古典に新しい表現を持ち込む 江戸糸
あやつり人形劇団結城座「第二回古典
小劇場『壺坂霊験記』」インタビュー

「結城座旗揚げ385周年記念公演第二弾 孫三郎 第二回古典小劇場『壺坂霊験記』」が、2021年10月7日(木)からザムザ阿佐谷で上演される。
『壺坂霊験記』は明治時代前半に浄瑠璃で初演され、人形浄瑠璃や歌舞伎、講談、浪花節などの演目にもなり、人気を博した。結城座では九代目結城孫三郎が初めて上演し、代々の孫三郎の口伝によって受け継がれている。九代目結城孫三郎と十代目結城孫三郎、十代目と十一代目、十一代目と十二代目、と新旧の孫三郎にお里と沢市は演じられてきた。
「孫三郎 第二回古典小劇場」では、十二代目と2021年6月に襲名した十三代目がお里と沢市を演じる。伝統が継承される場となる本公演の見どころについて二人に聞いた。
『壺坂霊験記』舞台写真/結城座提供

■「古典には鋳型のようなものがある」
――まず、今の稽古の進み具合について教えてください。
十二代目 覚悟はしていたのですが大変です。稽古は先月(8月)から始まりましたが、台詞や所作を伝えることに少し手間取り、若手の出演者が少し考えるインターバルをとって、もう一度始めた状態ですね。
――若手の方々が古典『壺坂霊験記』の解釈をする期間を設けた、ということでしょうか。
十二代目 そうですね。解釈もありますが、古典にはルールがあります。そういったものを各自自分なりに咀嚼していく時間がいると判断しました。
基本的に古典には、ベースのようなものを作る作業が必要です。新作は初めから自分の解釈で取り組むことができますが、古典はまず、以前からやってきたスタイルを身につけなければいけません。
古典には鋳型のようなものがあるんです。日本の古典には演出家がいないでしょう? すべて演技者が発案した演技なんです。(過去の演技者が作った)その型に(後世の演技者は)自分の身を突っ込んでいかなければならない。
さらに古典には作られた時代の風俗風習があり、今は使われていない言葉がどんどんと入ってきます。日常の動作を芝居の動きに置き換える加工もしていて、そういった諸々のものが古典には付加的に付いてきてしまうので、身につけるのが大変なんです。
そういったものを自分のものにする工程をクリアして初めて、自分自身の世界を作り上げていく作業に移れるのです。
三代目両川船遊(十二代目結城孫三郎)/撮影:Christophe Raynaud de Lage
――十三代目にお伺いしたいのですが、古典のスタイルをインプットしていく作業について、現況はいかがでしょうか?
十三代目 今はインプットしてインプットしてインプットして。それを父に見てもらいながら、型に合わせている感じです。その型に何とか適合しようと試行錯誤しています。
――「適合」とは、かなり強い表現の言葉ですね。
十三代目 もともとある古典の決まった型の中に、自分をひたすらカンカンカンカン打ち込んで、当てはめていく感じです。
『壷坂霊験記』は 曾祖父からずっと続いている作品で、みんな先代から教わってきました。私も今回、父(十二代目)に教わっています。これまでの孫三郎がやってきたように自分でも再現しようとしているのですが、てこずっています。大変ではありますが、自分なりに解釈して表現する段階までいきたいと思っています。
十三代目結城孫三郎/撮影:石橋俊治

■「踏襲するだけでなく型を壊す」だから古典は難しい
十二代目 何も古典だからその通りにやらなければいけない、というルールはありません。
たとえば九代目と十代目が演じた結城座の『壷坂霊験記』は、九代目と十代目が作り出したものです。見るとたしかにいいんですよ。しっとりしていて。私も、祖父や父や兄がやってきたことをその通りにやらなくてもいいんです。ですが祖父や父や兄の芝居を見て、いいと思うので人形遣いとして欲しいと思うわけです。
ただし踏襲するだけではなく、自分自身でも変革していかなければなりません。そういった意味で古典は非常に難しいんです。
九代目結城孫三郎(沢市)と十代目結城孫三郎(お里)/結城座提供
――職人は仕事を見て覚えると言いますが、古典は先代が演じてきたものを見て、鏡に映すように再現するものなのだと考えていました。芝居はそう単純なことではないわけですね。
十二代目 人形遣いも見て覚えます。ですが、ただ見て覚えるだけなら物真似じゃないですか。芝居は声帯模写、形態模写ではないので、お笑いの人が歌手の歌を真似するのとは訳が違います。スタイルだけもらってもしょうがないのです。
ただし型を知らなければ、型を壊すことはできません。歌舞伎の十八代目中村勘三郎さんが「型がなければそれは単なる形なし。型を壊すから型破りなんだ」とおっしゃっていましたが、型があるのか型なしか、明確に語っていますね。
それは私たちにも共通していることです。まずは型を知ることから始まり、知ってからそれが「自分の表現ではない」と思えば変えていく。要するに身につけた型通りでは気に入らないから壊していく、ということなんです。
――伝統の継承とは更新の場でもあるのですね。以前、十二代目にお話を伺ったときに「古典はとても強い」とおっしゃっていましたが、その強さが何なのか、わかった気がします。
十二代目 そうなんです。何人もの人間の手を経ていますから古典は強いんです。もちろん手垢もついていますが。
何代もの人間がそれぞれ「ああでもない、こうでもないもない」と変え続けて作り上げたものですから、壊すことは非常に難しいですよ。その力強さにはなかなか個人では対抗できない。
でも変えないわけにはいかないので、「あなたたち先代がやってきたものはわかりました。ですが私はこうやります」と答えを出さなければなりません。相当なエネルギーが必要です。
そして古典を通じて、当時の人(演技者)が考えたこと、やっていたこと、実感したことを、現在の私が覚えておくことができます。私の祖父(九代目)は江戸から明治にかけての人で、父(十代目)も明治生まれの人ですが、明治時代の人がやっていたことを自分のイメージの中にインプットしておくことができます。
演技者には(そういった記憶も含めて)知るという作業が必要です。今、息子(十三代目)には古典を通じて「こういう世界があるんだ」ということを知ってもらいたいと思っています。ただ私は一度も、その通りに演じるように言ったことはありません。知った後はその世界を肯定しようが否定しようが構わないのです。
『壺坂霊験記』稽古風景、左から田中純(十一代目結城孫三郎)、三代目両川船遊(十二代目結城孫三郎)、十三代目結城孫三郎

■現代劇にはない時間のズレ
――古典独特のスタイルは、若い世代の人が見ると新鮮に映ることもあるのではないでしょうか。
十二代目 そうですね。古典には時間のズレというものがあります。
――時間のズレ……ですか?
十二代目 人形遣いが台詞を発した後に、義太夫が同じ事柄や心情を語り繰り返すのが、古典のシステムです。そのときの時間のズレが面白い。
たとえば(沢市が妻の不貞を疑う場面で、問い正された)お里が「ええっ」と驚く演技をした後、義太夫の「聞くにお里は身も世もあらず……」というお里が驚いて悲しむ語りが続きます。その間をどうやって埋めていくのか。
――語りの間にも人形は演じられているわけですね。
十二代目 人形遣いは台詞を言った後も、義太夫の語りに対して心情の表現を継続しなければなりません。それは現代劇ではありえない。ですから古典は見ようによっては非常に面白い世界です。
若い座員たちにも、日本にはこういった表現法があるんだ、ということを知ってもらえたら嬉しいですね。

■古典に新しい表現を加える
――前回の「孫三郎 第一回古典小劇場」で上演された『東海道中膝栗毛』は、デジタル映像が入るなどして、大変刺激的な舞台になっていました。
十二代目 古典の芝居の場合、舞台に上がることが時代を超えて受け継がれてきた証になります。継承されてきた日本文化の保存発展を自分たちが担っている面もあります。
ただ古典は、作られた当時は面白い作品でも今の時代の人には面白くない、ということがあり得えます。ですからお客様のためにもう少し刺激的なことをやっていきたいと思うわけです。今の時代に古典をやるなら、私はそういった要素を持ち込むべきだと思います。
『東海道中膝栗毛』/結城座提供
今回も映像は入れます。深層心理の表現や幻想的な演出で入れていこうと思っています。普通の古典とは少し違ったものになるかもしれませんね。
――十二代目のアイデアがふんだんに盛り込まれた舞台になりそうです。
十二代目 でもね、私中心で古典をやるのは「壷坂」までです。あとは息子たちの世代が古典をやりたいのなら、自分たちなりに作っていってほしい。
――えっ……そうなんですか?
十二代目 はい。もちろん古典について聞かれたら答えますし、「出演してほしい」と言われれば出ます。ただし主体が変わります。いつまでも劇団を私の手垢で汚したくない。だからあとはおまかせです。
これから、若い劇団員たちは大変だと思います。ですがそういった経験は、私の父や祖父もしてきたものだと思うんですね。私や兄が若い頃に任せられたとき、父は「自分がやった方が早い」「足りないな」「自分だったら違うやり方をするな」と感じていたんじゃないでしょうか。父や祖父がしてきた経験を、今度は私がさせてもらおうと思っています。
『東海道中膝栗毛』/結城座提供
――そういった意味でも継承の場に対峙できる貴重な公演になりますね。最後に記事を読んでいる方に、本公演の見どころも踏まえてコメントをいただけないでしょうか。
十三代目 『東海道中膝栗毛』を上演しているときにも思ったのですが、ザムザ阿佐谷の佇まいは古典ととても合います。今回も新作とは違った古典の雰囲気のようなものを感じていただきたいです。
今は芝居を近くで観ることが難しい状況でもあるのですが、ザムザ阿佐谷は人形の動きがよく見え、息遣いも感じられる劇場です。そういった体験も楽しんでいただきたいと思います。
『壺坂霊験記』舞台写真/結城座提供
十二代目 十三代目の言う通り、ザムザ阿佐谷は手狭で人形にはやりやすい劇場なのですが舞台の袖がないため、普段の写実的なセットが組めません。「壷坂」は3場あるので、普通は次から次へとばらして新しいセットを組んでいきますが、ザムザ阿佐谷ではそれらを片付ける場所がありません。ですから全く違うセットで、墨絵のようなものも使おうと思っています。
――袖がないことで、逆に新しい表現が生まれるのですね。
十二代目 はい。今までの古典のパターンにはないものが加わります。
芝居は器である劇場に合わせて作っていきます。物理的にセットを組めない状況をいかに利用するか。当然、芝居も違ってきます。お客様には古典を通じて新しい世界を感じていただきたいですね。
これから若い劇団員はそういった場を積極的に使っていきます。もっとアイディアが出てくるでしょう。私とは全く違うアイデアを持ち込んでくれると思っていますので、(今回の公演は)その走りになると思います。皆様にはぜひご来場いただきたいと思っております。

観世音菩薩(『壺坂霊験記』)/結城座提供

取材・文:石水典子

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