大橋トリオ、THE CHARM PARK、星野源
、矢野顕子等のサポートで知られ、初
のソロ作品をリリースした神谷洵平。
隅々までこだわり抜いたドラムサウン
ドの秘密に迫る【インタビュー連載・
匠の人】

その“道”のプロフェッショナルとして活躍を続けるアーティストに登場してもらう連載「匠の人」。今回のゲストは神谷洵平。彼の名前を知らなくても、ステージ上で小柄な体をフル稼働させ、表情豊かにドラムを叩くそのユニークな演奏スタイルを目撃した人は、きっと多いのではないだろうか。しかも、隅々までこだわり抜いたそのドラムサウンドは一聴してそれと分かるほど「神谷イズム」に貫かれており、大橋トリオ矢野顕子星野源THE CHARM PARKPredawn、ここ最近ではaiko森山直太朗等ジャンルを問わず様々なアーティストから愛されている。東川亜希子とのユニット「赤い靴」のメンバーとしてマイペースに活動しながら、昨年9月には岡田拓郎やRayonsら名うてのミュージシャンたちと初のソロアルバム『Jumpei Kamiya with...』を作り上げた神谷に、これまでの歩みについてじっくりと伺った。
──神谷さんが音楽に目覚めたのは、どんなきっかけだったのですか?
父親がプロのドラマーだった時期があったんです。今は他に進むべき道を見つけてミュージシャンは趣味程度で続けているのですが、その影響もあって物心ついたときにはドラマーになりたいと思っていました。当時、父親から聴かされていたのが70年代のAORだったり、初期の(山下)達郎さんやシューガー・ベイブだったりしたんですけど、そう音楽を聴きながらいわゆるスタジオミュージシャンに憧れを持つようになって。「いつかスタジオミュージシャンになりたい」と父親に言ったところ、「スタジオミュージシャンではなく、ミュージシャンになれ」と言われたことがすごく大きくて。そこから自分でも宅録を始めてみたり、曲を書いたりするようになっていきました。
──ドラムの練習と並行して、宅録もやるようになったわけですね。
自宅が花屋なのですが、父親が店舗の地下を防音室に改造してくれて。4畳くらいのスペースなのですが、そこにハードディスクレコーダーを持ち込み、ピアノやギター、ベースなどをぎゅうぎゅうに詰めて、毎日こもっていました。例えばテレビで放映していた古い映画のナレーションをサンプリングしてそこに演奏を付けてみるとか、そういうことをずっとやっていましたね(笑)。とにかく時間があれば音楽を聴いているかドラムを叩いていました。
──プロのミュージシャンになろうと思ったのは?
もちろん音楽も好きだったのですが、同じくらい飛行機が好きでパイロットになりたかったんですよ(笑)。ただ、高校時代に吹奏楽部に入って、音楽と勉強の両立を考えた時に「やっぱり音楽の方が好きだな」と。吹奏楽の顧問の先生に進路について相談した時に「お前、プロにならないのか?」と当然のように言われたことも大きくて。そこで「あ、プロになっていいのか」と。人から言われて初めて意識したというか、真剣にプロの道を考えるきっかけにはなりましたね。そこそこの進学校に通っていたのに、その頃はかなり落ちこぼれてしまって人に勝てるものは音楽しかなかったというのもあったんですけど(笑)。
──静岡から上京したのは、大学進学のタイミングで?
「プロになるから大学には進学する」と両親と約束して、武蔵大学に行きながら立教の音楽サークルに潜り込んでいました。とにかくバンドを組もうとメンバー募集をひたすらかけて、おそらく2、30人くらいと会っていたと思います。それで出会ったのが無頼庵の堀内章秀さんで気に入ってもらって、上京後すぐでしたが2人で恵比寿LIQUIDROOMのイベントに、堂島孝平さんやスネオヘアーさんとかと出たりもしました。その直後にフリーボの石垣窓さんや、今も一緒にやっている隈倉弘至さんとかと一気に知り合うことができて。自分の活動範囲や音楽の知識が一気に広がった感じはありました。
それと並行して、大学ではシンガーソングライターのジャンク フジヤマ、ギタリストの羊毛くん(羊毛とおはな)と「ハヤオキX」というバンドを組んで、当時好きだったbenzoというバンドに影響を受けた音楽をやっていました。あと、ブラックミュージックもやりたくて、立教大学の軽音サークルに所属していたホーン隊ともバンドを組んでいましたね。
──かなり忙しい毎日だったんじゃないですか?
自分で忙しくしていただけなんですけどね(笑)。いろんなところに顔を出して、音楽ができる場を増やしていきました。
──「この道で食べていける」と確信した時期って覚えていますか?
音楽だけで生活するようになったのは、今から10年くらい前……26とか27くらいですね。それまでは、とにかくサポートドラマーとして頼まれた仕事は全て引き受けていました。しかもお金をもらう時もあれば、もらわない時もあるような曖昧な形での関わり方で、それとバイトの両立というのが結構難しく、かなりの極貧生活を送っていましたね(笑)。そんな中、転機になったのはやっぱり大橋トリオのサポートが決まってからです。大橋さん関連で、仕事の幅がグッと増えたというか。例えば、大橋さんがカヴァーした海援隊「贈る言葉」のドラムの音を聴いて、星野源さんから「あのドラムの音のイメージ」とエンジニアさんと僕とセットでレコーディングに呼んでもらったり、大橋さんがプロデュースした持田香織さんのレコーディングに参加して、それがきっかけで持田さんバンドに入れてもらった時期もあったり。コトリンゴさんも大橋さんと一緒にツアーを回った後にサポートの依頼をいただきましたね。そのあたりから「音楽で生活していけるかもしれない」と思えるようになりました。
■美術館のバイトをクビになった3日後に大橋トリオの大橋さんから連絡があって
──やはり大橋さんとの出会いが大きかったのですね。そもそもはどんなきっかけで交流が始まったのですか?
最初に出会ったのは2008年、僕がやっていた「月球」というバンドのレコ発でした。大橋さんのファーストアルバム『PRETAPORTER』がものすごく好きだったので、ダメ元で対バンのオファーをしたら出てくださったんです。それで当日ライブを見ている時に「俺は、このバンドに参加するべきだ」って強く思ったんですよね(笑)。もちろん、すでにドラマーもいるので入れるわけがないんですけど、後から聞いた話では大橋さんは大橋さんで、僕のドラムプレイに強い印象を持ってくれていたらしくて。
──相思相愛だったわけですね。
ただ、そこから特に何もなく、次に会うまで2年くらい空いているんですよ。当時はまだ僕は美術館でバイトをしていて、それを寝坊でクビになったことがあって。
──あははは。
「3回寝坊するとクビ」と言われ、短期バイトだったのですが最後の1週間でついにクビになってしまって(笑)。「これでまたしばらく生活ヤバイな……」と。その頃はよく大橋さんの「DEAREST MAN」という曲のPVを友人と観ながら、「この人、マジで俺を誘ってくれればいいのに」とかずっと言っていたのですが、美術館をクビになった3日後に大橋さんから連絡があって。
──え、なんですかその引きの強さ。
(笑)。「1曲レコーディングで参加してほしいんだよね」って。最後に会ってから2年も空いていたから本当にびっくりしました(笑)。大橋さんとしては、いつもお願いしていたドラマーの方のその日のスケジュールが合わなかったらしく、それで僕を呼んでくださったんですけど、それがきっかけとなってご一緒する機会が増えていき、僕の環境も変わっていきました。
■今も目指す目標にたどり着くための試行錯誤を続けている状態なんです
──先ほどお話に出たアーティストだけでなく、神谷さんのドラムの音やプレイに魅了された人はたくさんいると思います。それはどのように築き上げていったのですか?
本当に見よう見まねというか。当時はまだYouTubeも今ほど普及していなかったし情報もなかったので、レコードで聴いて「いいな」と思ったドラムの音に近づけるためにはどうしたらいいのかひたすら考えていましたね。僕が好きなドラマーは海外の人が多いから、根本的に体格も体のバネも違うんですよ。僕は体も小さいからなおさらで、そのハンデをどうやって補っていくかが前提にあって。楽器やツールのセレクトにしても、椅子の位置や高さにしてもそう。そこのつじつま合わせというか、色々と工夫をしていく中で変な叩き方になっていったのでしょうね(笑)。だから今も、目指す目標にたどり着くための試行錯誤を続けている状態なんです。
──情報にしても体格にしても、「ハンデ」があったからこそ様々な工夫の中でオリジナリティが生まれていったというか。
そう思います。それと、海外の情報だと知らないことも多いし、想像で補うこともあるじゃないですか。それがオリジナリティになっていくところもあるのかなと。なので、この歳になったらもう、知らないことも武器にしていこうかなと思っていますね(笑)。
──好きなサウンドを追求していく中で、神谷さんにとってはジョン・ブライオンの存在も大きいですか?
ものすごく大きいです。僕がやっている赤い靴の東川亜希子も、大橋トリオとその周りの人たちも、全員共通して好きだったのが、ジョン・ブライオンがプロデュースしたブラッド・メルドーの『Largo』(2002年)だったんです。今思うと2000年代前後は、音楽シーンにとっての一つの区切りだったというか。それまでに生まれた様々な音楽的要素がどんどんブレンドされていって面白いものになっていく、新しい時代の始まりだったんじゃないかと思うんですよ。そして、その中心にジョン・ブライオンがいたのではないかと。
──確かに。フィオナ・アップルやエイミー・マン、エリオット・スミス、ルーファス・ウェインライト、イールズなどが次々に名盤をリリースしていたのがあの時期で、その全てにジョン・ブライオンが少なからず関わっていました。
そうなんです。しかも彼が手がける作品には大抵マット・チェンバレンがドラムを叩いていて、それ込みで僕は好きでした。あの時期、最も影響を受けたドラマーは間違いなくマット・チェンバレンですね。
──はたから見ていると、神谷さんはずっと順調に仕事をこなしている印象なのですが、挫折やスランプもありましたか?
年に何回かはあります(笑)。中でも大きかったのは、2014年頃ですかね。「音楽家になりたい」という気持ちを秘めながらサポート活動をしていると、その時期が長ければ長いほど自分のエゴみたいなものを昇華できないまま演奏中に出てしまう時があって(笑)。もちろんサポートメンバーとしての意識はあるのですが、やたら目立ってしまって後々ものすごく後悔したりして。なんていうか、若気の至りみたいな時期はありましたね。それを楽しんでくれていた人もいらっしゃったとは思うのですけど。
──ライブ中にひときわ目立つ神谷さんのプレイを楽しみにしている人は確かにいると思いますよ。僕もその1人ですし(笑)、矢野顕子さんのツアーメンバーに抜擢されたのも、神谷さんのプレイスタイルが印象的だったからだと聞きました。
TOKYO M.A.P.Sに大橋トリオで出演した時、「元気なドラマーがいる」と矢野さんがおっしゃったみたいで(笑)。あの頃が一番暴れていたかもしれないですね。ただ、僕が手足をバタつかせながら蜂のように矢野さんのピアノに向かって行っても、まるで熊が片手で追い払うような感じで吹っ飛ばされました(笑)。全く太刀打ちできませんでしたね。演奏スキルはもちろん、人生経験も含めて格が違うなと改めて思い知らされました。またいつかご一緒できたらいいなと思っています。
■ソロアルバムを作ったことで、「ドラムってなんだろう?」ということが明確に分かった
──昨年9月、ソロアルバム『Jumpei Kamiya with...』をリリースすることになった経緯についてもお聞かせいただけますか?
ここ3年くらいずっと「ソロを作りたい」と言っていたのですが、実際はサポートの仕事で年に半分くらいツアーに出ていて、帰ってきて制作モードに切り替えるというのはものすごく難しく、なかなかできずにいたんです。「このままソロを出さずにいたら、これからの自分の音楽人生はどうなっていくんだろう?」という思いもずっと抱えていたのですが、昨年は新型コロナウイルスの感染拡大によってツアーが3本くらい飛んでしまって。突然、2、3ヵ月のスケジュールがポッカリ空いてしまった時に、「このタイミングしかない」と。それで急いで作ったのが本作ですね。
──レコーディングには岡田拓郎(G)さん、隈倉弘至(B)さん、Rayons(Pf)さん、副田整歩(Sax)さんという最高の布陣が並んでいますね。
去年はこのメンバーでライブを行う予定だったんですけど、それも中止になってしまって。僕が今までアルバムが作れなかった一番の理由は、やりたいことが多過ぎる上にモードも常に変わっていくのでなかなかアルバム1枚にまとめられないということだったなと(笑)。でも今回は、「バンドメンバー」とういうある意味“縛り”があることで、自分の中でヴィジョンが明確になったというか。ゲスト・ボーカリストにPredawnやTHE CHARM PARKを呼ぶとか、そういう画も想像しやすくなったんですよね。
──レコーディングはリモートで行ったそうですね。
そうなんです。幸いなことに3年くらい前にドラムが叩ける物件に引っ越したことで、ドラムのマイキングからレコーディングまでプロセスを、全て納得いくまで時間をかけることができました。僕以外のミュージシャンたちも、どれだけ時間をかけてくれたんだろう……というくらい、素晴らしいテイクを送ってくれましたね。
──マスタリングエンジニアのアンドリュー・サルロには、神谷さんが直接InstagramのDMでコンタクトを取ったとか。
制作の最終工程であるマスタリングは、絶対に好きな人にお願いしたいと思っていたんです。僕自身、2009年に最も感動したアルバムがビッグ・シーフの『U.F.O.F.』で。共同体としてのバンドの力をものすごく感じたし、それを俯瞰して見ているアンドリュー・サルロさんがどんな人なのかにもすごく興味があって。コロナ禍になった今ほど、世界の人と共通認識を持つことってないなと思ったし、その中で自分が思ったこと、それを音楽でどう表現したかったかをアンドリューさんにインスタのDMでぶつけたところ(笑)、彼もそれを理解してくれて。実際の作業もすごくうまくいったなと思って満足しています。
──リリースから半年以上たった今、あのアルバムを振り返ってどのように感じますか?
コロナ禍という特別な時期に作ってリリースできたことを、本当に誇りに思えるアルバムになったなと思っています。ドラマーとしても音楽家としても、30代後半にしてやっと1ページ目を終わらせることができたかなって(笑)。それは、レコーディングに参加してくれたメンバーのおかげでもあるので感謝しかないですね。
──「やっと1ページ目を終わらせることができた」というのは、具体的にどういうことなのでしょうか。
これはあくまでも僕自身の感覚でしかないので、どこまで伝わるか分からないのですが、今回、自分で音楽を作って機材を駆使しながらそれをレコーディングしてみた時に、心の中の「とっちらかっていた感じ」がなくなった気がしていて。要するに、音楽の中でのドラムの役割というか、「ドラムってなんだろう?」ということが、今まで以上に明確に分かったんですよね。「サポートで呼ばれた時に何を求められているか?」とか、「こういう曲だったら、こういうドラムのアプローチなのだろう」みたいな全体像を俯瞰してみるきっかけになったというか。それ以降、ドラマーとしていただいている現場でも明らかに今までと大きく変わった感覚があります。サポートということへの意識も変わったし、それを持ちながら今後生きていける道ができたなという思いと同時に、今までずっと昇華できずにいたこと、まだ出していない自分の引き出しについても明確になったので、そこはこれからもどんどん出していきたいという気持ちになれました。
──最後に、コロナ禍についてはまだまだ予断を許さぬ状況が続いていますが、そんな中で神谷さんはどんな展望を持っているかを聞かせてもらえますか?
これはコロナとは関係なく、さっきも話した2000年代というシーンの節目にリアルタイムで触れてきた人間としては、そこで培った音楽的良心を下の世代にもっと共有してさらにいい音楽を作っていきたいと思っていて。ショービジネス的なこととは離れたところで、「守るべき場所」を作りたいというふうに思っています。
──ある種のコミュニティというか。
実は最近、レーベルを作ったんですよ。そこで制作している若いアーティストのリリースも控えているし、赤い靴のアルバムも制作中です。そして自分のアルバムもまた作り始めようかなとも思っているところです。まずはこの家に、気になる人たちを集めていくことから始めてみようかなと思っていますね。どうやら僕のやっていることに共感してくれている人が、まだお会いしていない中にもいらっしゃるようなので、そういう方たちともこれから出会っていきたいです。
取材・文=黒田隆憲

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