Official髭男dism、BE:FIRST、SixTO
NES、V6、あいみょん等のサポートや
楽曲提供を行う宮田’レフティ’リョ
ウ。マルチな活動をしながら挑戦を続
けるそのヴィジョンに迫る【インタビ
ュー連載・匠の人】

音楽プロデューサー、編曲家、作詞家、作曲家、ベーシスト、キーボーディスト、ギタリスト、マニピュレーター……肩書が多岐にわたる宮田’ レフティ’ リョウは、まさしく音楽のプロフェッショナル=匠の人だ。eillMISIASuperflysumikaCHEMISTRY、V6、あいみょんALIyamaBE:FIRST、SixTONESなどへの楽曲提供やプロデュース/編曲を手掛け、Official髭男dism藤巻亮太柏木由紀等のライブサポートも行っている。海外クリエイターとのコライト、クリエイターズユニオン「REVEL MUSIC」の旗揚げ、アーティストとファンが音源の権利を共同保有できるマーケットプレイス「OIKOS MUSIC」の始動など、新たな挑戦も重ねている彼に活動の軌跡、見据えているビジョンについて語ってもらった。
――最初に触れた楽器は何だったんですか?
小学校の低学年から高学年くらいまでエレクトーンをやっていました。小5くらいからピアノに転向したんですけど、あんまり肌に合わなくて結局やめちゃったので、クラシックはあまり通っていないです。
――その頃の印象深い思い出というと?
僕が通っていた学校がキリスト教系で、教室にオルガンが置いてあったんです。小5、小6くらいの時、流行っている曲をオルガンで弾くと女子にモテるっていうことに気づいてしまい(笑)、オルガンを弾いていると人が寄って来て盛り上がるのが楽しかったですね。
――(笑)最初にバンドを組んだのはいつですか?
中学校2年生くらいの時に学園祭で先輩がGLAYのコピーバンドをやっているのを観て、「これはバンドをやらなければいけない」っていう使命感に駆られて、同じようなことを思っている人たちとバンドを組みました。当時、僕はキーボーディストで、THE YELLOW MONKEYザ・ハイロウズのカバーをやっていました。そういうことをしていく内に「キーボードって前に出られないな」って思い、高1くらいの時に部室に置いてあったベースを弾くようになりました。
――「音楽を職業にしたい」という意識はバンドを始めた頃には芽生えていました?
そうですね。小6の時の担任の先生に「宮田くんは将来キーボーディストになるんじゃないかな」って言われたことがあって、それが僕の中にずっと残っていたんです。ベースに転向してからも「音楽を職業にするのかも」っていう朧気な意識がずっとあって、音楽以外の道がイメージできなくなっていたというか。
■何としても曲を供養するのが大事だと思います
――音楽を仕事にする第一歩はバンドでのCDデビューだったようですが、高校在学中だったんですか?
はい。『TEENS' MUSIC FESTIVAL』の関東甲信越大会の決勝まで行ったんです。その時に声をかけてくださった会社からCDデビューすることになりました。高校卒業のタイミングくらいでしたね。
――音楽業界にいろいろなお仕事があることも、その辺りから知るようになったんじゃないですか?
そうですね。当時、agehaspringsの田中ユウスケさんがプロデューサーとしてついてくださって、僕らを見つけてくださったのも田中さんだったんです。田中さんのお仕事を見て初めて「音楽プロデューサー」という仕事を意識するようになりました。レコーディングエンジニアさんとか、様々な音楽の仕事のことを知ったのもその頃です。
――いわゆる「裏方」と呼ばれる職業に興味が芽生えました?
「プロデューサーになりたい」とかまではまだなかったです。やっていたバンドが売れると思っていたので(笑)。でも、バンドの糧になるように様々なことを身につけていくようになりました。当時のエンジニアさんが「メンバーでDTMをやれる人がいた方がいいと思う」って言ってくださって、いろいろ手ほどきを受けてやり始めたのもその頃です。
――バンドでの活動は、何年間くらいだったんでしょうか?
7、8年間でしたね。26歳くらいの頃に活動休止に至り、軽く路頭に迷いながらも興味があったゲーム音楽や映画音楽の制作会社に履歴書を送りました。でも、どこにも引っかからないまま、少しずつ作家業をやり始めました。そういう中で音楽プロデューサーの松岡モトキさんに紹介していただく機会があったんです。松岡さんはご自身ではDTMに触れない方で、編曲のマニピュレーターをいつもつけていたんですけど、ちょうど人を探していらっしゃったんです。そんな頃に僕の曲がコンペで決まったりもしたんですけど。
――コンペに送ってもなかなか採用されないのは、クリエイターのみなさんにとって非常につらい体験だとお聞きしています。
そうですね。でも、僕は初めて出したコンペで通ったんですよ。『テニスの王子様』の主人公の越前リョーマくんの曲(「ありったけの気持ち込めて」)です。当時のバイト先に作曲家やダンサーがたくさんいて、「こういうコンペがあるから出してみたら?」って言われて出したら通ったので、「いけるんじゃない?」と思いました。でも、そこからが大変でしたね。なかなか決まらなくて精神的に擦り減りましたから。僕は最近オンラインサロンをやっていて、駆け出しのライターから相談をもらうことがあるんですけど、決まるのかもわからないことに取り組み続けるってやっぱりきついと思います。
――その大変さに向き合い続けるためには、どうしたら良いと思っていますか?
相談を受けたら、「音楽を作ってるやつが偉くて、選んでる人は何も偉くないっていうマインドを持ってやりなよ。選んでる方が悪いって思うマインドは大事だよ」って言ってます(笑)。あと、何としても曲を供養するのが大事だと思います。僕はコンペに出し始めたのがボカロをやりだしたタイミングだったんですけど、コンペで落ちた曲を供養するためにボーカロイド化してニコ動に上げたらヒットしたっていう話を結構聞きますね。そういう音楽のアウトプットの仕方も考えられると、「コンペ落ちた。ラッキー!」みたいな思考にいくこともできるので、お勧めしたいです。
■ヒゲダンの「Cry Baby」はひとつの発明みたいなもの
――コンペやマニピュレーターとしてのお仕事を重ねながらeillさん、MISIAさん、Superfly、sumika、CHEMISTRY、V6、あいみょんさんとか、様々なアーティストへの楽曲提供、プロデュース、編曲、ライブサポートのお仕事をするようになったんですね。
はい。これは人の繋がりです。ありがたいことですね。松岡さんとケラケラの楽曲をアレンジしている時に知り合ったスタッフさんから「宮田くん、パソコン得意じゃん? 鍵盤弾けるんだからマニピュレーター兼キーボーディストでライブサポートやってよ」っていう話になったのが、サポートのステージデビューです。27、28歳くらいの頃ですけど、それが今のヒゲダンとかに繋がっていきました。
――Official髭男dismとのご縁は、その頃まで遡るんですね。
そうなんです。ケラケラで島根の学園祭に出た時、僕がぶん回して投げたタオルをキャッチするのをメンバーが見て、「ヒゲダンが売れたら宮田さんにサポートキーボードをお願いしたいね」って話をしてくれていたらしいです。当時のヒゲダンはマネージメントと契約する前の段階で、「いいバンドがいるので宮田さんも観に行きませんか?」って誘われてライブを観ました。「めちゃくちゃいいバンドだから契約した方がいいんじゃないですか?」っていう話をしていたら、気づいたらこういうことに(笑)。元々彼らはAORをベースにしたグッドミュージックを作っていましたけど、洋楽的エッセンス、モダンミュージックの作り方をバンドに取り入れてからは、まさに今の僕が作りたい音楽なんです。そういうアーティストに関わることができてすごく嬉しいです。
――ものすごい転調をする「Cry Baby」とか、聴く度に驚かされます。
あれはひとつの発明みたいなものだと思います。僕も初めて聴いた時にびっくりしました。リリースする前からサポートミュージシャンとして楽曲をいろいろ聴かせてもらう機会があるので、「これがリスナーにどう届くんだろう?」って想像できない感じがありました。そういう楽曲が評価されるようになったわけですからね。毎回チャレンジと実験をして今までにないサウンドを形にしているのはかっこいいですよ。ヒゲダンメンバー全員の音楽性の高さは一緒にライブをやりながらも感じています。
■BE:FIRSTの「Betrayal Game」では日高くんのプロデューサーとしてのすごさを感じた
――ヒゲダンとかのサポートのお仕事と並行して、作家としてもご活躍ですが、作詞も手掛けていらっしゃいますね。例えばV6の「It's my life」とか。
これもコンペでした。どちらかというと僕は作詞の人というよりはアレンジメントや音楽プロデュースの人として自認しているんですけど、そういう機会をいただけるのはとてもありがたいことです。歌詞を書くのは作曲やアレンジメントとはまた別の脳を使う感覚があって、それがすごく楽しいんですよ。
――他にも、SixTONESの「Curtain Call」の作曲クレジットは「Mattias Olofsson /Anders Dannvik/Ryo'LEFTY'Miyata」で共作ですが、歌詞と編曲は宮田さんが担当されています。
はい。僕は数年前からスウェーデンでコライトをするようになって、そこでマティアスとアンダースと書いた曲です。先に楽曲が決まって、作詞家を探しているということだったので、「僕にトライさせてください」とお伝えしました。
――楽曲提供に関しては、最近ですとBE:FIRSTの「Betrayal Game」も印象的です。
eillが日高くんとセッションして作ることになって、僕も誘ってくれたんです。僕がメインテーマみたいなベースを弾いて、「それいいね!」みたいなところからすごいスピードで作ったんですけど、最終的にそのスケッチから形にしていく中で、日高(光啓)くんが歌割りとかも含めてメンバーの特色を活かしてくれました。セッションの段階から彼の中でイメージがあったんだと思います。日高くんのプロデューサーとしてのすごさを感じました。
■最近は「洋楽を書こう」というより、「J-POPを世界に輸出する」ことを考えています
――先ほども少しお話に出ましたが、2018年にスウェーデンのクリエイターのみなさんとコライトをしたんですね?
はい。「グラミー賞を獲りたい」と思ったのがきっかけです。2017年からそういうことを言っていて、1年くらい経過してから「俺、グラミー賞を獲る努力を何もしてないな」と思って、「じゃあ海外に行くか?」と。なんでスウェーデンなのかというと、僕はそもそもスウェディッシュポップが大好きで、J-POPのクレジットを見るとスウェーデンのライターがいたからです。「多分、いいライターがたくさんいるんだろうな」という感覚でした。スウェーデンは世界第3位の音楽輸出国で、バックストリート・ボーイズの楽曲を手掛けているマックス・マーティンとかも含めて、たくさんのグッドミュージックを生み出している国だと後々になって知って、「ああ、間違ってなかったんだな」と思いました。もともと洋楽は僕の基盤になっていて、「洋楽を作りたい」という気持ちはずっとあったんですよね。
――その基盤が「グラミー賞を獲りたい」に自ずと繋がったということですね。
はい。「グラミー賞を獲るためには海外ライターとコライトする→海外ライターとコライトをしてワンチャン、そういう中でアリアナ・グランデやエド・シーランと繋がって、曲を書いて、コライターのひとりとして名を連ねたらグラミー賞を獲れる」みたいな道筋を2018年、2019年頃に思い描いていました。
――コライトをするようになって、何か感じることはありました?
僕がコライトをしているライターはJ-POPやK-POPの楽曲を書いているライターがほとんどで、結局海外に行きつつも日本の仕事をやっているみたいなところに違和感がありました。もっとUKやUSにピッチできる環境でやりたかったので。でも、そういうコライトをスウェーデンのライターが日本から来た僕とやるメリットはないんです。だから苦悩したこともあります。
――迷いから抜け出すことはできましたか?
はい。今年の7月から40日くらいスウェーデン、フィンランド、スコットランド、イギリスとかを回りながらJ-POP、K-POPをターゲットにした楽曲をいろいろ書いたのが大きかったです。バックストリート・ボーイズの「IWant It That Way」を書いたアンドレアス・カールソンともご一緒する中で、彼らがJ-POPを本当に好きだということに気づいたんです。今の洋楽はヒップホップがベースだったり、4コードのループだったり、基本的にはバックグラウンドミュージックとして機能するものを作るのが最優先なんですよね。一方でJ-POPは複雑なコード進行、複雑な楽曲構成なんです。「そういうのがJ-POPの良さだよね。そこが好きで書いてるんだ」っていうライターの話をいろいろ聞いて、「J-POPは世界に誇るべき財産なのでは?」と思うようになりました。だから最近は「洋楽を書こう」というよりは、「J-POPを世界に輸出する」ということを考えています。世界に輸出できるアーティストをプロデュースするのか、そういう楽曲を作るのかは今まさに模索しているところです。K-POPがBTSでやっていることに近いんですけど、また別の形があるのかもしれない。いずれにせよ、日本の音楽を世界に輸出していくのが今の僕の目標です。
――ネットを通じて世界中の音楽を手軽に聴けるようになっていますから、そういう動きは増えていくでしょうね。
そうだと思います。最近はK-POPも含めて、世界的に見ても言語を超えているバンドとかがいますからね。例えばマネスキンもイタリア訛りの英語で歌っていますけど世界的に受け入れられていますし、日本語、日本語訛りの英語でも通用するように感じます。日本人は僕も含めて海外コンプレックスがすごくあって、「洋楽は優れていて日本は劣っている」って思いがちですけど、実際に海外のライターとセッションを重ねる中で、通用する部分はあると強く感じました。「世界との距離はないんじゃないかな?」って思うようになりました。1クリックで全世界に向けて発信できる環境が整っているのに、そこをターゲットにしないで音楽を作るのはあんまり意味がない。そもそも「外国向け」「日本向け」っていうカテゴライズすらないのが理想だと思っています。
■取捨選択をしなければいけない岐路に立たされています
――宮田さんはここ数年、新しい試みをいろいろしていらっしゃいます。2020年にはクリエイターズユニオン「REVEL MUSIC」を立ち上げましたが、どのような経緯だったんでしょうか?
スタジオを作ったというのと、僕の周りのクリエイター、ミュージシャンたちが個人事業主としていろいろ活動することに名前をつけたいと思ったのが「REVEL MUSIC」立ち上げのきっかけです。そういうことのためには法人を作るのがひとつ手段なのかなと思いました。
――オンラインサロンでソロアルバムの制作を公開しているのも面白い動きです。
今も作っている最中で、永久に完成しないんじゃないかなって思っているんですけど(笑)。「楽曲を作るプロセスがひとつのエンタテインメントになり得ないだろうか?」という実験でもあるんですが、レスポンスを見ると可能性を感じます。あと、新たに「OIKOS MUSIC」という法人も立ち上げました。僕は音楽プロデューサーとして関わっているんですけど、「NFTを使って原盤の一部をユーザーに販売することによって収益を得て活動していく」っていうことを始めています。
――今後に関して現時点で何か具体的に思い描いていることはありますか?
スタジオミュージシャン、バックアップミュージシャンとしての活動があり、作曲家、作詞家、ソングライターとしての活動もあり、サウンドプロデューサー、アレンジャーとしての活動もあり、プラットフォームも始めた。その中で自分の作品を作ってもいます。音楽を軸としていろいろな顔があって、どれも大切な活動なんですけど、その全てにフルでコミットするなら一生かけても足りないということに気づいてしまいました(笑)。取捨選択をしなければいけない岐路に立たされているんですよね。でも、今年久しぶりに海外で20セッションくらいをやって、海外のライターとのコライトにめちゃめちゃ喜びがあるんです。そういう活動がベースになるようにしていきたいと思っています。「誰かに楽曲を提供する」ではなく、「自分でプロジェクトをやる」「プロデュースするアーティストを作る」というような必要を感じるようになっています。それで世界を目指すのが、今の僕が思い描く最終到達点なのかもしれないです。
――そのビジョンの実現は、日本の音楽業界にとっても非常に意味があると思います。
こういうことの何歩も先を進んでいるのが、例えば日高くんですよね。世界を最初から見据えて作ったのがBE:FIRSTですから。基本的に「生きている」って「社会貢献をどうできるか」だと思うんですけど、僕にとってそれは音楽しかないんですよ。だから日本の音楽業界に貢献することを考えると、何とかして夢を実らせていきたいです。この記事を読んで感じることは十人十色だと思いますけど、「こういう動き方をしている人がいるんだ?」「そんなことやっていいんだ?」って、いろんな人に気づいてもらえると嬉しいですね。
取材・文=田中大

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