藤井風、米津玄師、野田洋次郎(RAD
WIMPS)、Aimer、ハナレグミ、レキシ
……yui率いるFLOWER FLOWERのメンバ
ーであり、EGO-WRAPPIN’に参加しな
がらも、多くの作品に関わるベーシス
ト・真船勝博に迫った【インタビュー
連載・匠の人】

大阪大学に在籍していた時にEGO-WRAPPIN’ に参加し、ベーシストとしてのキャリアをスタートさせた真船勝博。yuiからの誘いを受け、2013年にFLOWER FLOWERを結成。以降も、藤井風、米津玄師、野田洋次郎(RADWIMPS)、Aimer、ハナレグミレキシ、美波といったアーティストの作品やライブに関わってきた。ソウル/ファンクの影響が色濃いしなやかでグルーヴィーなベースで魅せる一方で、最近はアレンジャーとしても活躍。20年以上のキャリアを持ちながらも、音楽家としての探求を伸び伸びと突き進めている真船に様々なことを訊いた。
――恒例のキネマ倶楽部でのEGO-WRAPPIN’ のライブは2022年末で22年目に突入されたそうですが、真船さんが大学生の頃から参加されているんですよね?
そうですね。星野源くんや大橋トリオ、レキシの作品やライブで活躍されているサックスの武嶋聡さんが僕が通っていた大阪大学のジャズ研の先輩なんです。武嶋さんはすでにEGO-WRAPPIN’ でサックスを吹いてて、前任のベースの方が大阪のカシミールというカレー屋さんをやっていて、そっちの方が忙しくなって離れることになり、僕が呼ばれて。それは1999年のことなんですが、すでにリリースしていた2枚のアルバムがインディーズチャートで1位を取っていて。それで、初めて参加したアルバムの中の「a love song」や、その次のミニアルバム『色彩のブルース』が全国でパワープレイになり、その後メジャーデビューという流れでしたね。その後キネマ倶楽部でのライブが始まったんです。
――じゃあ、既にEGO-WRAPPIN’ が名前を知られている段階で大学生の真船さんが加わった感じなんですね。
そうですね。飛び込んだというか。それで、EGO-WRAPPIN’ の活動のために休学をして。結局3年間休学したんですが、その間に上京しちゃうんですよ。最終的に大学は辞めましたね。
――その段階で音楽の道でやっていくという気持ちを固めていたんですか?
もうやるしかないというか。大学では電気工学を学んでたんですけど、周りの同級生たちは電気や半導体のことが大好きなんです。僕も好きで入学はしたんですけども、好きのレベルが全然違って、「この人たちと同じ土俵に立つのは無理だな」と。僕はジャズ研でセッションしている時間が何よりも楽しかったので、漠然と「これを本業にできたらいいな」と思っていました。
――なるほど。そもそもベースは高校から始めたんですよね。
そうですね。それまで特に音楽はやったことがなくて。僕は5人姉がいるんですけど。
――え、6人姉弟ですか?
はい(笑)。6人姉弟の末っ子長男で待望の男の子でした。姉たちはみんなピアノを習っていて、ベートーヴェンの「エリーゼのために」のラを連打するところを聴くと、小さい頃からキュンとしてたんです。「早くそこ来い」「早くそこ来い」みたいな感じで。今思うと初めてベースの存在に興味を持ったのかなと。あと、当時のファミコンの音楽は3声の組み合わせで成り立っていたんです。シンプルにメロディとカウンターラインとベースラインのみで。そのベースラインの低音に対して「かっこいい!」ってずっと思ってました。曲のメロディを歌わずに、ベースラインと言われるものをずっと口ずさむマニアックな少年だったんです(笑)。それで、高校の時に友達からバンドに誘われた時は、「俺、ベースがやりたい」と伝えました。他に誰もベースをやりたい人がいなかったんで、すぐにベースに決まりましたね。
――誰かベーシストに憧れがあったわけじゃなく、ベース音に惹かれたからという。
ベース音に対する憧れですよね。その後、このベースという楽器を弾いてる人はどういう人がいるのかと掘り下げていきました。
――今の真船さんのベーススタイルは、ソウルやファンクの影響を強く感じさせますが、高校の時からそういった音楽に惹かれていたんですか?
高校の時は、Mr.BIGやエクストリーム、ボン・ジョヴィ、邦楽だとリンドバーグやX JAPANやBOØWYがバンドで演奏するのに流行っていて。あと、レッチリとかいわゆるミクスチャー系の音楽が台頭してきた時期で、レッチリの曲を聴くと、SEGAのゲーム音楽で聞いていたビシビシ!みたいなスラップの音が入っていて。スラップの音がすごく好きで「かっこいいかも!」と思って掘り下げていくと、ファンクにロックが加わってミクスチャーっていう音楽ができたんだなと。そこで、エイトビートではなく、16ビートやリズムがハネた音楽を知って、「自分はこういう音楽が好きなんじゃないか」と思いました。それでさらに掘り下げて、ソウルやファンクと呼ばれる音楽を聴いているとすごく気持ちいいし、ベースを弾いてても楽しいなと思って聴き出したという流れですね。
■人の紹介からどんどん広がっていった
――上京して、EGO-WRAPPIN‘以外のお仕事で初めて参加したアーティストというと、どなたなんでしょう?
ソニーからデビューした高鈴という京都出身の二人組でした。大阪時代、EGO-WRAPPIN‘のリハをしていたスタジオの方が、「今度自分のスタジオで高鈴っていう二人組のレコーディングをするんだけど、真船くんベース弾かない?」と声をかけてくれました。その次は、EGO-WRAPPIN’ が住吉大社でライブをやった時に、Asa festoonというキューバ音楽とかをやってるアーティストの方と対バンしたんですが、妻がAsa festoonがすごく好きで、楽屋で「すごく好きです。旦那さんをベースで使ってください」って話しかけて、「いきなり何を言ってるんだ?」って思ったんですが(笑)。
――(笑)めちゃくちゃいい奥さんですね。
そうなんです(笑)。そうしたら、「じゃあ今度一緒にやりましょう」って言ってくださって、その後実際声をかけてくれたんです。それで、Asa festoonの当時のマネージャーの方が竹仲絵里ちゃんっていうシンガーソングライターを手掛けていて、「今度ライブがあるんですけど弾きませんか?」と誘ってくれて。その時のバンマスがTICAの石井マサユキさん。そこで石井さんが「CHEMISTRYでベース弾かない?」と誘ってくれたんです。ハナレグミにも誘ってくださったり。だから、人の紹介からどんどん広がっていった感じですね。
――今や本当にいろんなところで活躍されてますけど、改めて転機になった出会いやお仕事というと何になると思いますか?
そのTICAの石井さんとの出会いが大きかったです。あと高鈴のプロデューサーが住友紀人さんという方なんですが、住友さんがドラマ『ブスの瞳に恋してる』の劇伴に誘ってくれて、その現場でギターを弾いてた鈴木俊介さんがハロプロ系の楽曲のアレンジをやっている方で、「キマグレンがベースを探しているから弾いてみない?」と。それでキマグレンでベースを弾き始めて、初めて出たフェスがGREENROOM FESTIVALなんですが、ライブが終わって楽屋で片づけをしていたら制作の方から「紹介したい人がいます。yuiさんです」と言われて。そうしたらyuiちゃんが現れて。「あのYUIさんですか?」と驚きました(笑)。「ライブすごく良かったです」と言ってくれて。それで、その1年後ぐらいに「一緒にバンドやりませんか?」というメールがyuiちゃんから来て、FLOWER FLOWERをやることになったんです。お声がけ下さった皆さんに感謝してますが、強いて挙げるなら石井さんと鈴木俊介さんが僕を引っ張り上げてくださった方になりますかね。すべてを辿っていくと、武嶋さんがEGO-WRAPPIN‘に誘ってくれたからというのがあるんですが。
■EGO-WRAPPIN‘のライブでみんなの幸せそうな顔を見ていて、これが自分の天職だなと思いました
――上京してから20年以上経つと思うんですが、迷った時期とかはあったんですか?
僕、バイトは絶対しないって決めてて。それで、お金に困って泣く泣く楽器を売った時代もありました。でも、迷う時間があるなら、練習したり、曲を聴いたりして、ひたすら音楽に触れてましたね。
――大学を辞めた時点で退路を断った感じがしますもんね。
はい。自分のやりたいことは音楽なので突き進むしかないというか。上京してからもEGO-WRAPPIN‘の活動がずっと中心にあって。EGO-WRAPPIN’ のライブって、お客さんも含めて熱量がすごいんですよ。
――みんな激しく踊ってますよね。
そうなんです。モッシュもあるし、よっちゃん(中納良恵)が客席にダイブしたり。それまでジャズしかやってなかった自分にとっては、「何だこのライブの熱気は?」と衝撃を受けたところもありましたし、このまま頑張って音楽を続けたらどんな景色を見たり、自分がどう変わっていくのかなっていう怖いもの見たさの気持ちもありました。それに、ライブでみんなの幸せそうな顔を見ていて、これが自分の天職だなと思いましたね。
――EGO-WRAPPIN‘の現場から受けた影響で、演奏スタイルにも変化はありましたか?
そうですね。EGO-WRAPPIN’ は歌ありきのバンドなので、「ここはベースがうるさいかも」とか「もっと歌って」とか「歌はタメて歌うけどリズムはキープして欲しい」とか色々と言ってもらって、歌モノでのアプローチに対してすごく良い方向に導いてくれました。あとはライブを盛り上げるために、メンバー全員でものすごい熱量でライブに臨む姿勢──いわゆるバンドであることと、バンドサウンドに必要な、今誰が目立って誰が一歩引くのかという抜き差しも勉強できました。今でもホームだなと感じてます。
――そういった学びが、音楽だけでやっていくという気持ちの根底にあったんですね。
僕は今45歳なんですが、50代、60代、70代とその年齢に合った演奏があると思うんです。例えば、昔ほど速くや力強く弾けないとかはあるかもしれないですが、逆に力を抜いてリラックスして弾くことで熱量と冷静の間にいる重要性を学んだり。あと音楽ってイマジネーションの世界だと思うので、音楽以外の刺激も含めて、自分の音楽性に活かせるんですよね。例えば、日常生活で文化的なものに触れるとか、人間関係とか、世の中の事象からインスピレーションを受け、自分の音楽を通して表現できる。進化し続けようと思えばいくらでもできるんです。あと、体がどれだけ衰えてようがリズム感は進化できるというか。コロナ禍で抜本的に何かを変えたいなと思って、リズム感の練習をすごくやったんですよ。それは楽器を使わなくてもできるので。もっと良いフィーリングをベース演奏で出すことができれば、ウワモノの人がもっと気持ちよく歌ったり弾けたりするんじゃないかなと思って。
――へえ。楽器を使わないとなると、どういうことをやるんですか?
日本には、♪もーいーくつ寝るとー、だったり、♪鬼さんこちらだったり、1拍目と3拍目で手拍子や重心を取る習慣・文化があるんですよね。フェスとかでお客さんが一斉に手を上げてくれるタイミングもそうなんですけど。昔、家族との団らんの中でテレビから流れてくる音楽が1と3で乗るような音楽が多かったので、自分も自然と身に付いてしまったというか。でも自分が大きなコンポで低音ブーストしてよく聴いてきたソウルやファンクは2拍目と4拍目に重心があるので、1と3で手拍子が起こることに対して違和感があったんです。ただ、自分も油断すると手拍子が2、4拍目でも重心の位置が1と3に寄ってしまうところがあったので、コロナ禍で時間がある時に徹底的に直そうと思い、楽器を使わずリズムの重心をひっくり返す練習をしました。絶えずどこかの現場でベースを弾いている状況の中で抜本的に変えてしまうのが怖かったんですが、3~4カ月ほとんど仕事がない時期があったので、裸一貫の気持ちでずっと練習してました。
――それによってバンドのグルーヴ感とかも変わってくるものなんですか?
トランペットの方から、「めっちゃ吹きやすくなった」と言われたり、EGO-WRAPPIN’ の森(雅樹)さんから「ナイスグルーヴ!」と言われることが多くなったり。あとは同業ベーシストから「ポケットが広いですね」と言われたり。コロナ前より、いわゆる黒人音楽のフィーリングに沿った演奏ができるようになった自信はありますね。
■藤井風くんの全方位の感じは日本の感覚にはあまりないなと思いました
――素晴らしいですね。真船さんがライブに参加されていた藤井風さんのグルーヴも素晴らしいなと思うんですが、藤井さんはデビュー前、2019年のLINE CUBE SHIBUYAでのワンマンから参加されてるんですよね?
そうですね。
――藤井さんのマネージャーであり、FLOWER FLOWERのライブ制作を担当していた当時ディスクガレージの河津知典さん繋がりですか?
そうですね。FLOWER FLOWERは2013年に初めての公式のライブをやるにあたり、バンド感を高める目的で、こっそりその前にツアーをやったんです。その時の対バン相手が河津さんがマネージャーをやっていて当時高校生だったSHISHAMOで、一緒にツアーを回りました。その流れがありつつ、河津さんから「藤井風というアーティストを担当してるんですが、今度LINE CUBEでバンドでの初ライブがあるからベースをお願いできませんか?」という連絡が来て。そこで、「やりやすいドラムの人いませんか?」と訊かれたので、「(FLOWER FLOWERの)sacchan(佐治宣英)がいいと思います」とお伝えして、話が進んでいきました。
――バンドでのライブをほぼやったことがないところから、真船さんも含めてチームで構築していかれたんだと思いますが、どんな印象がありましたか?
お話をいただいた時点で風くんのYouTubeの映像を見て、「なんだこの人は!?」とすぐに惹きつけられました。テクニックも素晴らしいんですが、既存の曲のアレンジがすごくて。
――斬新ですよね。
斬新ですよね。「何を聴いて、どう育ったらこんな風になるんだ?」っていう。今の若いミュージシャンはYouTubeやApple Musicなどで曲や教則的なものを昔より簡単に手に入れられる環境にありますが、そんな膨大な引き出しからコード進行やコードのテンション、フレーズ、リズムを選択するセンスが風くん独自のカバーアレンジを構築していて。オリジナル曲を聴いてさらにぶっ飛びました。メロディとコードの相関性が素晴らしいんです。基本はメロディがあって、そこにコードを付けて作っていくことが多いんですが、風くんの場合はメロディとコードが同時進行みたいな。転調しても違和感がない。すべてのラインが音楽的であって旋律的。和音だけじゃなく、風くんはクラシックもやってるのでどこをとっても旋律で聞こえるんですよね。そういうアーティストはこのご時世にあまりいない。しかも、歌詞の内容が岡山弁で構築されていて新しいと思いました。歌詞の内容にはその人の価値観が如実に出ますが、風くんは人を傷つけることが何よりも嫌いで。でもただの“愛してる”ではなく、“みんなを愛してる”。その全方位の感じは日本の感覚にはあまりないなと思いました。
■死ぬまでに20曲くらい作れたらいいなって思ってます
――FLOWER FLOWERは今年で結成から丸10年になりますが、音源もライブもそれぞれのプレイヤビリティがぶつかり合う刺激的なバンドに見えます。真船さんにとってはどんな場ですか?
最初はyuiちゃんが楽曲や歌詞に衝動的にぶつける感情にメンバー全員が乗っかって、がむしゃらにセッションして曲ができていた感じが大きくて。刺々しい曲も多かったんですが、年数を重ね、yuiちゃんも家庭を持ったことで、良い意味で刺々した部分もありながら、どちらかというと包み込むような方向になってきたと思ってます。コロナ禍でも作曲活動はしてますが、「このバンドはこうじゃなきゃいけない」っていうのがないのがFLOWER FLOWERの強みだと思ってます。例えば、「このバンドはこういう方向性です」っていうわかりやすさがあれば、それを目指して曲を作り、違ったらまたやり直せばいいですけど、FLOWER FLOWERはそうではなくメンバーそれぞれの音楽性が活かされて素直にできた曲がすごく良いんですよね。でも、世間からするとイメージが湧きにくいバンドだとは思います。EGO-WRAPPIN’ もそういうところがあるかもしれないです。世間的には昭和歌謡のイメージがあるのかもしれないですが、自分が参加する前からいろんなジャンルをリスペクトしつつEGOらしく音楽をやっていて、今も進化し続けています。その上で、昔のスタンダード曲を演奏したり、思い切りフリージャズもやるバンドで、僕はそういうバンドで育ってきているので、FLOWER FLOWERがいろんな音楽にチャレンジするのは自然だし何より音楽的だと思っています。
――真船さん自身のヴィジョンとしては、3年ほど前のインタビューでは、「いつか自分の好きなアーティストを呼んでアルバムを作りたい」とおっしゃってましたが、今はどんなことを考えていますか?
この取材の前も曲を書いていたんですが、ベーシストのソロアルバムってなかなか難しいですよね。ボーカルを入れる/入れないの話になるし。僕はマーカス・ミラーみたいにベースが表立った曲も好きですし、一歩下がってアーティストのバックで弾くことも大好きなので、やりたいことが多すぎて、「じゃあ何をしたらいいんだろう」ってなるんですけど(笑)。今はアルバム単位で出すというよりは、配信で1曲2曲出す形が主流になってきてるので、あまり大げさに捉えずに、とりあえずその時自分が作りたいと思った曲をレコーディングしてこまめに出すのがいいのかなと思ってます。こっそりと曲の赤ちゃんみたいなものを色々作ってるんですが、自分ひとりで作り上げるのもいいし、この20年間いろんなミュージシャンと一緒にやってきたので、「この曲はこの人に弾いてもらいたい」とか「この人に歌ってもらいたい」という気持ちで作ってる曲もあります。死ぬまでに20曲くらい作れたらいいなって思ってます。
――真船さんはアニメやゲームのサントラにも関わられていますし、ボカロPのSAKURAmotiさんの曲をディレクションしたり、幅広い音作りもできる方ですもんね。
もちろんベースは大好きなんですが、家だとギターを弾いたり、鍵盤を弾いたり、打ち込みしてる時の方が楽しいんですよね。コロナ渦で美波さんというアーティストのアレンジ・プロデュースを手掛けたんですが、めちゃくちゃ刺激になりました。アレンジャー業やプロデュース業はまだ数は全然少ないんですが、風くんをはじめ20代の若い人たちからもらえる刺激はすごく大きくて。美波さんは歌の存在感・熱量と歌詞の個性が相まって、彼女でしか表現できない世界観を構築していますが、言葉が通じない海外の人にもちゃんと届いている。彼女と制作ができてすごく楽しいです。自分の中では楽曲をビルドアップするのは今でも不思議な感じがあって。例えば弾き語りのデモをもらったとして、家でアレンジを試行錯誤しまくって挫けてと、ということを繰り返しているうちに、無意識にフレーズを入れた瞬間に楽曲がバッと広がる時があるんです。しかもその生まれたフレーズを他のミュージシャンに弾いてもらうことによって何十倍も良くなる。僕は0から1を作るというよりは、1を50や120にする役割の人だと思ってるんですが、その過程が本当に楽しいんです。曲が曲になった瞬間といいますか。だから今は曲を制作する欲が強いですね。
――まだまだ伸びしろをお持ちなんですね。
40代半ばでまだまだ伸びしろがあってありがたいなあっていう感じですね。自分のモチベーション次第で何とでもなるんですよね。そのモチベーションの根底にはいろんな人との出会いがあって。年上年下関係なく、いろんな人とずっと音を出し続けたいというのが、この先ずっと目標ですね。僕が何のために音楽をやってきたかを振り返ると、単純に生業のためだけじゃなくて、結局種を撒いたり育てるポジションなのかなとなんとなく思っています。米津(玄師)くんとも最初、EGO-WRAPPIN‘でお世話になっていた方に米津くんが初めて人とレコーディングするタイミングで声をかけてもらって、僕とBOBOさんと米津くんと3人でスタジオに入って、メジャー1発目の「サンタマリア」と「百鬼夜行」を練習したこともありました。7年前ぐらいに、RADWIMPSの(野田)洋次郎くんが、Aimerちゃんの「蝶々結び」と酸欠少女さユりちゃんの「フラレガイガール」をプロデュースしましたが、その2曲に諸々のお手伝いで参加したんです。両方ともめちゃくちゃ良いテイクで、「良い化学反応が生まれたな」と思っていたら、洋次郎くんが「奇跡的なようで必然的な作品になりました。自分にとって真船さんはラッキージンクスのような方です」ってメールしてくれて、「嬉しいこと言ってくれるな」と思いました。風くんのライブも、この3年間sacchanとかと一緒に作ってきて、ここからまた次のステップに行ってもらいたいなという気持ちがあります。これからもラッキージンクスのような存在でいれたらいいなと思いますね。
――変化していくのは必要ですよね。
そうなんです。日本の音楽業界というのは、閉鎖的なパイをみんなで奪い合ってるようにも思えて。そうなると先細りしていく未来しかない。大切なのはいかに広げていくかで、かき混ぜて浄化して新しい空気を入れることが大事だと思っています。世代交代っていう意味合いもありますし、若い世代と中間の世代と上の世代が一緒に演奏することによって新しいサウンドが生まれたり、上の世代の音楽的な経験を共有したり。上の世代が下の子をどんどん引っ張っていったり、逆に下の世代から新しいパッションをもらうことで音楽を続けるモチベーションを互いにもらったりと、どんどん循環していくと思うんです。自分もその中のどこかにいて、ぐるぐる回りながら伸び伸びと音楽ができたらいいですよね。
――今の真船さんは、そういう状態に見えます。
自分がやりたいこととやっていることがやっとひとつになってきた感じがあります。今まではベースが好きだったけど、アレンジやプロデュース、ディレクションといった制作もだんだんできるようになってきて単純に嬉しいんです。その嬉しさが今のモチベーションですね。
取材・文=小松香里

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