T.M.Revolution、abingdon boys sch
ool、TETSUYA & The Juicy-Bananas
等のサポート、自身のバンドやソロと
しても活躍する超絶技巧のベーシスト
・IKUO。多彩なキャリアに迫る【イン
タビュー連載・匠の人】

Ex-iT、Lapis Lazuliなどを経てライブサポート、レコーディング、楽曲提供など、活動の幅を着々と広げながら歩んできたIKUO。超絶技巧のベーシストとして熱い注目を集める彼は、T.M.Revolutionabingdon boys school、TETSUYA & The Juicy-Bananas、Acid Black CherryBREAKERZGACKTJAM ProjectももいろクローバーZBABYMETAL、でんぱ組inc.、関ジャニ∞、angela、『呪術廻戦』のサントラなど、様々な現場のライブサポートやレコーディングで異彩を放ち続けている。自身のバンドであるBULL ZEICHEN 88Rayflower、The Choppers Revolution、I.T.Rでも活躍中であり、ソロアルバム『R.E.D. ZONE』(2014年)と『Easy come, easy core!!』(2019年)もリリースしている。そして、『デジモンセイバーズ』オープニングテーマとして和田光司に提供した「ヒラリ」、ソロ名義での作品となった『テニスの王子様』第4期オープニングテーマ「LONG WAY」など、アニメソング界での経歴にも注目させられる。多彩でありながらも独自のスタイルを貫き続けている彼に、ベースに対する尽きない情熱、ミュージシャンとしての信念について語ってもらった。
――音楽を好きになったきっかけは、どのようなものでした?
音楽全般という点だと吹奏楽部で小3の時から高3までトランペットを吹いていて、それにも夢中になっていたんですけど、中2の時にベースと出会ったんです。『24時間テレビ』の夜中にライブをやっていて、そこでディスコバンドのブラザーズ・ジョンソンが出ていたのを観たのが衝撃で。ルイス・ジョンソンがスラップベース、チョッパーをしているのを観て一発でノックアウトされました。調べたら「あれはベースという楽器だ」と知って、すぐに燃え上がって「ベースをやるぞ!」と決めました。
――入口はロックではなかったんですね。
はい。その頃はフュージョンブームというか、マーカス・ミラー、ルイス・ジョンソン、スタンリー・クラーク、ジャコ・パストリアスとか、ベースヒーローがたくさんいたんです。ルイス・ジョンソンを入口として、そういうベーシストにも出会っていきました。カシオペアの鳴瀬喜博さんとか、ジャパニーズフュージョンにも影響を受けました。「ベースは派手な楽器である」という間違った認識からスタートしたということですね(笑)。
――(笑)バンドを組むのは、そこからちょっと経ってからですか?
はい。最初の頃は家でひとりで練習していました。町に1軒しかない楽器屋さんで買った教則本に載っていたのがマーカス・ミラー、ルイス・ジョンソン、スタンリー・クラーク、ジャコ・パストリアスとか。そういうアーティストのプレイをひたすら練習していました。
――中学くらいでフュージョンを主に聴いていると、周りの友達とはなかなか音楽の趣味が合わなかったですよね?
そうでしたね。でも、中3の時に吹奏楽部の部員と組んだバンドで町のバンドコンテストに出ることになったんです。僕が作ったオリジナルで出たんですけど、いきなりベースソロから始まる曲でした(笑)。中学生がチョッパーをするのが目を引いたみたいで、「あいつ誰だ?」みたいな感じになったようです。
――やってみていかがでした?
曲を作る楽しさを感じました。進学した高校では音楽が好きなやつが結構いたんですよね。先輩に誘われて加入したバンドではメタルをやりました。アイアン・メイデン、Y&Tとか。ナイト・レンジャーとかも流行っていた時期なのでツインギターで、速弾きが大好きな先輩ふたりがバリバリにハモるバンドでしたね。そのバンドでメタルとかロックをいろいろ教えてもらってどんどんハマっていったんですけど、スラップをしていたので、変わっている感じだったと思います。その後、東京の大学で入ったサークルではメタルバンドでスラップをやっていました。スラップはベースを始めたきっかけだったので、一番好きな奏法だというのは今でも変わらないです。
■「やりたい音楽で世に出たい」ということしか考えていなかった
――プロのミュージシャンになりたいと思うようになったのは、いつ頃でした?
もともとは「プロになりたい」よりも「好きだからやりたい」っていう感じでした。ベースが好き過ぎて、演奏技術もあったから「誰かに聴いてもらいたい」という気持ちの方が強くて、デビューとかは関係なかったです。大学の時もプロを目指すというよりも、別のサークルの上手いやつと学校内で争う意識でしたね。でも、サークルにはプロを目指している人がひとりくらいはいるもので、別の大学のプロ志向の人とバンドを組んだ時に僕がベースとして呼ばれたんです。それでライブハウスに出始めてからプロを意識し始めました。「東京に来たし、プロになれたらいいなあ」って髪の毛もどんどん伸びて、腰まで届くようになって。他人から「えっ⁉」って思われたい意識もあったというか。でも、見た目はメタルですけど、使っていたのは6弦ベース(笑)。「見た目はメタルだけどフュージョンっぽいことができる自分は唯一無二の存在なんだ」っていうとんがった気持ちもありました。
――1996年にEx-iTでメジャーデビューしましたが、そこに至るまでの経緯は?
大学を卒業してからなぜかプログレバンドを組んで、オリジナルソングでライブハウスでやるようになっていました。でも、動員は良くないし、ライブハウスからぼろくそに言われて(笑)。そういう活動をしていた時に、あるレコード会社からメジャーデビューするバンドへの加入の話が来たんです。
――大きな一歩ですね。
そうだったんですけどポップなメタルバンドで、音楽性が合わなかったので断ったんです。「やりたい音楽で世に出たい」ということしか考えていなかったので。その後も東京で活動していたら肺の病気になって一旦実家に帰ったんですけど、一緒にやる約束をしている友達が東京にいたので、リハビリを終えてから戻ってきました。組んだバンドは女性ボーカルでフュージョンテイストのポップスのバンドに入ったんです。その頃も僕は髪の毛が長くて、6弦ベースを使っていて、とにかく他人と違うことをやりたかった。今になって思えばバンドよりも自分の個性を重要視していた感じですね。そして、少し経ってからまた加入の話が来たんですよ。人気のあったA-CHIEFというバンドが解散をして、そこのドラマーが新バンドを組むことになって、僕のところに話が来たんです。つまり、東京で待っていてくれた友達を裏切る形になったんですけど。そこで初めて「売れたい」という意識が芽生えました。そのバンドがEx-iT。パイオニアLDCというレコード会社の一押しだったんですけどね。同期がPENICILLIN華原朋美さんで、そこに全部宣伝費をとられたらしく(笑)。2年経たない内にEx-iTは下火になってしまい、あっという間に契約が切れました。
――Ex-iT は1998年に解散して、その後はLapis Lazuliでメジャーデビューしましたね。
はい。Ex-iTのドラム、ギター、僕の他に新しいボーカルを入れることにして、今はいろんなアーティストのコーラスで活躍している小田原友洋くんと組んだのがLapis Lazuliです。でもメジャーデビューしてから小田原くんが脱退したいということになり、Staggerというバンドが解散した直後のきただにひろしが加入しました。
――『ONE PIECE』の「ウィーアー!」でお馴染みのきただにさんですね。後にJAM Projectに加入する。
そうです。Lapis Lazuliはヴィジュアル系のルックスをしたメタルバンドになっていきました。Lapis Lazuliのドラムの師匠がLOUDNESSの樋口宗孝さんなんです。樋口さんのプロデュースでメジャーからアルバムを1枚出して、その後はインディーズでの活動になりました。若いヴィジュアル系のバンドと対バンをたくさんするようになって、ライブの動員は増えていきましたね。演奏が上手いバンドでしたし、ボーカルがきただにだったので、「なんだ、あのバンドは⁉」ってなって。
■作家+ソロデビューという、想像していたのとは違う方向に急に物事が動いていった
――きただにさんがソロ名義で「ウィーアー!」を歌ったり、JAM Projectに加入したりした後に、IKUOさんも2003年に『テニスの王子様』第4期オープニングテーマ「LONG WAY」をリリースしましたよね。
はい。きただにが脱退して、Lapis Lazuliが解散することになったんですけど、その頃の僕はそれなりの年齢になっていて、自分の将来について考えるようになったんです。きただにがアニソンシンガーの道に進む姿を見て目が覚める感じもあって、「俺も何かやらなきゃ」と思い始めました。そんな頃、知り合いのHIRO-Xが『テニスの王子様』の主題歌を歌うことになったんです。彼が第2クールの主題歌も歌うことになって、「曲のコンペに出すので書いてくださいよ」と言われて作ったのが「Driving Myself」。僕の作家としての最初のアニメの主題歌です。それがきっかけでキャラソンとかの依頼も来るようになり、第3クールも僕が作曲した「Make You Free」が主題歌に決まりました。そして、その後に「このデモで歌ってる彼に歌わせたらどうだ?」となったのが「LONG WAY」です。
――予想外のソロデビューだったんですか?
そうなんです。「歌でデビューしよう」って考えたことはなかったんですけど(笑)。作家+ソロデビューという、想像していたのとはちょっと違う方向に急に物事が動いていったのがその時期です。バンドではない形の音楽家としての自覚が生まれたのも、その時でしたね。
――バンド以外の活動をすることに対しての迷いはなかったんですか?
そういう気持ちはなかったです。バンドもずっとやりたいんですけど、ちゃんとした収入を得られましたし、プロのミュージシャンとしての自覚も出てきて作家として忙しくなっていって、その後に『デジモンセイバーズ』の主題歌も作曲しましたから。
――和田光司さんの「ヒラリ」ですよね?
そうです。いろんな仕事に繋がっていった時期だったので、「目の前にある仕事を一生懸命やろう」という感覚になっていました。でも、「LONG WAY」の時のアー写も「自分はヴィジュアル系でなきゃ嫌だ」というのがあったので、金髪でメイクもしました。「一般人にはなりたくない」という、髪の毛が腰まであった時代の感覚を持ち続けていたんです。
――アニメの仕事は作品の世界観をきちんと踏まえれば、音楽的に自由にいろいろできるというのもありますよね?
ありますね。僕はロックのゴリゴリのアレンジしかやっていないし、それ以外は基本的に得意ではないかもです。でも、ポップなものは好きなので「ヘヴィポップ」というか。好きなTOTOとかジャーニーみたいな爽やかなメロディで、コーラスでハモったりするのが上手い具合にアニソンというジャンルにハマったのかもしれないです。だからあまり狙うことなく、やりたい音楽をやれています。
――90年代から00年代にかけての時期にハードロック、ヘヴィメタル出身のミュージシャンたちがアニメの世界に頻繁に携わるようになっていきましたし、一番そういうサウンドの要素が色濃くなったのがアニソンだったという印象があります。
僕の『テニスの王子様』の作家としての仕事の前にJAM Projectが結成されましたけど、影山ヒロノブさん、遠藤正明さん、さかもとえいぞうさんとかがいらっしゃって、メタルの巣窟だったんです。そこにLapis Lazuliのドラムが誘われて、僕もベースを弾くことになった時もありましたね。つまりリズム隊はLapis Lazuliで、そこに後からきただにひろしが加入した。僕が初めてサポートの仕事をしたのはJAM Projectだったと思います。その頃はアニソンの作家の仕事とJAM Projectのサポートを並行してやっていたんですけど、それぞれ別のジャンルの感覚でした。JAM Projectはメタル人脈で頂いたお仕事だったので。
――JAM Projectは、日本のメタル界のスーパーバンドですよね。
そうですね。でも、僕はLapis Lazuliのドラムありきで呼ばれたので、ひとりだけ無名だったんです。他のみなさんは錚々たる人たちでしたから。
■「ロックバンドをやる感覚でサポートをやる」っていうのはJAM Projectの頃からずっとある
――サポートの仕事は、その後にどんどん増えていきましたか?
はい。2005年からT.M.Revolutionのサポートをするようになって、作家よりもサポートやレコーディングやセッションの仕事がメインになっていきました。JAM Projectはその前に別のベースに代わっていたんですけど、また僕がベースを弾くことになって、バンマスとして呼ばれたこともありました。
――これまでにサポートで参加した現場は、凄腕揃いですね。T.M.Revolution、abingdonboys school、TETSUYA &TheJuicy-Bananas、BABYMETALとかを経験してきたわけですから。
そうですね。JAM Projectもそうでしたけど、バックバンドでありつつも、個性のある人たちが集っていました。T.M.Revolutionも西川(貴教)くんがバンドあがりなので、そういう人たちを集めたいというのがあるんだと思います。だからロックバンドをやる感覚でサポートをやるっていうのは、JAM Projectの頃からずっとあります。それは自分の性分にも合っていて、ラッキーだと思っています。
――様々なサポートの仕事をする中で、自分を最大限に活かすやり方をIKUOさん自身が的確に見つけてきたということでもあるのかもしれないですよ。
事務所の社長みたいな立場が本名の「渋谷郁央」で、所属アーティストが「IKUO」というか。社長としては「彼をソロアーティストとしてどう売ろうか?」と考えるわけですけど、例えばT.M.Revolutionはテレビ出演が多かったので「バックバンドではあるけれど、目立つ方法を考えた方が良いだろう」と考えて、「ヴィジュアル系で行こう!」と思ったんです。メイクをバリバリにして、ベースを振り回しながら弾くキャラクターで、髪の毛は赤くして(笑)。あと、当時僕が使っていたESPのベースはスイッチを入れるとポジションマークが光るんです。テレビ局のディレクターさんとかが「そのベース、すごいですね」って声をかけてくれました。バックバンドではあるんですけど、「自分が売れるチャンスでもある」という姿勢を続けていたら、念願の『ベース・マガジン』の取材が来るようになりましたし、「誰だ、あいつ?」という戦略が実を結ぶようになってきたのかなと思います。『ベース・マガジン』の表紙になった時は、今までやってきたことがリンクした感覚がありました。「あのテニプリの歌を歌ってた人なんだ?」って反応してくれた人もいましたから。
――サポート、楽曲提供、サウンドプロデュースの仕事は求められているものに柔軟に対応することが求められますけど、自分だからこそ表現できるものも貫いてきたんですね。
そうですね。やっぱり「アーティスティックであること」というのが自分の中にあるんです。僕のセルフプロデュースの仕方は、いただく仕事を自分で狭めている面もあるのかなと思います。でも、仕事が来る来ないの波は必ずあるものなので、「芯の部分をきちんと持ち続けながら自分発信の仕事をやっていこう」という考え方も持つようになって現在に至っています。それがサポートとか作家の仕事が忙しい中で始めたバンドのBULL ZEICHEN 88とRayflowerです。だから裏方の仕事をやりつつも、自分のやりたいことの本質は「バンドマン」ということですね。「バンドの中のひとりのベーシストでいたい」というのは、自分の中で絶対に譲れない部分です。
――バンドは、鳴瀬喜博さん、村田隆行さんと一緒にやっているThe Choppers Revolutionの活動もありますね。
はい。フュージョンのバンドであるThe Choppers Revolutionでも、僕が譲れないのは「ヴィジュアル系」ということです。大先輩の鳴瀬さんの横でメイクして、こういう髪色でベースを弾いていますから(笑)。フュージョンやジャズの界隈でも、変だろうが、違和感があろうが、それは自分の生き様として譲れないところ。ポリシーなんですかね。
――サポートの仕事とご自身のバンドの違いは、やはり自分発信の場所であるということですか?
そうですね。サポートの仕事は雇われの身なので、例えばコロナでライブが一気にできなくなって、大変な状況のミュージシャンがたくさんいると思うんです。他人事じゃないんですけど。そういう中で僕が何よりも大事だと感じたのがファンの存在です。僕のファンはいろんなジャンルをやる僕を楽しんでくれる人がほとんどで、「IKUOさんのおかげで音楽の視野が広がりました」とか言ってくれるんです。音楽にとってやっぱり大事なのは聴いてくれる人、観てくれる人。そういう人がいてくれるから自分のモチベーションを維持できるんですよね。オンラインサロンを始めたんですけど、「加入してくれる人がこれだけいる」というのは音楽をやる上での勇気になっていますし、「この人たちに恩を返していかなきゃな」って思いました。
――IKUOさんのプレイに憧れている人はたくさんいるはずです。
Suspended 4thのフクダ ヒロムくんとか、憧れていると言ってくれる若いベースヒーローもいっぱいいるので、ありがたいことですよね。僕も若い子たちに負けないようにエンタテインメントとしてのテクニックを磨いていきたいです。ここで止めては駄目だと思っていますから。新しいテクニックを日々開発するのも僕の生きるモチベーション。中学の時にルイス・ジョンソンのプレイを観てから、そこはずっと僕の中で変わっていないです。
取材・文=田中大

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