皮肉と、愛の駆け引きと、猫。最高に
スタイリッシュな展覧会『ヴァロット
ンー黒と白』レポート

19世紀末パリで活躍したある画家の、特に木版画の世界に深く踏み込んだ展覧会『ヴァロットンー黒と白』が、2022年10月29日(土)から2023年1月29日(日)まで、三菱一号館美術館にて開催されている。日本でのフェリックス・ヴァロットンの知名度はまださほど高くない。彼がいつどんな舞台で活躍した画家なのかを把握しているアートファンは、まだ比較的少数なのではないだろうか。本記事では、その魅力の一端をお伝えする。
※以下、記載がない限り作家名はフェリックス・ヴァロットン、所蔵館は三菱一号館美術館
Who’ s ヴァロットン?
《フェリックス・ヴァロットン》1891年 木版 13.1×10.8cm
フェリックス・ヴァロットンは、1865年にスイスで生まれ、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したアーティスト。彼の所属していた「ナビ派」をざっくりと言えば、19世紀末(印象派や後期印象派のあと、フォーヴィスムやキュビスムが登場する前の時代)の、パリを中心に活躍した若いグループだ。アカデミー・ジュリアンという自由な気風の画塾出身者の集まりで、見えたままに現実を再現するのではなく、象徴的に、装飾的に、いわばもっと私的かつ素敵に描こうじゃないか、という主義の芸術家たちである。特徴としては、塗り絵のようにぺったりと平面的な画面、精神性を感じさせるモティーフ選びなどが挙げられる。
第3章で見られるナビ派の面々による版画作品
自ら「ナビ(預言者)派」を名乗り、大いなるやる気のもとに結成されたグループであるがゆえ、彼らの絵画理論も明確な言葉として残っている。メンバーであるモーリス・ドニの「絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である」という(やや身も蓋もない)宣言は、美術史の授業で必ずと言っていいほど登場する一文だ。
秋がよく似合う三菱一号館美術館
本展の会場である三菱一号美術館では、2014年に日本初のヴァロットン回顧展、2017年に『オルセーのナビ派展』を開催している。まだブレイク前夜であるナビ派、及びヴァロットンは同館の “推し” の一人なのだろう。これまでの展覧会で彼らのことを知っているという人も、誰? という人も、今回は特に見逃せない機会だ。本展はヴァロットンの中でも、その真骨頂と言える「木版画」に焦点を絞った展覧会だからである。
スイスに生まれてパリに出る
ヴァロットンは1865年にスイスのローザンヌに生まれ、画家を志してパリにやってきた。第1章ではまだスタイルが確立する前の銅版作品を見ることができるのだが、その巧みさにはハッとさせられる。レンブラントの自画像に基づいた作品では、背景のモヤモヤっとしたオーラのような明暗までが極細の線で表現されている。大胆にデフォルメされた後年のヴァロットン節からは想像できない、写実的なうまさである。
左:《老年のレンブラントの肖像》1889年 エッチング 43.1×34.6cm、右:《ベレー帽をかぶる子ども》1889年 ドライポイント 24.6×21.8cm

珍しい版木(はんぎ)の展示も。木版画の版木は、作品の希少性を守るために一定数刷ったのちに破棄されてしまうことがほとんどなので、こうして実物から作者の手仕事を感じられるのは貴重な機会だ。

《1月1日》のための版木 1896年 18.0×22.5cm フェリックス・ヴァロットン財団、ローザンヌ
14世紀以来、もともとは情報伝達のために発展した木版印刷だが、1880年代末のヨーロッパでは再現や複製のためではなく、自立した芸術作品としての木版画「創作版画(エスタンプ・オリジナル)」が新たに芸術家によって制作されるようになっていた。ヴァロットンは旧世代の伝達手段として忘れられかけていた木版画の、復興の立役者的な存在なのである。
《ユングフラウ》1892年 木版 14.4×25.5cm
スイスの山岳風景を描いた木版画シリーズは、ヴァロットンが木版画家としての活動を本格化させた27歳の頃に制作されたもの。このままアウトドアブランドのステッカーにできそうなくらい、現代的でオシャレだ。
パリ市民を描く、ほんのり意地悪な眼差し
展示風景
第2章では、パリで版画家・挿絵画家として頭角を現したヴァロットンの、表現の妙に触れる。市民の何気ない生活の一コマを捉える……というと心温まる小さな幸せを描き出したかのようだが、ヴァロットンの視線はだいぶクールかつドライである。
《事故(息づく街パリVI)》1893年 ジンコグラフ 22.3×31.1cm
こちらは日常の、交通事故の一コマ。木版ではなく亜鉛板を用いた技法で制作されている。中央の事故現場もさることながら、注目すべきは背景の親子である。頬に手を当てた水玉のドレスの女性からは「あらまぁ」という声が聞こえてきそうだ。小さな点で描かれた罪の無さそうな“キョトン顔”には、傍観者への悪意のようなものが感じられる。
展示風景(壁の作品は《喧嘩あるいはカフェでの一場面》1892年 木版 17.2×24.9cm)
ちなみに同一人物かは不明だが、水玉のご婦人は別作品にも登場する。《喧嘩あるいはカフェでの一場面》で、ケンカに遭遇している女性がそれだ。それでも「あらまあ!」と身をすくめつつ、手の隙間からしっかり成り行きを傍観しているのがコミカルである。
第2章の展示室は壁の一部が窓のようにくり抜かれており、向こう側を通る人が絵の一部のように見える面白い仕掛けになっていた。会場内では他にも、ヴァロットン作品に登場する猫などをモティーフにしたちょっとしたプロジェクションマッピングがあちこちに用意され、鑑賞を盛り上げてくれる。
リズムアンドブラックに酔う!
ヴァロットンの木版画に登場する群衆は、とてもよく動く。作品を追うごとに線を使った表現が少なくなり、まるで切り絵のように、黒い面と白い面が並ぶだけのシンプルな画面へと進化していくのだが、不思議なことに、むしろさらに動いているように感じる。その秘密は、リズムなのではないだろうか。
《婦人帽子屋》1894年 木版 18.0×22.6cm
デパートの帽子売り場の女性たちを描いたこの作品では、画面の左下から右上にかけて「どうしようかしら」「これなんていいかも」「なかなかいいわね(お似合いですよ)」「でも悩むわ〜」の4拍子のリズムが生まれている。その流れは画面を斜めに横切ったのち、また左下の「どうしようかしら」へとループする。女性たちのドレスがあえて黒一色に統一されているのも、楽譜に並ぶ音符のようである。
《赦祷》1894年 木版 17.7×22.0cm
キリスト教の葬儀の一コマを描いた《赦祷》の、椅子のリズミカルな配置もすごい。ガタガタッという音が聞こえてきそうで、つい二度見してしまった。人物全員が後ろ姿で、右上で祈る神父の頭部は非情なまでにスパッとフレームアウトさせられている。この絵は椅子の動きが主役、と言わんばかりの大胆なフレーミングだ。
実はガッツリ社会派でした
展示風景
そんな彼の冷静な観察者というイメージが覆るのが、明確な社会風刺を込めた作品群である。中でも最高に鋭い切れ味の雑誌挿絵『罪と罰』は、会場の壁に投影されるスライドショーで全作品を見ることができる。各作品に添えられたブラックユーモア溢れるひと言も必見だ。ヴァロットンが結構はっきりと作品で意思表示や政治批判をしていたことは、本展で初めて知ることのできた意外な一面だった。
《街頭デモ》1893年 木版 20.3×32.0cm
デモ行進をテーマにした作品で、わざわざ“警官の到着でデモが総崩れになって逃げ惑う瞬間”を選び取って描くのがヴァロットンである。
《祖国を讃える歌》1893年 木版 17.7×27.2cm
特にショッキングなシーンでもないけれど、《祖国を讃える歌》は一度見たらなかなか忘れられないインパクトのある作品だ。大口を開けて歌う者、固く眼を閉じて陶酔する者、何かに耐えているような者、退屈そうな者……、とても雑多でストレスフルな光景だ。これらの作品が制作されたのは1893年。パリの市民社会で現行政治への不信感が高まり、デモとその弾圧や急速な愛国主義の高まりが、ぼんやりとした社会不安を生んでいた頃だ。とても他人事とは思えないような気がする。
これぞ真骨頂! 怠惰と親密
展示風景
第3章でナビ派の他のメンバーによる作品に触れたのち、第4章ではいよいよヴァロットンの木版画の代表作《怠惰》と、連作〈アンティミテ〉が登場する。
《怠惰》1896年 木版 17.8×22.1cm
《怠惰》はその密度にまず驚かされる。画面いっぱいに展開される織物の模様、流れるような女性と猫の体のラインは、視覚的な快楽の塊だ。別にヌードや猫だからイイというわけではなく、描かれたもののイメージを介さず、画面それ自体が気持ちいい。黒と白だけの世界でこんなに装飾的なものが実現するなんて衝撃である。
手前:〈アンティミテ〉版木破棄証明のための刷り 1898年 木版 18.8×22.8cm
〈アンティミテ〉は男女の親密かつ不穏な関係を描いた10点の連作だ。第1作からいきなり《嘘》で始まるあたり、さすがヴァロットンである。画家は当時33歳、画面を黒が占める割合はどんどん高くなり、デザイン性は最高潮に高まっている。
特に注目なのは「版木廃棄証明のための刷り」である。版木を処分した証明として、カットした各作品の部分を寄せ集めて一枚の作品に仕上げたものだ。これが映画の予告編のようで、痺れるほどカッコいい。ヴァロットンの抜群の編集センスは、ぜひ実際にフルの作品と見比べて確認してみてほしい。
特別展示『ヴァロットンとロートレック 女性たちへの眼差し』
展示風景
会場の一角には、三菱一号館美術館の姉妹館であるアルビのロートレック美術館の開館100周年を記念した特別展示『ヴァロットンとロートレック 女性たちへの眼差し』のコーナーも。ここではヴァロットンと、同時代にパリで活躍したトゥールーズ=ロートレックの似たテーマの作品を比較しながら鑑賞することができる。
やっぱり木版画がお好き?
1900年代、結婚によって経済状況が好転すると、ヴァロットンは油彩画や執筆活動などに力を入れるようになり、版画制作から離れる時期が15年ほど続く。最後の第5章では、そんな中でも例外的に引き受けていた大規模な海外の仕事や、富裕層のために制作したオリジナルデザインの蔵書票(本の見返し部分などに貼る、所蔵者を示す名札)などが並んでいる。展示室の中でもひときわ気になるのは、1911年制作の《愛書家》だ。
《愛書家》1911年 木版 22.3×17.5cm
深夜、ランプを掲げて書架を探る愛書家。頭はちょうどランプシェードの後ろに隠れて、闇に溶けてしまっている。蔵書を取りに来ただけで何も怪しいところはないはずなのだが、本を探すにしては体の向きが不自然な気もする。周りの様子を伺っているのか……人に見られたくない本なのだろうか。この作品がどのような背景で制作されたかは残念ながら分からないが、ヴァロットンの“版画お休み期”にポツンと生み出された一作だと思うと興味深い。
〈これが戦争だ!〉シリーズ展示風景
そしてヴァロットンが版画制作に帰ってきたのは、第一次世界大戦勃発がきっかけだった。展示は晩年、彼の最後の連作版画となった1915〜1916年の〈これが戦争だ!〉シリーズで締めくくられている。自身によるデザインのポートフォリオ(連作版画を収めるための紙ケース)も併せて展示されているのでお見逃しなく。飛び散ったインクが血を連想させる、晩年もやはりキレッキレのデザインである。
手元に置きたいデザイン、耳元で聴きたいボイス
ヴァロットン作品はグッズととても相性がいい。ミュージアムショップに並ぶオリジナルグッズはどれもセンスが良く、手元に置きたくなるデザインのものばかり。ショッピングの時間は長めに見積もっておくのがおすすめだ。
ミュージアムショップ
また、本展の音声ガイド(税込800円)について少し触れておきたい。最新の空間音響技術によって、話者が自分の近くを歩き回ったり、耳元で囁いたりするかのような演出が織り交ぜられている。ナビゲーターを務めるのは人気声優の津田健次郎。親密な雰囲気たっぷりのガイドに、ニヤニヤが止まらなかったことを告白する。
『ヴァロットンー黒と白』は三菱一号館美術館にて、2023年1月29日(日)までの開催。

文・撮影=小杉 美香

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