T.C.R.横浜銀蝿R.S.、新譜『All for
RAN』を携えたツアー『嵐追悼 関東
集会 All for RAN』を前に語る胸の内

80年代日本の音楽シーンを沸かせた4人組ロックンロールバンドTHE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIALこと横浜銀蝿。そんな彼らが2020年にデビュー40周年として、嵐、翔、Johnny、TAKUの4人で横浜銀蝿40thとして再集結し、2年に渡りツアーを慣行。そんな40周年を駆け抜けたところに待っていたのは、横浜銀蝿のリーダーでありドラマーであり、翔の実兄でもある嵐の死去という運命のいたずらだった。それを受けて急遽制作されたミニアルバム『All for RAN』が10月26日にリリース、そしてその新譜を携えてのツアー『嵐追悼 関東集会 All for RAN』の開催が決定した。そんな横浜銀蝿から翔とJohnnyに、今だから語れる胸の内を訊いた。
――10月26日にミニアルバム『All for RAN』をリリース。そして、11月2日(水)ティアラこうとうから、関東4ヶ所を回る『嵐追悼 関東集会 All for RAN』を開催する横浜銀蝿。2020年の1年限りで動き出した横浜銀蝿40thは、1年延期して2年間活動して、2021年末で完結。「3人で再び動き出そう」とスタートを切ったところで、嵐さんの体調が悪くなってしまって……。
翔:横浜銀蝿40thは大晦日の配信ライブまできっちりやり切って、解散して。今年の1月から、THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIALという、デビューしたときの正式名称に戻して。Johnnyはまた会社員に戻って横浜銀蝿を裏で支えながら、メンバー3人でやっていこうという話になっていて。まずは4月に嵐さんのバースデーライブがあったんで、それを横浜でやったんですが。その後、嵐さんの体調が悪くなって。12月31日の最後の配信ライブまでは、本当に泣き言も言わずにやりきったんですが。それが終わったら、ガクンと来ちゃったみたいで。
――横浜銀蝿40thをやり切って、安心したところもあるんでしょうね。
翔:その後、6月頭くらいに、ちょっと体調が悪くなって。最後は肺炎だったんですけど、その前に心臓の手術をしないとまずいってことになって。わりとデカい手術だったんですが、「行ってくるぜ!」なんて言って、普通にこなして成功して。「もうすぐ退院だね」とか言ってる時に、肺を悪くしてしまって。それから1ヶ月も経たず、7月4日に亡くなってしまったんです。脳梗塞の時もリハビリやってドラム叩けるまでになったし、俺らにしてみれば、どんな時も復活する人だったんで。俺にしてみれば実の兄貴なんで、すごい強さがあるのも知ってるから。誰もがカムバックしてくると思ってたんだけどね。
――「嵐さんなら大丈夫!」と、誰もが信じて疑わなかった?
翔:そう。だから今思うとね12月31日まで頑張って、40thをやり終えて、元々の横浜銀蝿に戻って、自分のバースデーをやりきって。本当に生涯現役を貫き通したんだなと思って、ある意味、嵐さんらしいけど。正直な話を言うと、まだ67歳ですから。まだまだ、一緒にステージに立ちたかったなと思うし。今もまだ、全部抜けきれてないし。やっぱ、嵐さんがいないと寂しいですよね。
Johnny:僕は横浜銀蝿40thをやるまで、嵐さんと20年近く会ってなくて。最初、嵐さんが体調良くないんで、ステージでは2曲ぐらい歌って、あとは物販とかやるって話だったんですよ。それが横浜銀蝿40thが始まってみたら、最初から最後までステージに上がっててビックリしました。2019年3月に久しぶりにみんなとセッションやって、そこで横浜銀蝿40thをやる流れになったんですけど。その時に嵐さんがインフルエンザにかかって。それが原因で人工透析が始まったんです。それで「40th始まっても、ツアーとか地方は行けないね」みたい話をしてたんですけれど。「腹膜透析という自宅で透析が出来るってやり方がある」って話になって。そのおかげで地方も行けたし、2年間やりきることが出来たんです。ただ、腹膜透析っていうのは2年が限度らしくて。去年の12月に横浜銀蝿40thをやりきった後、1月に手術をやって。そこからまた普通の透析になったんですけど、それも体が慣れるまで半年ぐらいかかるんです。
――うわ……大変ですね。
Johnny:なので少しお休みして、この秋のツアーから復活という話だったんですけど。それでも地方とかは行けないじゃないですか? だから今考えると、横浜銀蝿40thの2年間というのは、神様が「お前ら、もう1回やれよ」って、4人に与えてくれた貴重な時間だったんじゃないかと思って。その2年が早くても遅くても出来なかったわけですから、すごく運命的ですよね。横浜銀蝿って、デビューした時もそうだったんです。1980年9月、ツッパリスタイルでデビューするんですけど、その頃って校内暴力とか暴走族が全盛期で。そういう社会現象が残ってる世の中で、俺達みたいな風貌したのが出てきて、若者の代表だみたいな感じで一気にブレイクしたんだけど。それが2年早くても遅くても、大きくブレイクしなかったと思うんです。だからまた神様がそんなタイミングを与えてくれて、嵐さんと一緒にできたことが、すごく良かったし。この2年間があったから、俺達4人の横浜銀蝿を完結出来たと思ってます。
翔:俺とJohnnyは高校からの同級生だけど、嵐さんは実の兄貴だから64年間一緒にいて。Johnnyはマブダチの兄貴ってところで、昔から嵐さんと遊んでた仲みたいなのもあって、その縁が40年間続いて。Johnnyが帰って来てくれて、すごい嬉しかったと思うし。嵐さんもこの2年間があったから、きっと悔いはないと思うよ。
――Johnnyさんは横浜銀蝿40thで2年間走り抜いてみての感想はいかがでしたか?
Johnny:音楽を始めた頃って、憧れのバンドがいたりして、あんな音楽やりたいなと思って、「カッコいいよね!」って始めるじゃないですか? それは人にどう思われようと、時代に合ってなくても、売れる売れないとかも関係なく、「好きだから」って理由で音楽を始めますよね? それが仕事になると、いい悪いだけじゃなくて、売れる売れないの判断でやるから辛くなってくるんですよ。それが最後の最後に横浜銀蝿40thで、「これ、カッコいいよね?」って言える原点、高校生の頃みたいな本当にやりたい音楽が出来たことが、本当に幸せだったなと思って。自分の原点、スタートしたときの気持ちでこの2年間出来たんで、その場所に呼んでくれたみんなにすごく感謝してます。
翔:だから、コロナがなかったらどうかとかも、全然考えることはないですね。「これを乗り越えるにはどうしようか?」ってみんなで話してるのも楽しかったし、コロナがあったから逆に1年延長して、みんなと一緒に何か1つのものを作る感覚だったりとか、「参っちゃうよね」とか「フザケんなよ」って会話してることが楽しかったから。マスクしろ喋るなって中でライブをやるのも、最初は「そんなことあんのかよ?」と思ったけど、「だったら配信をやろうよ」ってJohnnyが言い出して。「そんなの嫌だよ、誰もいないところで『サンキュー!』って言って、シーンとされても冷めちゃうよ」なんて言ってたんだけど。「ファンの子たちはいまの横浜銀蝿を見たい聴きたいって気持ちがあるんだ」っていうから、「じゃあやろうか」って配信ライブをやることになって。「じゃあやるけど、条件がある。パッチを持ってきて、それを踏むとお客さんの歓声や笑い声や「翔く~ん!」って声が出るようにしてくれ。じゃないと気持ちが盛り上がらないから」とか言って、自分たちも楽しむことを考えて。いざ配信ライブをやってみたら、ファンもすごい喜んでくれたし、横浜銀蝿は昔から三三七拍子だったりとか、掛け声の遊びがあったりとか、そういうことをしてきたから。みんなは配信を見ながら家でそれを体験して、次に動く銀蝿を見に来た時には「喋れないから、手拍子足拍子でこんなことしよう」とか、いろんなことを考えて試してみたのも、振り返ればいい思い出だったと思うし。
――ライブが出来ない状況で、「どうしよう?」と苦悩するのも4人で出来たし、配信ライブという全く新しい試みも4人で出来たし。それを振り返った時に「楽しかった」と思えるっていうのが、本当に素敵です。
翔:やりたいことをバンバン言ってたら、みんなが答えてくれるしね。配信をやる時、「こんな感じで、こうしようよ」とか言ってたら、Johnnyが全部汲んでくれて。配信当日になったら10台くらいカメラが入ってて、「なんだよ、今日やけにスタッフが多いな。なんでこんなになってるんだよ?」って言ったら、「自分があれもやりたい、これもやりたいって言うから、こんなになっちゃったんでしょ?」って。だから、「言ってよ! それ、やりすぎだって」って言ったんだけど(笑)。俺が「こんなのができたらいいね」ぐらいで言ってたことも、真剣に考えてると思ったから、予算を捻出して実現してくれて。それはすごい嬉しかったし、楽しかったですけどね。
――Johnnyさんは横浜銀蝿40thの活動で、特に印象に残ってることはありますか?
Johnny:俺は30才の時、表舞台から裏方のレコード会社に入ったんですが。3年3ヶ月、横浜銀蝿をやって。その後、ソロでやったり、作曲家やってても、当時ほどは売れなくて、けっこう大変だったんです。で、その時代も高校の時からずっと付き合ってる彼女、いまの奥さんが「あなたの夢を応援する」みたいな感じでずっと支えてくれて。29才の時に子供が出来て、ここからは家族のために生きようと思って、レコード会社に入ったという経緯があったんですが。Zeppのツアーには息子や娘が来てくれて、「オヤジ、カッコよかったよ」と言ってくれたのがすごい嬉しかったですね。家内も「カッコ良かった」って言ってくれました(笑)。
――うわぁ、それは感慨深いですね!
Johnny:子どもたちはYouTubeとかで見てたり、当時の姿は知ってると思うんですけど。生の親父が演奏してる姿を見せられて良かったですね。
翔:昔の映像を見るのと、「これだ!」って生の演奏を見せるのでは、全然違うもんね。
Johnny:あとやっぱり、ライブは楽しかったですね。ライブって、やっぱり自分でやるもんだなと思いました。もちろん、自分が関わってるアーティストがどんどん大きくなって、デカいステージでやれるようになるって幸せや喜びもあるんですけど。自分でやるっていうのはそれとは別の次元というか、全く別物ですね。やっぱり、楽しいです。
――お話を聞いてると何度目かの青春じゃないですけれど、リアルな青春時代があって、横浜銀蝿でてっぺん取った熱い青春があって。歳を重ねて訪れた、横浜銀蝿40thの2年間という青春があって。それがすごく羨ましいし、青春って儚いものなんだなと思いました。
翔:儚いから美しいっていうのはあるよね。だからって、本当にいなくなることねぇじゃん!って気持ちもすごいあるけど。どっかでファンの子たちにも決着つけてあげたいし、俺達も想いを届けたいと思ってて。新しいミニアルバム『All for RAN』にはそんな思いを込めた曲も出来たし、嵐さんが今までファンのみなさんに歌ってきたきた曲もあるから。それを届けるのが、今回のツアーの目玉になるかなと思ってます。人は二度死ぬって言うじゃないですか? 一度は本当に死んだ時で、二度目はみんなに忘れられた時。体がなくなっても、魂は残ってるみたいなのがあって。嵐さんが横浜銀蝿のリーダーとしてやってきたこと、嵐さんが作ってきた音楽は、俺達が横浜銀蝿をやめない限り、生き続けると思ってるから。「俺たちが踏ん張って横浜銀蝿をやっていくことが、嵐さんがみんなの思い出に居続けるってことなんだ」ってTAKUとも話してるんです。
――横浜銀蝿として走り続けて、嵐さんを語り継いでいくことが、残された者の使命だと。
翔:だから、「今ハマってることは?」って聞かれたら、TAKUと2人で「長生き」って言ってます(笑)。嵐さんのこともあったから、もう一度自分の体をちゃんとして、横浜銀蠅を少しでも長く続けなきゃいけないから。「目指すところは長生きだな!」って。
――本来だったら嵐さんと一緒に回る予定だった11月のコンサートも、嵐さんの魂を背負って気合い十分で挑みたいですね。
翔:そうだね。メンバーもファンも含めて、嵐さんは誰もが認めるリーダーだから。11月からのツアーに関しては、嵐さんの追悼というか。きっと嵐さんは「行けるところまで行け!」って言ってると思うから、嵐さんの想いをきっちり引き継いでやりたいと思ってます。嵐さんがまだ調子良かった4月終わった頃に、「ぼちぼち、JohnnyとTAKUとアルバム制作を始めようか」って作り始めたところで、嵐さんが亡くなってしまったもんだから。それまで作ろうと思ってたアルバムを一度引き下げて。「嵐さんのためのアルバムを作ろう」と、改めて作り直して。
――そういう経緯があったんですね。
翔:だから急遽、ミニアルバムになりましたけど。俺とTAKUで2曲ずつ出して、嵐さんが過去に歌ってた曲も収録して、“嵐 追悼アルバム”みたいになりました。それらの曲も引っ提げて、嵐さんの追悼コンサートをやろうと思ってます。よくある“One for All,All for One”って言葉をもじった、『All for RAN』ってタイトルを思いついたので、急遽、ツアータイトルもミニアルバムのタイトルもそれにして。俺たちは嵐さんの背中を見て色々教えてもらったから、今回は逆に嵐さんのためにファンに何かやりたいというのが、ミニアルバムやツアーに向けての意気込みです。
Johnny:まずは10月26日に嵐さんを偲んだミニアルバム『All for RAN』を出して、それを掲げて11月2日(水)ティアラこうとうから、12月18日(日)日本橋三井ホールの関東4ヶ所で『嵐追悼 関東集会 All for RAN』を行って。その間に名古屋、大阪でも嵐追悼集会を行うんで。みんなで嵐さんを偲んで盛り上がってもらえれば、嵐さんもそれが一番嬉しいと思うんで。ミニアルバムとライブに期待して下さい。

取材・文=フジジュン

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