及川光博はなぜ歌手と俳優の
二刀流を選んだのか?
『嘘とロマン』に見る
“ヤング・ミッチー”の潔さ
独自の世界観をセルフプロデュース
また、M2からM4に関しては、サウンドの生音っぷりがいい感じだとか、ファンク系らしいベースラインがいいとか、コーラスがまさにソウルフルで気持ちいいとか、いろいろとあるが、最注目はM4でのラップではなかろうか。本作が発表された1998年というと、その5年も前にスチャダラパーと小沢健二の「今夜はブギー・バック」や、EAST END×YURI「DA.YO.NE」がヒットしており、日本の音楽シーンにおいてラップは珍しいものではなくなっていたものの、まだまだヒップホップが浸透していたとは言い難かった時期。「Grateful Days featuring. ACO,ZEEBRA」が収録されたDragon Ashの3rdアルバム『Viva La Revolution』は『嘘とロマン』より1年遅い。そこでこれをやったミッチーの先見の明を感じられるところだ。
サウンドに合っているのはセクシーなリリックだけではない。M4、M5「君がいなくても」、それぞれの間奏で不穏な音が聴こえてくるが、これも歌詞に呼応してのことだろう。M7「彼と彼女のこと」、M8「フィアンセになりたい」で景気のいいブラスセクションが配されているのは、おそらくドラマチックさを助長したり、ヒューマニズムを強めに感じさせる仕掛けではないかと思う。現実感が希薄なM10「ワンダフル入浴」はレゲエ(M10はミッチーではなく、花椿蘭丸名義になっているので、そもそも架空っぽい)。15歳とのペンフレンドとのやり取りを綴ったM11「ペンフレンド」も同様。このサイケっぽさは現実感の排除だろう。M13「悲しみロケット2号」は上記で説明した“メッセージ”からするとやはりロック寄りになるだろうし、夜の空港での別れ話であるM14「展望デッキー夜間飛行」はAORになって不思議ではないのである。
何よりも本作をポップにしているのは、M1、M6、M9、M12に配された「発信音のあとに」だ。インタールード的寸劇というか、スネークマンショー的なひとりコントと言っていい代物だが、この有無で、『嘘とロマン』の聴き応えが随分と変化すると思うし、ひいてはミッチーのキャラクターの捉え方も変わってくると思う。「発信音のあとに」は(1)から(4)へと内容が変貌していくが、それが──変な言い方だが、アルバムを聴き進めるにあたっての推進力のようなものになっている。また、ここでのミッチーは決してカッコ良いだけの人物ではないので(むしろカッコ悪い)、親しみやすさという意味でのポップさは大きく変化したようにも思う。ミッチーというシンガーソングライターは決して“○○○のカリスマ”ではなく、いい意味で庶民的なキャラクターであることを後押ししていたと考えることもできて、これは慧眼であった。
最も特筆すべきは、そうしたアレンジ、サウンドクリエイトをミッチー自身が司っているところ。もちろん、すべてミッチーがやっているわけではなく、楽曲毎にもうひとりアレンジャーを迎えているし、M8やM11の編曲クレジットにはミッチーの名前はないのだが、ミッチーがすべてを見渡していることは間違いなかろう。映画やドラマで言えば、演者としてだけでなく、監督、脚本、編集などもすべてひとりでやっていると例えることもできようし、ミッチーが今も歌手と役者の二刀流を続けているのは、歌手の醍醐味、シンガーソングライターの醍醐味をミッチー自身が知り尽くしているからだろうと、勝手ながら想像する。
TEXT:帆苅智之