飛び抜けた才能ゆえ失脚の憂き目も経
験。音楽家・幸田延が牽引した日本の
西洋音楽黎明期

ヴァイオリン弾きの卑弥呼こと原田真帆です。放課後の音楽室で、お茶を淹れながら「今の教科書」に載っていない音楽の話をしたいというコンセプトでお送りするこの連載。第3回目の本日は、日本人の音楽家を取り上げます。ヴァイオリニストとしてウィーンに学び、帰国後ピアニストに転身した音楽家・幸田延(1870-1946)のご紹介です。

本邦初の音楽専門学校の第1期卒業生
時は明治時代。世は文明開花に沸いていて、西洋文化をいかにいち早く取り入れられるかと、様々な分野で試みがおこなわれていました。牛鍋を食べてみたり、洋服を取り入れてみたり、外国の言葉を学んでみたり……。
幸田延は明治3年(1870年)の生まれ。教育熱心な両親のもと、3歳には箏と唄を習い始めました。その甲斐あって、政府が招聘した音楽家ルーサー・W・メーソン(1818-1896)が小学校へ出張指導にやってきたときに、延は音感のよさを買われて、ピアノの稽古を勧められます。
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延はメーソンやその助手・中村専(生没年不詳)や瓜生繁子(1861-1928)に1年ほど個人レッスンを受けたあとで、新設されたばかりの「音楽取調所」に中途編入します。1882年、延は13歳の頃です。この教育機関はその後「音楽取調掛」「東京音楽学校」と名前を変えて、現在の「東京藝術大学音楽学部」になりました。発足当時は生徒全員がピアノとヴァイオリンと作曲を学んだようですが、延は特にヴァイオリンを専門にして修行します。そして1885年には最初の卒業生として式次第の中で演奏をしました。その後「研究科」という上の課程に進学したものの、同時に助手にも任命され、指導者側に回ることになります。
最初の生徒の中には、実の妹である幸田幸(こう・1878-1963)もいました。幸が姉のヴァイオリンのレッスンについていったときに、指導していたルドルフ・ディットリヒ(1861-1919)は、幸の手がヴァイオリンに向いていると思って、彼女にもヴァイオリンを勧めました。やはり秀でた才能を見せた幸も、その後母校の指導者になりますが、それは姉・延が6年間の欧米留学に出かけ、戻り、その後自分もベルリン留学を経たあとのお話です。
初の音楽留学生として、ボストンとウィーンへ
1889年、日本政府は延をアメリカ・ボストンとオーストリア・ウィーンに派遣することを決定します。ボストンは恩師メーソンがいたニューイングランド音楽院があるため、敬意を表しての訪問だったとも言われますが、延は音楽院で1年間ヴァイオリンを専攻し、ピアノや英語も学びました。一旦日本を経由してから、今度はウィーンへ向かいます。当時は飛行機などありませんので、どちらの旅ももちろん船旅。ヨーロッパへの航路は、快適なばかりではなく、体調不良に見舞われました。
延はウィーン音楽院でヴァイオリンをヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(1855-1907)に師事します。ヘルメスベルガー2世は、フリッツ・クライスラー(1875-1962)やジョルジュ・エネスク(1881-1955)の師匠です。延はさらにピアノ、和声、対位法を学びます。ドイツ語環境だったにも関わらず、持ち前の勤勉さで優秀な成績を叩き出したそうです。
ウィーン音楽院在学中、延はロベルト・フックス(1847-1927)について作曲もします。それが今回ご紹介したい「ヴァイオリン・ソナタ第1番」です。この曲は、日本人が書いた西洋クラシック音楽の形式の器楽曲としては、最初の作品です。
このソナタに使われている変ホ長調という調性は「英雄の調」「勇ましい調」と言われていて、モーツァルトの晩年の名作・交響曲第39番やベートーヴェンの「英雄」交響曲は変ホ長調(Es Dur)で書かれています。ゆえにリヒャルト・シュトラウスは『英雄の生涯』を変ホ長調にしたと書き残しています。なお延がこのソナタを作曲したとき(1895年)に知っていたかどうかはわかりませんが、1887年から88年にかけて書かれたシュトラウスのヴァイオリン・ソナタも変ホ長調です。
ただでさえ鎖国を200年していたあとで、しかも海の旅に危険が伴った時代に、たくさんの人の期待を背負って海外留学に出かけることには、大きな勇気を必要としたでしょう。延の日記を辿ると、責任感が強く、難題に対しても自分を奮い立たせて挑むようなパーソナリティがうかがえます。生真面目な第1楽章、慈しんで懐古するような温かい第2楽章、そして開放的な第3楽章から成るこの曲は、日本から勇ましく出かけて、ウィーンで音楽を学ぶ悦びに溢れる延自身の心情が反映されているのではないかと、筆者は考えます。
「フェイクニュース」で作られた失脚劇
5年間のウィーン留学を終えて帰国した延は、日本の聴衆から大歓迎を受けます。そしてヴァイオリン教師として自身が身につけたものを惜しみなく学生に与えながらも、さらなる勉強を怠りません。1898年に東京音楽学校の講師となったラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)のピアノレッスンをわざわざ受講し、そこで「ピアニストに転向しては」とアドバイスされます。「ヴァイオリンは妹に任せられる」として、延はここでさくっとピアノに専門を変えます。
それまでも、妹にヴァイオリンを弾かせて自分がヴィオラを担当して室内楽を演奏していたくらいですから、妹の腕を信頼していたのでしょう。また本人の凱旋帰国の演奏会ではヴァイオリンとピアノの両方を演奏していますし、もともとピアノもよく弾けたようです。その後は自分のソロでピアノ協奏曲を披露したり、妹の伴奏をしたり、ピアニスト・ピアノ教師として活躍します。
しかしこうした延の活躍をよく思わず、悪い計画を立てている二人組がいました。時の校長・湯原元一と、オルガニストで教授の島崎赤太郎です。ふたりは手を回して、雑誌や新聞に今で言う「フェイクニュース」のようなものを流します。批評家が延に関するあることないことを書き立てて、ネガティヴキャンペーンをおこなったのです。うちひとつにこんなものがあります。
然らずんば女史の存在も甚だ危い。女史は音楽学校の爲めでなく、我國音楽界の爲めに、遙々洋行して來られた筈の人である。然るに其の人が四十二年の今日に至るまで、一の責任ある作曲をも公にしないのは、吾人以て不可思議とせざるを得ぬ。
– 無頭「不見識なる音楽家」(『帝國文學』第十五巻二号、明治42年2月)
延がこれまでちっとも作品を発表していないなんて、音楽家として能力が劣っているのではないか。そんな言いがかりのような批評が掲載されたのが1909年。しかし延は先にご紹介したソナタを1887年に書いていますし、1897年には演奏会で取り上げられた記録があります。おわかりの通り「無頭」の発言は勘違いもよいところですが(しかも無頭が誰であるのかは謎)、延のほうは一つひとつへの反論は諦めていたように見えます。というのは、反論文書は全然出てきません。
こうしたバッシングが続いたのち、ついに延は休職願いを出します。これも形式上は延が提出したことになっていますが、実質仕向けられたようなもの。このときの一連の流れを、作曲家・山田耕筰が以下のように書き残しています。
いつたい、私は幸田先生其の他の女教授諸氏に充分な尊敬を払つてゐたが、音楽学校が女の手にのみゆだねられていゐることは、技術的にはいヽとしても、真の学術的、芸術的音楽の発達の為に、果して悦ぶべきことであらうか否かといふ点に、少なからぬ疑問を抱いてゐた折からとて、当時湯原校長や島崎赤太郎氏等によつて演ぜられた芝居がかなり不手際だつたにも拘はらず、多年音楽界に甚大な感化と教導とを与えて居られた幸田先生に対する仕打ちのよくなかつたのを知りながらも、私は島崎先生の御帰朝と就任とに非常な期待を持つていた次第である
– 山田耕筰「楽壇十五年」
山田耕筰の言う「芝居」というのは、一連の「フェイクニュース」のくだりのことか、あるいは恐らく、先のふたりが開いた記者会見のことではないかと思います。1909年9月、延はついに休職しますが、これを説明するために記者会見がおこなわれるほど、このニュースは世間の注目を集めました。会見に臨んだ湯原と島崎は記者からの視線に耐える自信がなかったのか、記者のほうではなく、湯原は真横に座る島崎に向き合うように座って、まるでふたりで内密に話すかのような語り方で会見をしのぎました。しかも湯原は「延が何度も辞意を伝えてきたが自分は引き留めた」というストーリーをでっちあげます。これはふたりが共謀して仕組んだ「芝居」でした。
延は1年休職をして、留学時代以来の欧州に赴いて「研修旅行」をおこない、帰国したのち、正式に職を辞することになりました。
この旅行中、延は日記を残しています。10月に出かけて、ベルリンに到着した11月3日から綴られた日記には、現地で会った人や訪れた演奏会のことが記録されています。翌年3月の記録では、「とても悪い知らせを東京から受け取った」と書き残して、そこから数日「気分が悪い」と書き連ねていまが、その理由は書かれていません。きっと日記を誰に見せるつもりもなかったでしょうし、詳しく書く必要もなかったのでしょうが、これだけ読むと「もう教壇に戻れないという知らせかな……」と邪推してしまうのは悪い読者でしょうか?
実は視察中に『第九』も歌っていた
この研修旅行で得た音楽的知見は彼女の音楽家人生に大きな影響を及ぼしたと言えましょう。たとえば欧州滞在中は現地で合唱サークルに参加して、どうも日本人として最初に『第九』を歌ったようですし、ベルリンではピアノと声楽の個人レッスンを受けたり、ウィーンでは音楽学校を視察するために許可取りで奮闘したり、パリ音楽院の卒業試験をのぞいたり、ロンドンでかつての恩師に会って現地の音楽事情を聞いたりと、かなり精力的に動いていたのです。
結果的に帰国後はフリーの音楽教師として仕事をしながら、自宅に音楽堂を作って、演奏会を催しました。学校での教職からは離れても、皇族の個人教授に出かけ、自宅でたくさんの生徒にピアノの指導し、生徒をオーケストラと共演させる機会まで設けるなど、自身の更なる研鑽(けんさん)と後進の指導に力を尽くしました。
延が還暦を迎えた1931年に、東京音楽学校の講堂にて、卒業生の会「同声会」と延の教室「審声会」の主催で、延の「楽団生活五十周年記念式典」が開かれました。このようなお祝いの機会によって、延は再び母校を訪れることはあったようです。そのときだって本心はどんな気持ちであったかはわかりませんが、それを受け入れることで、過去のわだかまりを乗り越えたかったのかもしれません。
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今日の学校の音楽室には、日本人音楽家の肖像画として滝廉太郎と山田耕筰が飾ってあるけれど、ふたりの師匠格に当たる延こそが掲げられるべきでは……というのがわたくしの持論です。滝廉太郎は延にも評価されるほどのピアノの腕前がありましたし、彼はたくさんの唱歌を残したので、教科書にも楽曲が出てくるからこそ肖像画に選ばれたのでしょうが、山田耕筰に至っては、実は留学時に延に「けちょんけちょん」に言われています。先に引いた山田耕筰の言葉、実は個人的な恨みも含まれているかもしれません。
今回は日本の西洋音楽の黎明期を引っ張った、幸田延について取り上げました。幸田に憧れた生徒たちは多くいたはずで、弟子たちが慕っていた様子を知ることができる言葉はたくさん残っていますが、本人の演奏の録音が残っていないことがほとほと悔やまれます。今わたしたちが日本でもあたりまえに西洋音楽に親しんでいるのは、彼女がいたからということを、多くの人に知ってもらえたら嬉しいです。
普段なら最後に楽曲に合わせたお茶をご紹介するところですが、今回は動画内でお茶を飲んでいないので、割愛させてください。でもわたしはこれから、しっぽりと日本茶を淹れようと思います。次回はどなたをご紹介しましょうか、どうぞお楽しみに! また近いうちにお会いいたしましょう。
参考文献
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