【伊東歌詞太郎 インタビュー】
この曲は1番2番を
フルで聴くことが前提になっている
音楽は手段ではなく目的だから、
聴き手がいなくても歌は辞めない
では、リリースの機会にアピールしていきましょう(笑)。そして、3曲目の「TEL-L」はクールな4つ打ちビートの文句なしにカッコ良い曲ですね。
この曲、僕、めっちゃ好きなんですよ。自分が作詞も作曲も編曲もまったくかかわっていない曲って久しぶりなんですけど、この曲を作ったタナカ零って人は、たぶん世に出しちゃいけないと思う。とんでもなくたくさんの引き出しと闇を抱えていて、ヤバい人なんですよ。こんなエキセントリックな曲を作るのに、可愛いラヴソングを女性に歌わせたりもするんだから(笑)。
(笑)。でも、抽象的な歌詞表現を読み解いていくと、この曲もシチュエーションは「スプリングルズ・サワークリーム」と同じくらい恥ずかしくありません?
そう! 最高に恥ずかしいですよ。なのに、こんなにカッコ良い曲になっていて、リズムも変拍子だし転調もするし。最初に聴いた時に“えー! 無理無理、こんなの覚えられない!”となって、レコーディング当日まで一切覚えなかったんです。そもそも練習するのって、自分にとっては不正解だっていう想いが、ここ最近は特に強くなってきているんですよね。
と言いますと?
音楽って人間がコントロールできないアートだから、うまく歌おうと練習したり、こういう表現をしようと意図的に考える時点で間違っているんですよ! そうじゃなくてアートとしての正解は、正しい手順を踏んでいくと勝手に自分の身体が鳴って、自然と出てくるものなんです。実際、全然準備していかなかったこの曲と、自分が作った他の曲とで、レコーディング時間も変わらなかったから、やっぱり事前準備って意味がないという想いは深まりましたね。それで完成度が低かったら問題ですけど、そうじゃないですし。
ええ。とてもうまく感情が乗っていて、惹き込まれました。
もっと言うと、歌を練習するのって意味がないんですよ。例えば“この曲をうまく歌えるようにしよう”って、ひとつの曲を何度も歌って練習したら、その曲をうまく歌うための技術しか身につかないじゃないですか。だから、発声練習とかも、何の意味があるのか疑問なんですよね。“ブレスを長く!”とか言ったって、ブレスの技術だけで歌は成立しないし。歌の技術には万とか億の数があるから、何か特定のものだけを練習するのでは意味がないんですよね。結局のところ“好きな歌を楽しく歌う”ことが、全ての技術を満遍なく、螺旋階段のように高めていくんじゃないかな? そういうイメージを持っているので、僕は練習反対派なんですよ。
今、おっしゃったことを集約すると、伊東歌詞太郎は歌がとても好きであり、練習するのではなく好きな歌を好きなように歌ってきた結果、これだけうまく歌えるようになったと。
うまく歌えたとかそういう感覚も、もう今はないですね。単純に自分の身体を媒介して、何かしらの音を出している感じです。
巫女的な感覚なんでしょうか?
あー、そうです! 最近“ライヴとは歌詞太郎さんにとって何ですか?”と訊かれた時も、“自分の中では日常なんだけど、特別な日常の中の儀式”って答えたんですよね。さっきも言ったように、自分にとって音楽はアートなので、正直言って歌うにあたってのシチュエーションとか場所はどうでもいいんです。ひとりで家にいる時でも自分が音を発すれば音楽になるし、逆に居酒屋とかで“ちょっと歌ってみて”とリクエストされても全然歌いますよ。嫌がるヴォーカリストも多いけれど、例え知らない曲をリクエストされたとしても想像を膨らませて即興で歌って、感動させられなければアーティストじゃない!という意識が、自分の中にあるんですよね。その域に達することが徐々にできてきた感じを、最近は持っているんです。
周囲の状況は関係なく、ひたすらに音楽を追及していく姿勢は、まさに生粋の“アーティスト”ですね。
“アーティスト”って音楽だけじゃなく、演劇でも絵でも文学でも、何かを表現する人を指す言葉ですからね。自分にとって音楽は手段ではなく目的だから、自分の愛する音楽をやれる時点で100点の満足だし、聴いてくれる人がひとりもいなかったとしても、自分が歌を辞めることはないです。そうやって完結しているから、そこにあるアートとしての音楽はそもそも価値のないものなんですよ。で、そこに“歌詞太郎さんの音楽を聴いて元気になれました”と価値をつけてくれるのは、聴いてくれるみなさんなんです。そのおかげで世に発信できるというのは、自分にとってはスーパーラッキーなことで、それこそ望外の喜びが幸運として訪れた感覚なんですよね。
取材:清水素子
「真珠色の革命」MV
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