われるし、M12は米国の有名役者が出てくるだけあってか(?)、シアトリカルな印象は強い。編曲家も含めて、歌詞の世界観を伝える術を最良に考えた結果だろう。デビューにあたって[クラブやライブハウスでの弾き語りの活動が評判になり]、[ステージ活動を中心にして全国を回り、"愛を唄う吟遊詩人"として徐々に人気を高めていった]というから、いわゆる、弾き語り系のシンガーソングライターを想像していたが、大塚博堂はデビュー時からプロデューサー的視点を持ったアーティストだったと言っていいようだ([]はWikipediaからの引用)。その確信を持った『ダスティン・ホフマンに~』でもある。
TEXT:帆苅智之