【明田川進の「音物語」】第54回 藤
岡豊さんとご一緒した「天才バカボン

 前回お話した「空手バカ一代」は東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)が制作した作品で、僕がグループ・タックにいた頃の仕事です。東京ムービーの藤岡(豊)さんと田代(敦巳)氏は遊び仲間で、そこから僕のほうにも声がかかるようになりました。
 藤岡さんとご一緒した仕事では、録音監督をやった「天才バカボン」(1971~72)がいちばん長かったはずです。アニメをやる前からすごい漫画だと思っていて、放送がはじまる前、新宿のゴールデン街で赤塚不二夫さんが飲んでいるからと連れていかれたことがあります。何を話したのかは覚えていませんが、原作のことは気にせずどんどんやってくださいという話だったんじゃないでしょうかね。
 藤岡さんからは週に1回スポンサーの会社の社長のところに行くとき、音に関係してくるから一緒にきてほしいと毎回同行していた記憶があります。スポンサーだから当然なのですが、そこで内容についての要望がいろいろとでるわけです。赤塚さんの作品は過激なギャグやブラックユーモアが魅力で、当時は今よりも寛容だったと思いますが、それでもこの言葉を使うのはやめてほしいと言われることが多かったです。台本の読み合わせ段階で放送コードに引っかかるところもたくさん出てきて、本当は「バカ」という言葉もよくなかったらしいのですが、そこをとってしまうとどうしようもなくなっちゃいますからね。僕はブレーキをかける側ではなく、原作にある過激さをなるべく削らない方向でいけたらという姿勢でいましたが、それでも最終的にどうしてもこのセリフは駄目だからとアフレコ後に録りなおしたことが何回かあったと思います。
 バカボンのパパ役を誰にやってもらうかは何回となく話し合って、雨森雅司さんにやってもらうことになりました。どうしても普通の芝居になりがちなところをどう破天荒にやるのか毎回つくりこんでいくのは大変でしたけど面白かったですね。レレレのおじさん役の槐柳二さん、本官さん役の田の中勇さんの芝居も楽しくて、ご本人が「これでいいの?」と言うのを「いいです、いいです」とやっていたのがわりと評判になりました。
 僕が関わった手塚治虫さん原作のアニメは優等生的な内容で、お話もきちっと説明するものが多かったですけど「バカボン」は正反対の作品でした。両極端なものができたのは面白かったですね。

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