【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド
〜成功への道〜第三回:扇ひろ子(後
編)

昭和、平成、令和の歌謡界を駆け抜ける伝説的人物のインタビューシリーズ。今回は、1964年(昭和39年)にデビューした扇ひろ子が登場。1945年、広島県広島市生まれの扇は、生後6ヶ月で被爆し父親を失う。1964年8月6日、原爆遺児を代表して広島平和記念式典で「原爆の子の像」を歌い話題となる(※同曲は広島市に版権を寄贈し公式なデビュー曲とされていない)。同年、「赤い椿の三度笠」でレコードデビュー。翌1965年の「哀愁海峡」、ご当地ソングの先駆けとなった1967年の「新宿ブルース」が大ヒットしてスター街道に。NHK紅白歌合戦に2回連続出場を果たす。また、女任侠映画で女優としても開花し、その演技が世界的に評価された実績もある。2021年4月26日、池袋メトロポリタンホテルにて、扇ひろ子の歌手としての集大成となるステージが開催される予定。このインタビューは、その日に向けての特集記事第一弾として、前編、後編に分けて掲載する。

取材・文:仲村 瞳

流しの方についてもらって、歩いて歌っ
た新宿キャンペーン

ーー時間を遡りまして、1967年の「新宿ブルーズ」についてもお聞きしたいです。レコーディングやキャンペーンの時のことは覚えていらっしゃいますか?

レコーディングは、最初はオーケストラだったんですよ。ところが、だめ出し出されて。次に行ったら5、6人位のバンドになっちゃって。私、歌手になって3年目だったんですね。「哀愁海峡」っていう歌でヒットさせていただいて……。でも、それ以上のヒット曲がなくて。都さんは「アンコ椿は恋の花」が売れてどんどん新人賞を獲るし、「私は素質がないんだなぁ」、「この歌がだめだったらやめよう」と思っていたんですよ。ところが歌ってみたら、童謡みたいな感じに自分は思えたんですね。やっぱり演歌だったから、歌い込むような歌が歌いたかったのに、「こんな曲?」と思ってがっかりしちゃったんです。で、レコーディングもだんだん人が少なくなって。私は売れないから、フルバンドじゃお金がかかるから人数減らされたんだなって、自分が勝手に解釈しちゃったんですよ。作曲家の先生とディレクターはもめてるし。作曲家の先生は歌いこめって言ってるのに、ディレクターは「へたでもいいから童謡みたいに譜面通りに歌え」って。

で、結局そっちを取って。こぶしとかまわさなくて。もうとにかく、「♪恋に切なく降る雨も~」と歌えと。それで私、ふてくされてレコーディングしたんです。それでキャンペーンになって。新宿だから、流しの方のところにご挨拶に行って。初めてキャンペーンの歌舞伎町で、お二人の流しの方についてもらって、歩いて歌って。本当に飛び込みで入って歌ったりして。お客さんに「こういう歌ですから聞いてください」って歌詞を配りました。「覚えやすいね、これね」なんて言われて。そういうのがキャンペーンの第一部でしたね。作曲家の和田香苗先生も一緒についてくださいました。
ーーゴールデン街も行かれたのでしょうか?

ゴールデン街ではなく、歌舞伎町でしたね。歌舞伎町でしたら、縄のれんのようなちょい飲み屋がいっぱいあるので。TBSだったかな。亡くなられたアナウンサーの山本文郎さんが生放送で実況をやって放送されたことがありました。
ーーそれから火がついて、ヒットにつながったのですね。

最初、コロムビア自体は「新宿ブルース」なんてタイトルで、「北海道の人、大阪の人は買うか?」って会議でもめたらしいですよ。まだ地名入りの歌が無い頃ですから。ご当地ソングの走りですね。その後、「柳ヶ瀬ブルース」とか、色々出てきたわけですから。だけど、第一プロも、「よーし、コロムビアがそういうなら」と対抗心を持ったという逸話も残っているみたい。第一プロが「意地でもヒットさせてやる」と、色んなこと考えて、一番に火がついたのは、北海道だったんです。それで、沖縄だけはまだ日本に返還されていない時だから、「新宿ブルース」を「沖縄ブルース」としてリリースして。同じ曲なんだけど。「♪夜の新宿流れ花」を「♪夜の沖縄流れ花」ってそこだけは変えて。
ーー歌詞を変えて歌われたのですね。

はい。そこだけは変えて。コロムビアの考えだったと思うんですけど。沖縄の人は「沖縄ブルース」としてインプットされていると思います。
ーーそれは知りませんでした!

だから沖縄にも行きましたよね。右側通行で、ドルの時代でした。で、その頃から沖縄弁を覚えて。舞台で、沖縄弁でのジョークもやっていましたね。
ーー本当に色々な場所で歌われたのですね。

ヒット祈願では、目黒不動尊で滝を浴びる水垢離(みずごり)もしました。水が膝位までしかないんだけど、ものすごい冷たかった! 一番寒い時期で氷が薄―く張っていたと思います。もうね、一緒に水に浸かっていたカメラマンの人が冷えてしまって痔になったんです。寒くてガチガチでした。でも偶然、昨日もお不動さんに行って参りましたけども、お不動様が私の守り神なんですよ。だから偶然というか、柳の下にドジョウは2匹もいないんですけども、昨日も「まだまだ歌います」ってお不動様に拝んできました。毎月28日に行っていますから。ご縁があります。

有線で1位を記録 ゲイバーでも大評判

ーー新宿のご当地ソングで、1975年に発売された「新宿ゴールデン街」、こちらは山口洋子さんの作詞ですね。

そうです。こちらは歌なしで台詞だけで。
ーー山口洋子さんはレコーディングに立ち会われたのでしょうか?

はい。語りで好きなようにさせてくださいました。今聴くとあまり上手じゃないんだけど(笑)。まだ子供だから。回転落とした方がオカマっぽくて(笑)。
ーータモリさんのアイデアですね。レコードの回転数を本来の45回転から33回転に変えてかけると声が太くなり、“新宿2丁目バージョン”になるという。面白いアイデアです! タモリさんのラジオ『オールナイトニッポン』で紹介されて話題となり、レコードも再発売されたのですね。

はい。有線で1位になっていましたからね。今これを、ファンの人でうまく語る人がいて。私のように、「男? いたわよ」っていう風に言うんですよ。で、私が「そう? どんな男?」って、チャチャ入れるんですよ。「つまんない男がさ」、「それあんたが悪いんでしょ」とかね(笑)。これ、うけるの(笑)。
ーー掛け合いバージョンになるんですね。

けっこう受けるので、「これ面白いな」と思って。ちょっと考えているんです。
ーーYouTubeでやられたら良いのではないでしょうか。

そういうのは、私はわからないんですけど、なんか面白いですよね。これやってみたいとは、今考えています。今初めて言うんですけど。当時はこの曲はイントロクイズでも使われて、最初の数秒で、中学生の子が「新宿ゴールデン街!」って答えていたのをラジオで聞いたことがあります。「すごいじゃん」と思って。タモリさんのおかげです。
ーータモリさんが回転数を間違えたために偶然発見したそうですね。

その頃、オカマの世界でも、ゲイバーでも評判になったから、あちこちのオカマから呼ばれましたね。「遊びに来てよ!」って。「行く行く!」って(笑)。この曲では何かしたいとずっと思っています。
ーー今、若い世代でも昭和歌謡がブームになっていますし。

でも、若い世代は扇ひろ子を知らないでしょう。だから何かやって、「面白いじゃん」と思ってくれれば、今の若いオカマも知らないと思うからね。
ーー歌と合わせて、扇さんの映画も若い人達に知ってほしいです。

こういう任侠ものは今はね……。当時、東映で藤純子さん、大映で江波杏子さんもやられていましたからね。その3人が一緒になってやろうって話が持ち上がったんです。3人の女侠客で。それぞれが、日活だから小林旭さんと、高橋秀樹さんと、東映は高倉健さん、大映は誰々と。ところが、どこで配給するかっていう話になっちゃって。これをやっていたら大変だったし、私ももしかしたら、女優の世界に行っていたかもわかりませんね。もし実現していればね。
ーーそれは恐ろしく豪華ですね! 観たかったです。当時、お三方(扇ひろ子、藤純子、江波杏子)の中で、扇さんが一番人気があったと、日活宣伝マンの証言がありました。

いいえ! そんなことございません! あの、江波さんが壺振りでね、藤純子さんが立ち回りかな、私の場合は啖呵売(たんかばい)って言って、テキ屋だったから。役柄がテキ屋の娘っていうことで。寅さんがやっているようなね、ああいうのをダボシャツ着て、腹巻巻いて「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃいお客さん」っていう役だったんですよ。本当のテキ屋さんが来て教えてもらって、その調子や言い方、あと反物の衣擦れの音とか。全部、勉強しましたね。
ーー今、テキ屋さんも見ませんからね。

そうなんです。昔は縁日に行くと、「姐さん、ご苦労さんです!」って全然知らないテキ屋さんに声をかけられたりしました。向こうは映画を観ているから、仲間だと思って。どこへ行っても、「どうも姐さん! ご苦労さんです!」って言われて。「姐さんにビール渡さんかい!」って言う人がいるから、「そう?」ってついでもらって……。
ーー現実でも姐さんなんですね。

もう、新幹線でもありました。「姐さんどうぞ! 一杯飲んでください」って。仲間だと思って。そういう人達に人気がありました。

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