【氷川教授の「アニメに歴史あり」】
第40回 特撮美術監督 井上泰幸展か
ら考える空想美術の役割

 2022年3月19日から東京都現代美術館にて開催された「生誕100年 特撮美術監督 井上泰幸展」が6月19日に閉幕した。観客動員は3万人以上と、知る人ぞ知る物故作家の初個展としては、成功を収めている。

 井上泰幸は1950年代から60年代にかけて「特撮の神様」円谷英二特技監督の数々の作品を美術面で総合的に支えたベテラン中のベテランである。渡辺明美術監督のもと美術助手の肩書きながら、ステージに登場するあらゆるものの構築に尽力した。怪獣映画では66年の「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」から美術監督に昇格している。
 高度成長期、日本映画の黄金期とともに東宝特撮も大予算をかけられるようになって、頂点を迎える。画面に登場するものは怪獣などメイン被写体の他、特撮ステージには美術スタッフが手がけた人工物がシナリオの意図どおりに配置される。アナログ時代だから、すべてが手作りの「物体」に照明を当て、キャメラで撮影しなければ、映像は生まれない。その創出に関わったキーパーソンである。
 円谷英二特技監督が70年に没した後、71年に「ゴジラ対ヘドラ」を怪獣デザイン含めて担当。同年に独立してアルファ企画を設立後は、「日本沈没」(73)など超大作のセットを構築し、さらには東映によるテレビ特撮のメインメカの造形にも携わり、精密な変形合体機構を内蔵したミニチュアを制作し続けた。
 井上泰幸氏の美術人生は、「ゴジラ」(54)以後に集客力を獲得した「日本のミニチュア特撮史そのもの」に近い。その一方で職人的な美学で裏方に徹してもきた。美術の役割はメイン被写体に対する「背景」と認知され、劣位に思われてきた歴史もある。
 今回は公的な美術館での開催であり、特撮美術監督の個人展として大成功を収めた結果、クリエイションの真髄と、芸術・文化的な価値が再発見された意義が何よりも大きい。ことに比類なき「大量の物証」が大きな成果だ。井上泰幸氏は生涯にわたって図面やイメージスケッチ等を私的に保存し続けていた。その死後、姪の東郷登代美氏が陣頭指揮をとり、有志が10年にわたって整理し続け、アニメ特撮アーカイブ機構ATACも協力している。同NPO法人のメンバー三池敏夫美術監督、樋口真嗣監督、ミニチュア修復師・原口智生氏らの尽力を得て実現し、12年に「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」を行ったのと同じ会場で再び開催された。この一連の動きは、この10年間、ともにアーカイブ活動に携わってきた自分も感無量であった。
 こうした中間制作物は、フィルムだけでは分からない現場の実相を明らかにする。ことに円谷英二特技監督は「手品の種明かし」を避けるため、メイキング記録をあまり公にしてこなかった。またCGの発達で、今後この規模で特撮職人芸が発露することは限りなく不可能に近い。つまりきわめて希少性の高い中間制作物なのである。図面やスケッチを見ているだけでも、ミニチュア特撮における「マンパワーの結晶」が改めて浮かび上がり、映像との相関を視認可能となったことに感慨を覚える。
 今後、デザイン画、ボード、図面等のほとんどは須賀川特撮アーカイブセンターに収蔵される。こうした中間制作物がもつ価値の普及啓蒙にひとつ大きな成果を収め、今後の研究への可能性と文化の継承に、大きな道を切り拓いたのである。
 特撮美術への関心は、怪獣・宇宙人・メカ類などキャラクター性を備え、二次商品になり得るメイン被写体の造形物に集中する傾向がある。セット等は「背景扱い」であり、そこはアニメ美術にも似ている。また撮影技術に興味が傾斜しがちなのは、円谷英二特技監督がキャメラマン出身であり、「撮影・照明・美術」(「撮照美」と略される)の順で構築される現場指揮系統の頂点という事情も関与している。
 しかし、空想映像を描く第一歩は「世界を創造する美術」から始まる。「ゼロから世界を生み出すのが美術」は、アニメと共通する部分である。特撮の場合、精密な設計図に基づいて実際の制作を分業化、外注化する。その成果物を設計プランに基き、ステージに飾ってキャメラマンと監督に見せるのも美術の役割だ。監督のイメージに沿うだけではなく、挑戦的に触発を誘うマインドさえあったという。その創造性も美術の役割なのだ。さらに壊しや爆破のシーンでは、あらかじめセットのどこに火薬類を組み込むかを考案し、特殊効果や操演部との連携を統括し、ダイナミズムを伴ったイメージを総合的に見せる点についても美術の役割は大きい。
 なぜこんなに細かく書いているのか。過去、アニメ美術監督の展覧会やレイアウトの展覧会が開かれたことがあった。キャラのいない展覧会には大きな意味がある反面、展示品の大半は背景画もしくはイメージボードなど「色がついて単体で鑑賞に値する絵」であった。関連する美術設定、レイアウトなど鉛筆による線画についても「一枚画」の鑑賞価値で選別されているように見える。そこに疑問があった。「映画に貢献するパーツ」としての役割解説や機能評価が乏しいのである。「現場はこう進めています」と現状追認に留まる解説はメイキング本一般に多く、「なぜそれが必要とされるのか」「どんな機能でどう映画に貢献しているのか」「その留意事項は何か」「価値はどこに宿るのか」などの掘り下げが足りていない。
 自分としては、空想映像の「映画内時空間」を形成する方法論に、格別大きな興味関心を喚起される。今回の井上泰幸展はその点で、アニメ研究にもフィードバックされてしかるべき要素が多々あって、注目に値する展覧会となった。
 全体では具体的なセットとして建築するための図面が目立つ。そこにシナリオからキービジュアルとなる絵コンテに準じるスケッチも、添えられている。「井上式」と呼称されるそのスケッチは、シーンの「全体仕様」を伝えるマスターショットの全容を一枚画で描いて「こういう画を撮る」とスタッフの意識を統一させる。そして予算一覧表、注記、メモ類が大量に添えられている。これと図面を照応させると、微細な寸法や実現性の検証、素材の確認、手配の確実性検証などが追体験できるのである。どんな段取りでステージに組み立ててきたのか、まるで撮影現場の建築過程に立ち会っているかのように読むと、タイムマシン的な効果すら生じる。
 そもそもミニチュア特撮の美術には「精密なミニチュア(模型)を構築してキャメラを向ければリアルな画が撮れる」という誤解が伴っている。この5年間、大学生に「特撮」の文化面を講義するとき「そうではなく、撮影・照明・美術の緊密な連携で映画に必要とされる画をつくり込んでいる」と言うと、必ず驚かれる。この解説はアニメ講義の「レイアウト論」にも使用するほど重要である。
 特に重視とされるのは「スクリーンを見つめる観客からどう見えるか」、つまり「視覚認識」である。手前のミニチュアは大きめに奥は小さめにしてパースペクティブを強調したり、さらに遠くは平面の絵で代用するなど誇張し、建物も遠いほどローコントラストで彩度を落とすなど、あらゆる手法で「空気感」を表現する。絵画的手法も交えつつ「作られた空間」を構築するのが特撮美術なのだ。
 いくつかの設計図面にはレンズから左右に拡がる直線が描かれていて、何ミリのレンズならどの範囲が見えるか「画角」も示されている(フレーミングを意味する画郭とは異なる)。一部撮影の領域に踏み込みつつ、「そのシーンでは何をどう見せるか」をチームワークとして提案している。この有機的結合もまた「総合芸術としての映画」を味わい深くするものなのである。
 こうした感慨をこめつつ展示物を見ていると、時間経過を忘れてしまった。今でも図録を取りだしては、会場で確認しきれなかった部分を反芻(はんすう)している。自分はエンジニアとして製造業に20年弱勤務していた経験があるため、こうした検証作業こそが「技術が生み出す芸術」に必要なことだと確信しているのである。
 アニメも特撮も、空想映像は脳内にある曖昧模糊(もこ)としたイメージが出発点だ。それを具現化するプロセスとは何なのだろうか。そこには必ず科学技術的な発想、論理の積みかさね、検証の反復による「工学技術的なもの」が必要とされる。そこに「美意識」や「哲学」が宿るからこそ、技術によって駆動される感興が「高位の物語」を伝えられる。
 近年の自分は、アニメも特撮も「技術の産物」として考えてきたことの「まとめ」に入っている。そこに「ものづくり」として共通、通底するものも見いだせないかと考えている。井上泰幸特撮美術監督の遺産は、そこに確実に「意味」があると、勇気づけてくれるものであった(文中一部敬称略)。

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