KUWATA BANDのライヴ盤
『ROCK CONCERT』に見る
若き桑田佳祐の心意気と、
図らずも示した独自のメソッド
英語詞から逆説的に思う桑田らしさ
〈アタシも、一九八六年には KUWATA BAND というバンドを組み、作ったアルバムのタイトルが『NIPPON NO ROCK BAND』ですから。コレはもう、裕也さんが切り拓いた道を、ありがたく辿ったような思想、理想郷がそこにはありました〉
裕也さんとは内田裕也氏のこと。氏のバンド、フラワー・トラベリン・バンドが北米進出した時のことを述懐しつつ、こんな風にも述べている。
〈歌詞は全部イングリッシュで。「侍バンドが海外へ殴り込み!」みたいに報じられたけど、当時十代のアタシは、正直なところ斜に構えておりました。(中略)けれども、今思えばあの時代に……あんな状況の下で。裕也さんの想いはただひとつ。紛うことなき、ブレないファイティングポーズで……。「日本のロック、舐めんなよ!!」 後にも先にも、こんなに深くて清い歴史的メッセージは他に類を見ないのであります!!〉
KUWATA BANDが良くも悪くも日本を意識していたことは1stアルバムのタイトルからして確実であったが、それをダメ押しするかのような記述である。『NIPPON NO~』がことさらに内田裕也氏やフラワー・トラベリン・バンドからの影響があるとは思わないけれど、“日本のロック、舐めんなよ!!”の精神がそこにはあったのである。『NIPPON NO~』の発表時、桑田佳祐は30歳。サザンはすでにスタジアムでのコンサートを展開するようなスーパーバンドであり、初期サザンのひとつの到達点との評価もあるアルバム『KAMAKURA』を発表した直後であって、日本のロックシーンにおいて頂点を極めたという自負があったとしても何ら不思議ではない。血気盛んな頃であっただろうし、海外進出を視野に入れていたという話もあながち適当なものではなかったであろう。『NIPPON NO~』が全編英語詞になったのも当然のことではあった。
その心意気やよし…ではある。ただ、そうは言っても、それまでサザンが多くのリスナーから支持を得てきたのは、そのメロディの秀逸さやバンドマジックだけでなく、日本語も英語も垣根なく操る桑田ならではの歌詞があったからである。冒頭で『NIPPON NO~』が発表当時、このアルバムが批判に晒されたことを書いたが、それは収録曲がハードロックテイストであったこともさることながら、主にその歌詞に批判が集まっていたようだ。今さらながらそれに同調するつもりはないけれど、前述した通り、違和感はある。『ROCK~』では『NIPPON NO~』に挟まれてシングル曲があるから余計に…だ。逆に言えば、KUWATA BANDのシングル曲にはサザンで慣れ親しんだキャッチーさがある。サザンのシングルに比べれば、英語もそれなりに多いし、M13「ONE DAY」やM22「BAN BAN BAN」に至ってはサビに日本語はない。しかしながら、《ONE DAY》や《BAN BAN BAN》は英語ネイティブじゃなくても聴き取れる。カタカナのレベルだ。M6「MERRY X'MAS IN SUMMER」のサビは《Let it be》で始まるがそれ以降は日本語だし、M13「スキップ・ビート (SKIPPED BEAT)」のサビの連呼は《SKIPPED BEAT》だとは言いつつ、実際には“助平”であることを桑田自身が公言しているのだから、実質日本語である。我々の耳に馴染むのだ。
それに比べて、『NIPPON NO~』収録曲は馴染みがあまり良くない。無論、どれもこれもメロディーはいいのだけれど、シングル曲を聴いたあとでは、桑田らしい言葉が出てくることを勢い期待してしまうのである。個人的にはBメロでそれを強く感じてしまった。巧く言えないけれど、Bメロに展開した瞬間、“コレジャナイ感”のようなものが漂うのである。M16「SHE'LL BE TELLIN'」辺りはBメロもサビもわりといい感じに言葉が乗っているかとは思うが、そう思うと今度はその言葉のインパクトの弱さが目立つように感じる。ないものねだりであることは分かっている。“私はそう思わない”という方もいらっしゃるかもしれない。けれど、違和感だけはどう仕様もない。だが、しかし…である。その違和感は一見、苦言を呈しているようでありながら、よくよく考えると、桑田佳祐への賛辞ではないかと、我がことながらそう考えるに至った。
『NIPPON NO~』や『ROCK~』が発表以前も発表後も桑田佳祐の作るメロディーは日本に広く頒布されていて、それが自分のような者でも桑田メロディと認識出来る程度に耳馴染みが出来ている。そして、そこに乗る歌詞もまた、それは『NIPPON NO~』や『ROCK~』が発売以降に確立された歌詞の大半がそうであろうが、多くのリスナーにメロディとワンセットで認識されていたのではないか。KUWATA BANDでの自分が抱いた違和感は、そうした桑田佳祐流の日本のロックが広く周知徹底された証し──そんな風に考えることが出来るように思う。オール英語という本来の桑田佳祐らしさとかけ離れた歌詞だからこそ、それが際立ったのだ。少なくとも自分はそう感じた。
KUWATA BANDを経て、1988年にサザンは活動再開する。そこで発表されたシングルは「みんなのうた」であって、それはKUWATA BANDでの批判を桑田自身が受け止めた結果、開放感な内容になった…という論評をどこかで見た記憶がある。実際の作者の心境はどうだったのかよく分からないけれど、わりと正鵠を射たもののような気がする。KUWATA BANDでの試みはもしかすると当初、描いた絵の通りにはいかなかったのかもしれないが、その後、サザンが“国民的バンド”として確立する上での推進力になったのかもしれないと考えると、これもまた邦楽史における重要作品ではあることは間違いないだろう。ちなみに、昨年リリースした桑田佳祐のミニアルバムは『ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し』というタイトルである。
TEXT:帆苅智之
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