【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#203
シンガーソングライター・西岡たかし
の言葉

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

酒屋の兄ちゃんが自転車に乗って「ワァ
ーッ」とわけのわからんことを、ことば
もつながらんのに歌っている。それは作
曲ですよ。

『満員の木 遠ざかる明日へ・わが戦慄の叫び』(著・西岡たかし/装幀、イラストレーション・田名網敬一/立風書房/1973年発刊)より

今回の名言を引用した本『満員の木 遠ざかる明日へ・わが戦慄の叫び』は、西岡たかしのエッセイ集のようでもあり、詩やイラストの作品集、あるいは自伝といった趣もある。アメリカやロンドンの旅行記や、加藤和彦岡林信康などとの対談も詰まった傑作である。ここで取りあげた言葉は、当時、戯曲『袴垂れはどこだ』(1964年初演)で脚光を浴びていた劇作家の福田善之と西岡との対談中に生まれた。誰もが作曲できることを感じさせる、作曲の真髄に迫るような言葉である。西岡は、「誰かが道を歩いて『フフーン』と鼻歌をうたうとしますね。その鼻歌が今までのあらゆるフレーズを含んでるわけですよ」「幼いころから聞いてるものが、頭の中にいっぱいあって、歩いてるとその組み合わせが別のものになって自分のものになって出てくる」「そういうのが作曲の作業ではないか」とも語っている。この話題となるきっかけが、ユニット・吐痙唾舐汰伽藍沙箱(とけだしたがらすばこ/木田高介、西岡たかし、斉藤哲夫)でリリースしたアルバム『溶け出したガラス箱』(1970年)。同アルバムは、収録に加藤和彦、細野晴臣、竹田和夫、上村律夫など先進的な錚々たるミュージシャンが参加。日本のロックの最高峰ともいわれる一枚である。西岡の言葉は、前衛的とも実験的とも感じられる『溶け出したガラス箱』の独創性の意味を表しているようにも思われる。西岡はオリジナリティとは何かということを知ろうとしていた。そもそも、この本自体が、日本版『月刊プレイボーイ』の初代アートディレクターでイラストレーターの田名網敬一のディレクションによるもの。装幀をはじめ、田名網のサイケデリックでポップなイラスト作品もふんだんに見ることができる、資料的価値の高い一冊である。
西岡たかし(にしおかたかし)
1944年5月27日生まれ、大阪府大阪市生野区鶴橋出身。シンガーソングライター、音楽プロデューサー、オートハープ奏者。1967年、フォークグループ・五つの赤い風船を結成。1968年、シングル「恋は風に乗って」で五つの赤い風船のボーカル(リーダー)としてデビュー。B面の「遠い世界に」がヒットしたため、翌年には、A面とB面の逆バージョンをリリースしている。その後、70年代初頭にかけて次々と話題作を提供し、日本における初期フォーク・ブームを牽引した。特に、西岡と藤原秀子(2013年67歳没)との混声ハーモニーは高い評価を得て人気を呼んだ。1971年、『第13回日本レコード大賞』新人賞を獲得した 女性フォークデュオ シモンズのデビュー曲「恋人もいないのに」のプロデュースと作曲を担当し大ヒットに導く。当時、西岡は、五つの赤い風船での活動の他に、作曲やプロデュースなどのソロ活動や様々なセッションにも参加している。1972年、五つ赤い風船が解散。1979年、2回だけのライブのために再結成する。2000年、再結成。日本におけるフォークミュージックの草創期を知る貴重な生き証人のひとりである。
仲村 瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。

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