念願の「四の切」狐忠信役で夢を叶え
る市川弘太郎に聞く~『不易流行 遅
ればせながら、市川弘太郎の会』

2021年7月31日(土)・8月1日(日)に東京建物 Brillia HALL(豊島区立芸術文化劇場)で、市川弘太郎 歌舞伎自主公演『不易流行(ふえきりゅうこう) 遅ればせながら、市川弘太郎の会』が開催される。弘太郎が、師匠・市川猿翁の代表作のひとつ『義経千本桜』より「吉野山」「川連法眼館の場(四の切)」に挑む注目の舞台だ。共演は、中村七之助(特別出演)、市川團子、澤村國矢、中村鶴松、他。コロナ禍ゆえに来場客の安心安全を配慮し、客席を半減化したこともあり、入場券は早々に完売。そこで、配信やBlu-ray化に向けたクラウドファンディングを実施したところ、こちらもすぐに目標額を大幅に超え、実現の目途が立った。9月には配信がおこなわれる予定だ。そんな弘太郎に、公演に至った経緯や、上演への意気込みなどを聞いた。
――今回の自主企画では、源義経をめぐる人々の物語『義経千本桜』の中から「吉野山」と「川連法眼館の場」が上演されます。いずれも、狐の化身である狐忠信が大活躍する場面ですね。開催を決断するにあたっては、中村七之助さん、尾上松也さんがキーパーソンだった……と伺いました。
そうなんです。2019年の6月だったと記憶していますが、その日は珍しく、七之助さん、松也さん、僕の3人だけで食事に行ったんです。そこで二人が「弘ちゃん、やりたい役ないの? 自分で機会をつくって、実力を世の中にアピールした方がいいよ」と言ってくれたんです。いつもだったら「ないよ、そんなの」なんて冗談でごまかしたと思いますが、あの時は「四の切(狐忠信役)がやりたい」と自然にフッと口から出たんですよね。彼らは同年代で、日頃から「助け合って頑張っていこう」と言い合うような間柄。そんな二人が僕のことを認め、真剣に聞いてくれたことが伝わってきて、「これは逃げちゃいけない、ちゃんと答えよう」と思えたんです。
――そういった経緯で、七之助さんが静御前(義経の恋人)でご出演されるんですね。
「やりたい」と僕が言った後の、二人の反応がすごい勢いなんですよ。「よし、じゃあやろう。オリンピックの年は状況が読めないから、再来年の2021年7月31日と8月1日がいい……」なんて、手帳を広げて、僕そっちのけでどんどん決めて(笑)。その場で七之助さんが「僕が静をやるから」と言ってくれて、こんな素敵な仲間に出会えて幸せだなと思いましたし、久しぶりに身体の底から熱い気持ちがわき上がりました。それで後日すぐ、旦那(弘太郎の師匠である市川猿翁)に許可をいただくご挨拶に行ったんです。
――猿翁さん率いる「澤瀉屋(おもだかや)」系の「四の切」は、猿翁さんが上演の度に工夫を加え、当り役の一つとして千回以上演じた、ご一門にとって大切な演目。ご挨拶、緊張されたのでは?
ものすごく緊張しましたし、あの日の光景は、鮮明に記憶に残っています。「『四の切』をやりたいです」と旦那に伝える日が来たこと自体が感慨深かったですし、温かく「頑張れ、頑張れ」と何度も言ってくださって。泣きそうになりました。
市川弘太郎、「不易流行」より
――ご指導は、これまた何百回も狐忠信を演じている、当代の市川猿之助さんですね。
旦那にご挨拶に行った翌日、猿之助さんの楽屋に伺いました。当初は7月31日を稽古日、8月1日を2回公演にしようと思っていたんです。そうしたら猿之助さんが「1日2回なんて大丈夫? しんどいよ?」なんて色々と心配してくださって。「四の切」は舞台裏も大変な演目ですが、「この人とこの人がいれば大丈夫」と猿之助さんがベテランの方に声をかけてくださいました。8月は歌舞伎座でご自分の公演もあるのに。ありがたいです。
――以前猿之助さんに取材をした際、「狐忠信は狐の化身なので、息が上がるのが客席に分からないように呼吸を殺すのが大変」とおっしゃっていました。
あの猿之助さんがそうおっしゃるぐらいですから、本当に大変ですよね。「僕はこうしたよ」とか「あのあたりはキツいからね」なんて細やかに色々と教えてくださっています。でもこうして役のことを考えられるなんて幸せです。コロナでこの一年は見えないことが多かったのですが、皆さんのご協力で着々と準備が進んでいます。感謝しかありません。
――タイトルにある「遅ればせながら」に込めた思いも教えてください。
これも七之助さん松也さんとの会話の中で「遅ればせながら、市川弘太郎の会」ってどう?とポロッと言ったら、「それ面白いじゃん!」となり……「ノリと勢い」で決めたタイトルです(笑)。今38歳ですが、部屋子の先輩方と比べると遅いほうで。「勉強会」や「自主公演」を皆さんは20代で始めてらしたので。僕は20代後半にようやくコンスタントに舞台に出られるようになりましたが、当時は会をやるような余力も経験値もなく、公演なんてとても考えられなかった。もっと早くにできた気もしますし、わざわざ今やらなくても、という声も聞こえる気がしますが、今やらないと、もう一生できないような気がするんです。
市川弘太郎
――弘太郎さんは、1993年にご本名の三浦弘太郎で初舞台を踏み、95年に猿翁さん(当時猿之助)の部屋子として、一般のご家庭から12歳でこの世界へ入られました。師匠の狐忠信をご覧になった思い出も伺えますか。「四の切」は忠信が御殿の階段にパッと出現したり、細い欄干を身軽に渡ったり、めまぐるしい早替わりもあり、ワクワクの詰まった場面ですね。
純粋に「楽しい!」と思いました。一瞬の早替わりや登場にはやはり「どうなってるんだろう? すごいなぁ」とビックリしましたし。僕は2歳でスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』を観てこの世界に憧れて、よく家でも「歌舞伎ごっこ」をやっていたのですが、それが大概「四の切」だったんです。年子の弟に「さてはそなたは狐じゃなぁ〜」と言わせて、床を一枚外した二段ベッドの上から「ハーッ!」と欄間抜けを見立てて飛び降りるのを、親を観客にして披露したり……歌舞伎に全く興味がない弟にしてみれば、迷惑な話ですよね(笑)。七之助さんと松也さんに「やりたい役ないの?」と聞かれた時、あの日の子ども部屋の情景が頭に浮かんだんですよ。僕も猿翁の部屋子になった時は色々な役を夢見ていましたが、19歳で師匠が倒れ、そこからは必死でしたから「自分がやりたい役」ではなく、一つひとつの舞台をがむしゃらに勤めて次につなげることしか考えてなかった。今回、久々に、夢見る純粋な気持ちがよみがえりました。
――ひとつの興行の責任を持つということですから、踏み出す勇気が必要だったと思います。でも自分の意思で能動的に行動し、ついに憧れの役に挑むわけですね。
そんな小さな頃から何度も観続けている演目なのに、改めて台本を読むと、初めて気づくことがあるんですよね。三谷幸喜さんが脚本を手掛けたドラマ「王様のレストラン」で、山口智子さん演じるシェフが「ブロードウェイで毎日ダンス見ていたら、踊れるようになると思う? 違うでしょ」と話す台詞があるのですが、まさにそれです(笑)。実際にやるのと、ただ見ているのは、全然わけが違うんです。
市川弘太郎
――劇場は池袋の「東京建物 Brillia HALL」です。
東京建物 Brillia HALLは、旧豊島公会堂跡地に建てられた劇場です。僕は豊島区出身で、区の連合学芸会で公会堂の舞台にも立ちましたし、“地元の劇場”という強い愛着があります。小学生時代に市川弘太郎になりましたから、当時から応援してくださっている地元の皆さんも近くにたくさんいらっしゃいますし。旧公会堂では8年前、『かぶくものたち✕池袋』と題した一門の若手会も開催させてもらいました。
――では、長年、弘太郎さんの舞台をご覧になっている皆さんも詰め掛けますね。
小学生の同級生は、今、ちょうど子育て中の年代。「子どもを連れて行っていい?」と聞かれたら「どうぞ、どうぞ」と答えています。だって、2歳で歌舞伎役者を目指した市川弘太郎の自主公演で、それを断るなんて大矛盾じゃないですか(笑)。歌舞伎座も未就学児不可ではありませんし、子どもたちにも、先入観なしに楽しんでほしい。それが歌舞伎の未来につながると思うんです。僕が歌舞伎役者として大事にしていることは、「あの時の三浦弘太郎少年に対して胸を張って生きているかどうか」なんです。客席にあの頃の自分がいると思って演じたいです。
三浦弘太郎少年
――「四の切」の前には舞踊劇「吉野山」がつきます。春爛漫の景色の中、愛する義経を追う静御前と家来の忠信が旅をする姿は、美しいですよね。
せっかく七之助さんがご出演くださるので、静御前とのやりとりが多い「吉野山」からやりたかったんです。「四の切」では、師匠猿翁に大変お世話になったので、恩返しをできるのはここだ!と言ってくださり、竹本葵太夫さんが出演をしてくださることになりました。「吉野山」には長年の友人、清元一太夫さんが出てくれます。音楽からも支えていただける公演。これもありがたいですね。
――中村屋ご一門の中村鶴松さん、市川中車さんの御子息・團子さんもご出演されますね。
鶴松さんも僕と同じ部屋子で、早くに師匠(十八世中村勘三郎)を亡くして苦労しながらも、熱い想いを持つ仲間なので、ぜひ出てほしかったんです。舞台からの風景を一緒に見てほしいですね。團子さんは、昨年11月に獅童さんの「四の切」に、駿河次郎(義経の家来)​で出ているんです。あの時は彼と同年代の市川染五郎さんが義経で、きっと「いつかやりたい」と思ったでしょう。今回の「四の切」に彼が義経で出てくれる事は、将来のためにも大きな意味があると思っています。
市川弘太郎
――何と発売初日に入場券が完売しましたね。
驚きました……ご共演の皆様のおかげです。お客様にも、心から感謝しております。
――映像の配信もありますか?
劇場に足をお運びいただけない方にもご覧いただきたいという思いと、自分の夢が叶う瞬間を映像に残したいという思いから、当日の上演作品の配信化とBlu-ray化を計画しました。しかし、観客半分の時点で制作費が逼迫しておりましたため、映像化にかかる費用をクラウドファンディングという形で皆様にご協力をお願いしたところ、開始後2日目に早くも目標額150万円を超えることができました。最終的には307%、4,617,500円というたくさんのご支援をいただき、本当にありがとうございます。おかげさまで当初の予定よりも多く制作費へ充てることができるので、単なる記録映像ではなく、映像としての良さを活かした作品としてお届けしたいと考えています。配信のほうは9月頃を予定しており、生配信ではなく、アーカイブでご視聴頂けます。
また、ご支援者様以外の方へどのようにお届けするかについては、まだまだ詰めないといけないことばかりでして、発売日のスケジュールなどを発表するに至っておらずですみません。
――弘太郎さんは昨年8月、古典プロジェクト「不易流行実行委員会」を結成。狂言と歌舞伎のオンライン公演「不易流行」の配信は、コロナ禍で舞台出演の機会を奪われた同門の若手の皆様の貴重な表現の場となりました。一門のお仲間とのオンライントークイベント「部屋子の部屋」はここでしか聞けない深い話も多く、ファンには堪らない企画。最近は「音楽」に焦点を当てた邦楽の番組「音楽驛」を開始するなど、様々なコンテンツを提供しています。
コロナでは失ったものも多く、まだまだつらい状況が続きますが、「不易流行」を開始して嬉しいこと、気づいたこともたくさんあるんです。「部屋子の部屋」では「御福分け(プレゼント企画)」をやっていて、歌舞伎の専用劇場がない地方の方々からもたくさんメッセージが届くんですね。日本全国から、時間と労力とお金を使って歌舞伎座に足を運んでくださっていたことに改めて気づき、そうした皆様に支えられていたことを自覚できていなかった自分が恐ろしいと思いました。この気持ちを忘れないように、「不易流行」の活動を続けていきたいと考えています。
「不易流行」より
邦楽番組「音楽驛」より
――今後の動きも注目ですね。夢を実現する公演、期待しております!
結局人生は“Never Too Late”、何かを始めるのに遅すぎることはないし、始めないと「いつか」はないんですよね。小さな頃から親交のあった狂言師・善竹富太郎さんが昨年4月に新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったことは大きなショックでした。「歌舞伎と狂言の『宗論』を見比べる公演をいつかやりたいね」と話していたのに……人間の命は儚くて。彼の弟の大二郎さん、お父様の十郎さんに参加していただいたのが、「不易流行」の第一回目の配信でした。
僕と同年代の皆さんも40代を前に、「やりたいことを横に置いたまま、こうして生きていくんだろうな」と日々に折り合いをつけて生きている方が多いと思うんですよ。だって、僕がそうでしたから! こんな自分を壊してくれたのが仲間たち。僕も同年代の方々に「何かはじめてみよう」と背中を押すようなメッセージを送れたら、こんな嬉しいことはありません。
市川弘太郎
取材・文=川添史子

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