『アリージャンス~忠誠~』を軸に紐
解く、ブロードウェイにおける日系人
パフォーマーの系譜~「ザ・ブロード
ウェイ・ストーリー」番外編

ザ・ブロードウェイ・ストーリー The Broadway Story

☆番外編 『アリージャンス~忠誠~』を軸に紐解く、ブロードウェイにおける日系人パフォーマーの系譜
文=中島薫(音楽評論家) text by Kaoru Nakajima

 2021年3月12日に東京国際フォーラム ホールCで幕を開ける、『アリージャンス~忠誠~』の翻訳版上演。2015年にブロードウェイで初演された際は、キャストのみならず、主要クリエイター陣もアジア系で固められた初のミュージカルとして、大きな話題を呼んだ作品だ。しかしこの作品が実現するまで、先人たちのたゆまぬ努力があった。ここでは、ブロードウェイで活躍した日系あるいは日本人俳優に的を絞り、人種差別と向き合って成功した彼らの軌跡を紹介しよう。
『アリージャンス』レア・サロンガ、マイケル・K・リー  Original Broadway Company of Allegiance photo by Matthew Murphy(写真提供:ホリプロ)
■第二次世界大戦下の日系人ダンサー
 『アリージャンス~忠誠~』をブロードウェイで観劇し、何より頼もしかったのが、才能と人気を兼ね備えたアジア系パフォーマーが、その実力をフルに発揮し喝采を浴びていた事だ。『ミス・サイゴン』(1989年)のレア・サロンガを始め、韓国ミュージカルで活躍し、今年(2021年)1月には東急シアターオーブでのコンサートで好評を得た、マイケル・K・リーの好演に感じ入ったが、中でも祖父役で、飄々とした演技ながら堂々たる存在感を示したのが、この作品の原作者でもあるジョージ・タケイだった。
『アリージャンス』ジョージ・タケイ、レア・サロンガ Original Broadway Company of Allegiance photo by Matthew Murphy(写真提供:ホリプロ)
 タケイと言えば「スタートレック」。アメリカでは、1966~69年に放映されたこのSFテレビドラマで、宇宙船の乗組員の一人を演じスターとなった日系の俳優だ。テレビ以外に映画出演も多いが、ブロードウェイでは『アリージャンス~忠誠~』がデビュー作だった。第二次世界大戦下に、タケイら日系人が体験した苦難の数々を描く本作。
「スタートレック」のジョージ・タケイ(右端)。このドラマ、日本では「宇宙大作戦」のタイトルで、1969年に日本テレビが初放映した。
 ところが驚くべき事に、同時期にブロードウェイで人気を博した日系のバレエ・ダンサーがいた。彼女の名はソノ・オーサト(大里園)。作品は、1944年にレナード・バーンスタイン(作曲)とジェローム・ロビンス(振付)が放った、『オン・ザ・タウン』だった(映画化邦題は「踊る大紐育」)。この快作で、主人公の水兵が憧れるアメリカ人ヒロインに扮したのがオーサトだったのだ。彼女は3年前に99歳で逝去。私は晩年のオーサトに、NYで話を訊く機会を得た。 
 バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター)で活躍後に、ブロードウェイに進出したオーサト。戦時中の作品で、日系人がアメリカ人女性を演じた事に対する観客の反応を訊ねると、「意外や抵抗を示さなかった。これは、舞台ならではのマジックという他ないわね」との答え。下の写真でお分かりのように、アイルランド=フランス系カナダ人の母親譲りと思われる美貌が、「舞台ならではのマジック」を増幅したのはもちろん、その口調からは、人種には関係なくダンスの実力で勝負をしてきたというプライドが感じられた。加えて、後に『ウエスト・サイド・ストーリー』(1957年)で、差別の愚かさを問うたバーンスタインとロビンスも、当時からキャスティングに関してリベラルな思想だった事が分かる。
1938年に撮影されたソノ・オーサトのポートレート Photo by George Platt Lynes / Courtesy of Sono Osato
■アメリカで求められた従順な東洋人女性像
 前述のレア・サロンガが、2002年にブロードウェイで主演したミュージカルが、サンフランシスコの中国人社会を舞台にした『フラワー・ドラム・ソング』の再演。この作品の初演(1958年)で主役を演じたパフォーマーが、ミヨシ梅木だった(彼女は日系人ではなく、小樽生まれの日本人。本名は梅木美代志)。日本ではナンシー梅木の芸名で、ジャズ歌手として一世を風靡。歌の勉強のため1955年に渡米以降、映画「サヨナラ」(1957年)でアカデミー賞助演女優賞に輝き、『フラワー~』でトニー賞最優秀女優賞にノミネートされた。
 興味深いのは梅木の場合、オーサトとは逆に、アメリカ人が望むアジア系女性像を演じた事だ。「サヨナラ」では、朝鮮戦争下にアメリカ人パイロットと恋愛関係に陥りながら、日本人女性との結婚を禁止する軍令を悲観し、心中してしまう薄幸な娘。『フラワー~』は、見合い相手として中国からやって来た純朴な娘。つまり、男性に尽くす健気な女性を演じスターになったのだ。また日本でのジャズ歌手時代には、ハスキーで官能的な歌声で鳴らした彼女は、渡米後に声楽の猛特訓を受け音域を広げ、健康的なクセのないミュージカル唱法へと変貌を遂げる。これも、アメリカで自分のイメージを維持するための、彼女なりの処世術だったのだろう。
1960年にリリースされた、ミヨシ梅木のソロ・アルバム「ミヨシ」。コケティッシュなボーカルが魅力的で、英語の発音も美しい(CDは惜しくも廃盤)。
 いわば、ステレオ・タイプな東洋人女性を演じ続けた梅木。本人に忸怩たる思いがあったのかは知る由もないが、日本でも放映されたテレビドラマ「エディの素敵なパパ」(1969~72年)に家政婦役でレギュラー出演後は、一切の消息を絶つ。それから30年以上を経た2007年に、78歳で亡くなった(晩年は、息子夫婦や孫たちとミズーリ州で暮らしていたという)。
梅木は、1961年の『フラワー・ドラム・ソング』の映画化版にも出演。これはアメリカ公開時のポスター。
■アジア系俳優の地位向上に尽くす
 最近では2012年を皮切りに、『CHICAGO』のブロードウェイ公演で3回主演した米倉涼子、『王様と私』(2015年)でトニー賞主演男優賞候補となった渡辺謙が記憶に新しいが、この2人は再演作品で快挙を成し遂げたケース。ブロードウェイ・ミュージカルの初演キャストで、外してはならない日本人俳優がもう一人いる。それが、スティーヴン・ソンドハイム作詞作曲の『太平洋序曲』(1976年)で絶賛を浴びた、マコ岩松(1933~2006年)だ。
1984年に出版された、マコ岩松の半世紀「アメリカを生きる」
 神戸生まれの彼は、15歳で渡米(本名は岩松信)。舞台装置の仕事をきっかけに、芝居に魅せられ役者を志した。その後、映画「砲艦サンパブロ」(1966年)でブレイク(アカデミー賞助演男優賞候補)。私は2000年に、一時帰国した彼にインタビュー出来たが、やはり『太平洋序曲』の話が興味深かった。当初はストレート・プレイでの上演を企画された、黒船来航時の日本を描くこの作品。突然ミュージカルへと路線変更となり、氏曰く「こちとら譜面も読めやしない。またソンドハイムの曲が小難しくてね。ところが稽古を重ねる内に、どんどん音楽の魅力にのめり込んだ。こりゃ本腰を入れてやらねばと決意したんです」。
 努力の結果が実り、見事トニー賞主演男優賞にノミネートされた岩松。ハリウッドとブロードウェイのアジア系俳優を率いるリーダー的立場で、差別撤廃と待遇改善に尽力した。彼の発言で忘れられないのが、「アジア人への偏見は以前と比べ緩和はしたものの、白人の潜在意識の中には、今なお根強い差別感覚が存在している」という怒りを込めた言葉だ。岩松は、渡米後半世紀以上も、この「いわれなき差別」と闘い続けたのだ。
『太平洋序曲』初演(1976年)のオリジナル・キャストCD(輸入盤)。岩松の無骨な歌いっぷりが聴き応え十分で、ソンドハイムの楽曲も秀逸だ。
 ここまで歴史を辿り、改めて痛感させられた事がある。アジア系パフォーマーが出演出来るブロードウェイ・ミュージカルは、上記の『王様と私』、『フラワー・ドラム・ソング』、『太平洋序曲』、『ミス・サイゴン』など、未だに本数が限られている現実だ。しかも、これらの作品に登場するアジア人は、アメリカ人の観点から描かれていた。故に今改めて観ても、あまりにも類型的で時代錯誤の描写が散見され問題も多い。アジア系クリエイターによって発信された『アリージャンス~忠誠~』が、アジア人差別に再び目を向けるきっかけとなり、優れたミュージカルを生み出す原動力となる事を願って止まない。

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