末満健一「すべて、命の肯定の物語」
/TRUMP解体新書 Vol.2【そこにある
哲学】

2021年6月からスタートした<TRUMPシリーズ>Blu-ray Revival発売記念連載『TRUMP解体新書』。この連載では、6月から毎月1タイトル、8か月連続リリースする舞台<TRUMPシリーズ>について、毎月1回、全8回、脚本・演出の末満健一さんのインタビューと共にたっぷり、じっくり振り返っていきます。
Vol.1では【入門編】をお届けしましたが、Vol.2となる今月からは末満さんのインタビューに突入。まずは、末満さんの死生観が色濃く反映された<TRUMPシリーズ>の【哲学】についてお話をうかがいました。
■出発点は「作品性」と「商業性」の両立
――<TRUMPシリーズ>1作目であるピースピットVOL.9『TRUMP』(’ 09年11月@大阪・in→dependent theatre 2nd)は、末満さんが関西小劇場で活動されていた時期につくられた作品です。当時、関西小劇場全体で観客動員が減少傾向にあり、「もっとお客さんに興味を持ってもらいたい」というところから生まれたのだそうですが、なぜこういう作品になったのですか?
小説や漫画では「ヒット作」と言われるものが出てきて、その後メディアミックスへと拡大していくという流れが珍しくありません。一方で、演劇で一次作品としてのヒット作は、全くないわけではありませんがなかなか聞かないですよね。特に『TRUMP』の初演をやっていた頃は、そういうことを意識したつくり方もある種邪道というか、「媚びている」「不純だ」みたいな雰囲気がありました。ただ、2009年頃の関西小劇場って800~1000人くらいの集客で「人気劇団」と言われるような状況で、さらにそれも縮小傾向にあり、当時は演劇仲間で顔を合わせれば「お客さんがいなくなってきている」と話していました。でも同じ頃、それこそ大きな規模のミュージカルやアイドルのコンサートだったりは、何万人、何十万人とお客さんを集めていた。つまり、エンタメを楽しむ人がいなくなったわけじゃないんですよね。なのに僕らは集客努力をせずに、「いなくなった」と環境のせいにしているような気がして。ただもちろんそれは集客のために作品性を変えるということではないし、各々のクリエイターがやるべき作品をやるべきだと思います。​
末満健一
その中で、僕はそれを「両立できないだろうか」と考えました。「やるべき作品をやる」と「それでお客さんも呼ぶ」、つまり「作品性」と「商業性」を両立させることはできないのかということです。集客効果を役者の人気に頼るでもなく、コンテンツの力でお客さんを呼べないだろうかと。それはチャレンジしてみるべきだと思ったので、今はどういったものが求められているのか、ターゲット層はどこにいるのか、どういう年齢のどういう職業の方が劇場に足を運ぶのか、などをリサーチしました。と同時に、ただお客さんにすり寄っていくだけじゃなくて、そこに作家としてのアイデンティティを込めた作品づくりもやっていこうとしました。それが『TRUMP』の出発点です。​
■「これが最期かもしれない」――”死”に対する対抗手段が唯一”演劇”だった
末満健一

――末満さんの作家としてのアイデンティティというのはどういうものですか?
僕は作家としては、村上春樹さんや手塚治虫さん、いろいろな方に影響を受けています。特に手塚治虫さんの影響は強くて、定期的に『火の鳥』を読み返しているのですが、その都度、重たい気持ちになったり、自己を顧みたり、凹んだり、暗くなったりする。僕にとっては生半可には向き合えない作品です。
自分でもこんな作品をつくってみたいということは常々思っていて、『TRUMP』は『火の鳥』から自分が受け取ったものを解体して再構築するならどんな作品ができるのだろうか、というところから生まれました。だからシンプルなんです。「生きる」ってどういうことなのか、「命」ってどういうことなのか、「自己認識」ってどういうことなのかを、演劇というジャンルで突き詰めていった作品です。

――そのシンプルな部分についてもう少し詳しく聞きたいです。
誰しも死生観があると思うのですが、僕はそれに囚われすぎているんです。毎日、「5秒後に突然死してしまうのではないか」「寝たらもう目が覚めないんじゃないか」という恐怖がある。だから常に憂鬱ですし、夜も「これが最期かもしれない」と思うとなかなか寝られません。特にきっかけがあったわけではないのですが、高校生の頃からずっとそうで、その恐怖が24時間365日、日常というものに色濃く併存していて、毎日が今際の際のような感覚です。​
「生きる」という現象が、「生まれる」という現象により始まって「死」という現象により終わるってことが決定づけられている中で、人はそれぞれ楽しんだり、しあわせを望んだりしていますよね。でも僕は、いわゆる「楽しむ」みたいなことをあまり経験したことのない人間で。例えば友人がたくさんいるであったり、旅行に行くであったりといった、今生の悦楽の少ない人生を送ってきました。そういう「楽しむ」が少ない自分が「死」という現象に対する対抗手段は、演劇しかなかったんですよね。だから、演劇が好きということがスタートではないんです。演劇を楽しいと思ったこともあまりないですし。​
『TRUMP-REVERSE-』(撮影:渡辺マコト)
――楽しいと思ったことがないですか。
根本的にはないですね。もちろん小さな楽しいはあるんです。「今の役者の芝居よかったな」とか「稽古の進行が滞りなくいったな」とか(笑)。そういうのはあるんですけど、根本的には、楽しい・楽しくない、とかじゃなくて、どこまで深く潜れるかに挑戦しているというような。潜水に近い感じ。息苦しいです。
――「死」への対抗手段で、どこまで深く潜れるかに挑戦するんですか?
潜っていけば、なにかしら「人生」や「死」を受容できる答えに辿り着けるんじゃないか、というような感じです。だから「探している」「辿り着きたい」という感覚はすごく強くて。じゃあそれでどこに辿り着きたいんだとか、なにを見つけたいんだってことはわからないんです。深く潜って潜って、自分でもなにを探しているのかわからないものを探している、という作業を繰り返しているだけです。それで、「どうせだったら人を楽しませながらそれを探したいな」と思い、演劇や物語という方法をとっています。でも割とみんなそうだと思うんですけどね。例えば格闘家なら強くなることでそれを追い求めているのかな、とか。​
■<TRUMPシリーズ>は、ほぼほぼ全部ハッピーエンド「そこに生きる意味はなかったのか」
『グランギニョル』
――『TRUMP』では「生きる」とか「死ぬ」とかが割と直接的に描かれていますよね。そこは末満さんの今思うことがそのまま描かれているのでしょうか。
はい。そこは割と剥き身で出しています。もちろん「ゴシックファンタジー」というオブラートに包んではいるんですけど、割と、素材そのままお出ししている感はあります。
――事前に「今回はこれが表現したい」みたいなことは考えるのですか?
「これを表現したい」みたいなものはないです。「今回はミュージカルにしたいな」とか「会話劇でいきたいな」とかはあるんですけど、「こういうテーマに着地したいな」もなくて、毎回書きながら探しているような感じです。僕はプロット(物語の骨組み。あらすじのようなもの)を立てないと書けない人間なので、それは事前につくるんですけど、あくまで大雑把な地図であって、「実際に現地に行ってみたらガイドブックで見ていたのとは全然違うよね」っていうのと同じで、実際に書いてみるとやっぱりプロット通りにはいかない。だから『グランギニョル』にしても『マリーゴールド』にしても最初から「悲劇にしてやるぞ」と思って書き始めたわけではないんです。
――とんでもない悲劇に……。
結果的に悲劇になって。「なんでこんな悲しい物語になってしまったんだ」って(笑)。『マリーゴールド』の時は、脚本を書き終わった瞬間に自分でも「ひどい話だ……」とつぶやいてしまいました(笑)。​でも、ただひどい話をつくるのが目的ではなくて、死であったり孤独であったり、そういう自分の中にある……なんでしょうね、なにかそういうものが方位磁石となって、それが導く通りに進んでいったらそうなってしまった。だから、悲しい物語をつくってやるとかいう動機はないんですよ。願わくばみんな幸せになってほしいわけです。登場人物もそうだし、観てくださる方もそうだし。
『マリーゴールド』
――<TRUMPシリーズ>は、一見とんでもない悲劇であっても救いがあるように思います。死んでしまう人も、よくよく観ると本当の絶望の中で死んでいく人は少なかったりしますし。
そうですね。せめてどこかに救いがあればいいんですけど。さっき僕も「結果的に悲劇的になって」と口にしたし、お客さんも「悲劇」として受け止めてくれていると思うんですが、実のところ、僕は<TRUMPシリーズ>はほぼほぼ全部ハッピーエンドだと思っているんですよね。大局的な視点からすると。​
――末満さんは以前もその発言をされて、波紋を呼んでいましたよね。
(笑)。僕としては、人はいずれなんらかのカタチで死ぬわけで、その死を「悲惨である」とするのは救われないと思うんです。世の中には理不尽の中で亡くなってしまう方もいらっしゃいますが、それも「かわいそう」で終わらせたくない気持ちがある。じゃあその人は運が悪かったのか、人生は不完全だったのか、生きる意味がなかったのか、みたいなことをもう一段高い視点から見て、なんとか肯定できないかと。結局僕は、自分が生きている世界だったり、命っていうものを肯定したいんですよね、おそらく。だからすべて命の肯定の物語なんです。ただなかなか伝わりませんけど(笑)。
■<TRUMPシリーズ>の終わり方は決まっている
末満健一
――明日目が覚めないかもしれない、死ぬのが怖い、と毎日思っている末満さんがこの作品を書くのは、自分のためなんですか?
どんな人でも自分のためにならないことはしないと思うんですけど、でも誰かの救いになればいいし、誰かを浄化できたらいいなとも思っています。作品によって救われる人がいればいいなっていうところですね。自分という存在もそれで救われればいいなと思います。
――以前、<TRUMPシリーズ>は作品を通した思考実験だともおっしゃっていましたが、その実験で末満さんになにか変化はありましたか?
死生観って固いので、なかなかカタチは変わらないですが、なんらかは変わっているんじゃないかと思います。明言することはできないですが。ただ、探すという作業において「もう見つからないな」とか「探しても無駄だな」ってところにはいってないので、まだ探したいですね。多分なにも見つからないまま終わっていくんだと思います。
――なにも見つからないまま。
でも<TRUMPシリーズ>に関しては、終わり方は決まっているんですよ。
『TRUMP-REVERSE-』(撮影:渡辺マコト)
――(公演パンフなどに掲載されている)年表に書かれている終わり方ですか?
そうです。そこに至る具体的な物語は決まってないですが、ラストシーンというか、閉じ方だけは決まっています。あとはそれをちゃんと描けるだけの筆力を養いたいですね。
――今はまだ書けないですか。
ちょっと足りない。書こうと思えば書けるんですけど、じゅうぶんなものとして書ける自信がないです。
――終わりはいつ考えたのですか?
演劇女子部 ミュージカル『LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇-』(’ 14年6月)の後くらいかな。ふと頭に浮かんだんですよ。知人と「ハマグリ食べ放題の店に行こう」って、お店で待ち合わせしていたんですけど、駅から徒歩5分くらいのお店なのに方向音痴で道に迷って1時間くらい彷徨ったんです。その迷子になってる時に、脈略なく思いつきました(笑)。「あれ? こうやったら終われるな」って。多分これ、「どうやって終わらせたらいいんだ」と考えていたら思いつかないんです。意識の隙をついてふっと浮かんできたんですよね。そんな経緯なので、僕にはそれが啓示のように思えてなりませんでした。その時に考えていたのは「早くハマグリ食べたい」でしたけど(笑)。​
――<TRUMPシリーズ>はハマグリに縁がありますね。
ハマグリとは縁が深いですね(笑)。コミック版を描いてくださっているのは はまぐり先生ですし、Dステ版『TRUMP』でも荒井(敦史)のハマグリのネタが脳裏に焼きついています(笑)。​

インタビューは来月に続きます。次回は、末満さんご自身に迫るお話です。
取材・文=中川實穗 撮影=iwa

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