それは心の叫びだったのか。
苦悩の中から生まれた
ジョー・コッカーの傑作
『アイ・キャン・スタンド・
ア・リトル・レイン』

ジョー・コッカー(1944 – 2014)

コッカーは1944年、イングランドのヨークシャー州シェフィールドで生まれている。中学生にもならない年頃に音楽に目覚め、スキッフルのスター、ロニー・ドネガンとレイ・チャールズに惹かれていたという。その頃に兄がのスキッフルのバンドのライブに招かれて歌ったのが、人前でパフォーマンスをした最初なのだそうだ。後は自分のバンドを組んでライブを始め、学校は中退し、ガス会社の工員をしながら…と、まぁ、よくあるパターンだ。

バンドは主に地元シェフィールドのパブで演奏する。はじめはエルヴィスやスキッフルのような音楽をやっていたが、62年から英国で開催された『アメリカン・フォーク&ブルース・フェスティバル』は彼を大いに刺激することになり、バンドはブルース音楽に接近し、ジョン・リー・フッカー、マディ・ウォーターズ、ライトニン・ホプキンス、ハウリン・ウルフのカバーをレパートリーにするようになる。レイ・チャールズ仕込みのブルージーなコッカーのヴォーカルは次第に評判となり、前年に彼が前座をつとめたローリングストーンズの後押しもあり、64年にデッカレコードとソロ契約を結ぶ。まず、ビートルズの「ぼくがなく(原題 : I'll Cry Instead)」のカバーをリリースする。が、これは不発に終わり、コッカーはしばらくバンド活動もせず、ブラブラして暮らしていたらしい。

それを見かねて、新しく仕切り直しをするべくメンバーを一新してバンド「グリースバンド」を組もうと促したのがクリス・ステイントン(キーボード)だった。ふたりは2年ほど前に知り合っていた。同じシェフィールド出身で、生年も同じ。知り合った頃はベースを弾いていたが、コッカーと組む段階でキーボードにスイッチしている。ちなみにステイントンは1972年までコッカーと組むが、その後はグリースバンドを率い、さらに夥しい数のセッション・ワークをこなし、多くの英国のアーティストの信頼を得ている。その中のひとりとしてエリック・クラプトンは70年代後半から現在にいたるまで、自身のバンドのキーボードの席をステイントンに任せている。
※最終的にはバンドはジョー・コッカーwithグリースバンドというかたちに収まっている。また、グリースバンドはコッカー抜きでアルバムを出しており『グリース・バンド(原題:The Grease Band)』(’71)、『アメイジング・グレイス』(’75)の2枚は英国産スワンプロック/パブロック名盤としてマニア垂涎のレア盤である。

話をコッカーに戻すと、グリースバンドをバックにジミー・ペイジらセッション・プレイヤーを加えて、再びビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」をカバーし、リリースすると、これが英国のシングル・チャートで13週間トップ10に入り、1968年11月にはついに1位を記録する。オリジナルの、リンゴ・スターが歌うバージョンとは大きくアレンジも異なるこの出来を、ポール・マッカートニーは絶賛したという。アメリカでのチャートは最初は68位まで上昇するなど、まずまずの記録だったが、初のアメリカ・ツアーに出てギグを重ねるうちに最高位35まで売り上げを伸ばす。その勢いのまま出演したのが1969年夏の『ウッドストック・フェス』だった。コッカーのパフォーマンスは、いろいろパロディにされたり、奇異に見られているところもあるだろうが、あのフェスの数多いシークエンスの中でも名場面のひとつだろう。

ウッドストック・フェスの直後、コッカーは2枚目となるアルバム『ジョー・コッカー&レオン・ラッセル(原題:Joe Cocker!)』('69)をリリースしている。フェスでの評判も手伝い、全米チャートで11位を記録している。このアルバムから英国勢に混じり、レオン・ラッセルやリタ・クーリッジがセッションに参加し、次にコッカーが目指すスワンプロックへの布石になっている。収録曲のうちレオン・ラッセルの曲「デルタ・レディ」がイギリスでヒットを記録するほか、このアルバムでもビートルズの「シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドー」、ジョージ・ハリスンの「サムシング」のカバーが収録され、ビートルズへのこだわりが見られる。他にディランやレナード・コーエンの曲などもカバーしている。
※ちなみにレオン・ラッセルの出世作『レオン・ラッセル』(’70)はストーンズやクラプトン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、デラニー&ボニーに混じってジョー・コッカーやクリス・ステイントンも参加し、その音楽性においても互いに通底するものがあり、こちらも推薦盤としておすすめしておきたい。

そして、グリースバンドとの活動にいったん終止符を打ち、コッカーはレオン・ラッセルをバンドリーダーに据え、マッド・ドッグス&イングリッシュメンと銘打ったツアーバンドを組む。実はコッカーはストレスの溜まるツアー生活にはほとほと嫌気がさしており、この活動もいわば契約履行のため仕方なく、であったらしい。実際のところ、全米48都市を回るツアーを記録したドキュメンタリー映像(DVD『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』('05)に収録)を観ると、音楽の主導はレオン・ラッセルが仕切っていることが分かる。が、このツアーはラッセルを筆頭にジム・ゴードン、ジム・ケルトナー、チャック・ブラックウェルらのドラマー、リタ・クーリッジとクラウディア・レニアのバックヴォーカルなど、20人以上のメンバーからなる大所帯で、シンガーとしてのコッカーの絶頂期をも示す、素晴らしいものであることは間違いない。ライヴアルバム『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』(2006年に『Mad Dogs & Englishmen: The Complete Fillmore East Concerts』も出る)は全米チャート2位、全英16位まで上る大ヒット作となっている。

しかし、音楽的な評価とは裏腹に、コッカーは私生活の問題など、悩みを内面に抱え込み、鬱状態に落ちいる。過度の飲酒に加え、ヘロインなど、ドラッグにも耽溺するようになる。自分をコントロールできなくなった彼はステージでの失態、行く先々で乱闘騒ぎ、ドラッグの不法所持、国外退去など数々の警察沙汰を起こした挙げ句、アルバム『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』になぞらえて、“英国の狂犬”呼ばわりされる始末だった。

それを見るに見かねたバンド・メンバー、ジム・プライス(サックス)がアルバム制作を持ちかける。プライスはテキサス出身のセッションプレイヤーで、ストーンズやジョージ・ハリスン、レオン・ラッセル他、英国の名だたるミュージシャンからセッションに招かれる人物だった。彼がアルバム収録曲となる、自作の「アイ・キャン・スタンド・ア・リトル・レイン」をコッカーに聴かせ、腰の重い彼に執拗に、いや粘り強くレコーディングを勧めたとされている。

OKMusic編集部

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