栗原裕一郎緊急寄稿 過去のアイドル
襲撃例から考えるAKB48襲撃事件

(参考:AKB48メンバー襲撃事件をどう考えるか 岡島紳士が語る“接触系”アイドルの課題と今後)

 その場で捕り押さえられた犯人は、梅田悟という24歳の無職の男で、現在のところ「人の集まるところで人を殺そうと思ってやった。誰でもよかった」「AKBに特別な思い入れはない」「AKBなら誰でもよかった。切りつけたメンバーの名前は知らなかった」などと供述している。

 芸能人が何者かに襲われる事件というのは、付き物といってよいほど過去に何度も起こっており、ツイッターなどでもその日のうちに事例が列挙されていたし、新聞も簡単な一覧を載せていた。
どこのネジがどう外れていたかはさておき、ともあれいかれた奴がアイドルを襲ったという現象だけを取り上げれてみれば、今回の事件もまたありふれた一件にすぎない。

 しかし、論客としてAKBファンを代表する一人である漫画家の小林よしのりがブログに「今回の凶行は、AKBの根幹にして、最大の弱点を突かれた事件である」と書き付けたことに象徴されるように、ありふれている一方で、現況のアイドル・ブームと、それを支えるビジネス・モデルを揺るがしかねない影響が危惧されるという、過去には例のない事態に広がってもいる。実際、警視庁からAKBの運営会社AKSに、警備増強と、握手会やハイタッチなど“接触”を目的としたイベントの当面の中止が要請され、各地で予定されていたイベントが取り止めになったのはもちろん、拠点であるAKB劇場も5月31日まで営業を停止するという発表がなされた(以降の予定は未定)。avexなど他の大手にもアイドルの接触系イベントを中止すると発表するところが出てきている。(参考:小林よしのりオフィシャルwebサイト「AKB48握手会で凶行」)

 AKBに留まらず、アイドルの現システムを支える、小林よしのりのいう「根幹」である“接触”が問題の焦点になっている以上、いわゆる「AKB商法」が議論の俎上にあげられているのは、まあ、自然な流れというべきだろう。宇野常寛のように、NHKのごく穏当な報道(参考:NHK NEWS WEB「AKB握手会 メンバーら3人切りつけられけが 岩手」)に対してまで「悪質な印象操作だ」などと過剰な反応(参考:Twitter) を示している者もいるが、AKB商法とそれに付随する問題に触れないほうがむしろ不自然というものだ。

 供述の真偽をはじめとして、事件の背景が明らかになったとは言い難い現時点で、犯行とAKB商法を短絡するのも、無関係だと主張するのも、どちらも拙速であり、材料がもうちょっと出揃うのを待つ必要がある。

 同様に、過去の事件と今回の事件を、同じ性質と見なすのも、まったく違うと考えるのも、どちらも正確さを欠くだろう。

 ここでは、代表的な芸能人襲撃事件とその背景、犯人の素性、襲われた芸能人のその後などを整理して、過去の事件と今回の事件の類似点と相違点を比較検討するための材料の一つとしたい。

美空ひばり塩酸事件

 1957年1月13日、浅草国際劇場での正月公演「花吹雪おしどり絵巻」に出演していた美空ひばり(当時19歳)が舞台裏から花道に出ようとしたところ、待ち構えていた、同じく19歳の少女に塩酸をかけられた。ひばりは顔や胸に火傷を負い、周囲にいた役者にも被害が及んだ。少女は逃げようとしたがその場で捕り押さえられた。

 少女は山形県米沢市の出身で、中学卒業後、紡績工場に勤めながら定時制高校に通っていたが中退した。事件を起こす前年の3月にお手伝いの口がかかって上京、板橋区の会社役員宅に住み込みで働いていた。

 美空ひばりは54年に紅白出場も果たしておりすでに大スターだった。少女は中学から美空ひばりの大ファンで、部屋にはひばりの写真が2枚貼られていた。住み込み先からひばりの自宅へ10回ほど電話をかけたが取り次がれることはなかった。ひばり見たさに仕事をさぼり(「死にたい」と書き置きを残して住み込み先を出た、と報じた記事もある)、12日の昼に「花吹雪おしどり絵巻」を観劇した。初めて生で見るひばりだった。その夜、少女は上野の旅館に泊まったのだが、帰りに薬局で塩酸を買い求めており、メモ帳に、

「あの美しい顔にくらしいほど。塩酸をかけて、醜い顔にしてやりたい」

と走り書きしていた(塩酸を買ったのは13日とする報道もある)。

 翌日、浅草でひばり主演の映画を観たあと、少女は国際劇場へ行き犯行に及んだ。

 塩酸をかけられたひばりは、急いで水で洗われた。この処置が幸いして全治3週間の火傷で済み跡も残らなかった。

 浅草署へ連行された少女は半狂乱で「死にたい」と泣きじゃくっていたという。本田靖春『「戦後」 美空ひばりとその時代』によると、地元山形の新聞は事件を少女の顔写真入りの実名で報道し、そのため彼女は「塩酸少女」として県下に知れ渡ることとなった。少女の母親が1966年に死亡すると、自殺じゃないかとの噂が近辺には流れた。本田は少女本人を探し当て電話取材をしたが、具体的なことは何も聞き出せなかった。

 竹中労は『完本 美空ひばり』に、ひばりの口述という体裁で(果たしてそうか疑わしいが)こう記している。

「私は、こう思います。あの塩酸は私にではなく、ゆがんだマスコミの鏡の中の、“人気”という怪物に浴びせかけられたのにちがいないと。(…)同じ一九歳の、その人と私との間に、暗く大きくひらいた距離に、私は慄然としました」

こまどり姉妹刺傷事件

 1966年5月5日、鳥取県倉吉市民会館で「こまどり姉妹ショー」が開催された。終演間近、舞台の並木栄子・葉子姉妹(当時26歳)にファンが詰め寄りプレゼントを渡すなか、最前列に座っていた男が花束を手に近づいてきた。男は舞台に駆け上がり花束を捨てた。手には刺身包丁が握られており、葉子の腹を刺した。続けて自分の腹に包丁を突き立てたが、会場警備中だった警官に現行犯逮捕された。葉子は全治2ヶ月の重傷、男は全治10日ほどの怪我だった。

 男は倉吉市に住む18歳の少年で、姉の栄子の大ファンだった。少年は懐に遺書を忍ばせていた。二人で歌っていても姉のほうはいつも寂しそうに見え、自分と結婚して、歌は趣味でやればいいと考えていた。他の土地の公演にも足を運び、手紙を送るうちに、栄子のためなら死んでもいいと思いつめ、あげく無理心中をはかろうと犯行に至ったのだった。

 しかし刺されたのは葉子であり栄子ではなかった。警察は見誤ったのだろうと判断したが(何しろ双子だ)、ノンフィクション作家の朝倉喬司は、少年が「自分の中だけでひたすら醸成した栄子の孤独感、不幸感の根拠をもっぱら妹の葉子に求め、栄子のために、それを抹殺してしまおうとしたのではないか」という解読をしている。「二人でいても、一人ぼっちに見えた」という少年の供述は「ハッとするほど、こまどり姉妹の歌の本質をついており、ファンの熱狂というものの直感に驚かされる」とも書いている(『別冊新評 戦後日本芸能史』)。
まあ、ある世代以上のノンフィクション作家にありがちな深読みの類といってよいと思うが、戦後という世相において、こまどり姉妹という存在と、少年の過剰な思い入れとの間に、現在からは想像するのが難しいその時代ならではの相互作用が働いたということはあったかもしれない。後に藤圭子が体現する時代との共振の、だいぶ小ぶりな先例みたいなものが。

 6年後、鳥取県の山中で白骨死体が発見された。所持品から葉子を刺した少年であることが判明した。首吊り自殺だった。事件後、少年は少年院に収監されたが、69年に出所してからは大工の見習いとして真面目に働いていたという。

 葉子の回復を待ち、その年の12月にこまどり姉妹は活動を再開したが、父母が急死する、葉子が癌に罹る、栄子が未婚の母になる、税理士が横領して莫大な借金を抱えるなどトラブルに立て続けに襲われ(少年の自殺もその一つだったろう)、73年3月に芸能活動を休止した(76年に復帰)。

岡田奈々監禁事件

 1977年7月15日の深夜1時頃、港区の岡田奈々(当時18歳)のマンションに男が侵入した。暑さのため開け放していた窓から入り込んできたのだが、部屋は8階にあった。よじ登ったとも、空室だった隣室からベランダを伝って忍び込んだともいわれたが、犯人は捕まらなかったので真相はわからない。

 男は身長180cmくらいで、覆面を着けていた。目を覚ました岡田を押さえ込み、ナイフを突き付けて顔を殴った。脅された岡田は反射的にナイフを握ってしまい、30針を縫う大怪我を負ったのだが、男はナイフで切り裂いたシーツで手当をしてくれた。水が欲しいというと飲ませてくれ、持参したナイフでトマトなどを切って食べさせたりもしたという。

 ベッドに縛り付けた岡田に向かって、男は、アイドルとしての心構えなどについてアドバイスやら説教やらをし、あげく新曲だった「らぶ・すてっぷ・じゃんぷ」のテープにあわせて歌い踊って見せたりした。

 やがて、男は、血の付いたパジャマを着替えるよう命令した。岡田は男の前で着替えをせざるをえなかった。

 約5時間の籠城の末に迎えた朝、男は、血の付いたシーツとパジャマを手土産に岡田のマンションから立ち去った。去り際に拘束を解かれていた岡田は直ちに110番した。

 事件発覚後、岡田の事務所は、しばらく安静が必要と発表したが収まりがつかず、数日後に、岡田本人が手に包帯を巻いた姿で記者会見に臨むこととなった。

 収拾がつかなかったのは、むろん、清純派の岡田が、果たしてレイプ被害に遭ったのかということに芸能マスコミの興味が集中していたからだ。

 岡田奈々は1975年にアイドル歌手としてデビューしたばかりだった。歌唱力はなかったが、70年代アイドルの中では突出した清楚な美形で、CMやドラマに引っ張りだこ、4枚目のシングル「青春の坂道」もスマッシュヒットして、これからという時期だった。

 岡田は、レイプはもちろん、キスもされなかったし、胸も触られなかったと弁明したが、額面通りに納得した芸能メディアはほとんどなかった。

 先述したように、犯人は結局捕まらないまま時効が成立してしまった。だが逸話があって、作家の安部譲二が塀の中にいたときのこと。ある受刑者が岡田を強姦したと自慢げに吹聴しているのが耳に入った。岡田の熱烈なファンであった安部は、その男を半殺しの目に遭わせて、刑期が2年だか3年だか延びたそうだ。

 清純派アイドル歌手だった岡田にこの事件が影を落とさないはずがなく、その後もレコードのリリースはコンスタントに続いていたが、20歳を機に、歌手を廃業して女優に転身した。以降、傍目には順調に女優のキャリアを積み重ねていったように見えるが、岡田の内心は知りようがないし、70年代アイドル歌手から希有な人材が一人失われてしまったことは間違いない。

松田聖子殴打事件

 1983年3月28日、沖縄市営体育館で皮切られたツアー「松田聖子スプリング・コンサート」が中盤を過ぎた頃、若い男がステージに上がり、30cmくらいのスチール製の金具で松田聖子(当時21歳)に殴りかかった。「渚のバルコニー」を歌う聖子の右斜め後ろあたりから近づいた男は、彼女の頭部を何度も打ちつけ、その場でスタッフに捕り押さえられた。聖子は失神し、救急車で牧港中央病院へ運ばれ入院した。右の手首と中指、頭に傷を負っており、全治1週間だった。

 この公演はテレビ番組の公開収録だったため、暴行シーンも録画されており、ワイドショーなどで繰り返し放映された。男も公開録画であることを知った上で犯行に及んだらしく、捕まったとき「有名になりたい」「事件を全国に放送してくれ」などと喚いたという。

 男は当時19歳、埼玉県入間市の精神病院に入院中で、聖子の大ファンだった。26日に外出許可を取り、27日に家族と東京へ買い物に出掛けたのだが、そこで行方がわからなくなった。3万5千円ほど小遣いを持たされており、その金で航空券を買い沖縄へ飛んだらしい。警察でも「有名人の松田聖子を殴って自分も有名になろうと思った」と供述したというから、ある程度計画的な犯行だったということになるだろう。

 聖子は1週間後に熊本でステージに立ち復帰した。当時連載していた『週刊明星』のコラムに、聖子は、歌手という仕事がファンに夢として広げる「妄想という世界の中で,私が犠牲になったと思うだけ」だと書いた。犯人も、自分と同じように傷ついているのではないかと慮る内容である。

 明るく振る舞っていた聖子だったが、事件後2007年まで、実に24年もの間、沖縄でのコンサートを開催しなかった。

・倉沢敦美刺傷事件

 これが今回のAKB事件には一番似ている。1984年4月8日、倉沢淳美(当時16歳)は、ソロデビュー曲のキャンペーンのため、北海道札幌市でサイン会を行った。終了後、倉沢は、会場出入り口で、一人ずつ握手をしてファンを送り出した。犯人の男は握手の列に並んでおり、自分の順番が来ると、隠し持っていたナイフでいきなり切りつけた。倉沢は右手首を約6cm切られ全治2週間の怪我を負い、男は警備中の警察官に現行犯逮捕された。

 男は26歳の会社員で、警察の取り調べに対し、最初「わけがわからないうちにやってしまった」などと話していて発作的な犯行と思われたが、次第に、高部知子のファンであることが判明する。

 倉沢と高部、高橋真美の3人は、テレビ朝日系の人気バラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』内で組まれたグループ「わらべ」のメンバーだった。わらべは企画ユニットながら、デビュー曲「めだかの兄弟」が100万枚に迫るヒットになるなどアイドルとして高い人気を獲得したが、その数ヶ月後に、情事の後を思わせる姿でベッドに寝そべりタバコをふかす高部知子の写真が『FOCUS』にすっぱ抜かれた。当時15歳だった高部はこのスクープで芸能人生命をほぼ絶たれた。

 以後わらべは倉沢と高橋の二人組として継続することになり、倉沢はこの事件を受け週刊誌に「高部の分まで頑張る」というコメントを出したのだが、これが犯人の癇に障ったのである。

 この機に乗じて売り込もうしている、そう受け取った犯人は、痛い目に遭わせてやろうとナイフを用意しサイン会に潜入したのだった。

 倉沢はその後3年ほど歌手を続け、10枚のシングルと4枚のアルバムを出したが、わらべ時代のような人気を獲得することはなく、91年頃、芸能界を引退した。

 ……と書くといかにも落ちぶれてしまったようだけれど、倉沢は芸能人時代から付き合っていたオーストラリア人と結婚し、3人の子供にも恵まれた。現在はドバイに住んでおり、セレブな生活とテレビに取り上げられたりしている。

 切りつけた男のその後はわからなかった。

・「AKBなら誰でもよかった」の意味

 その他にも、18歳当時の吉永小百合が、手製のピストルを手に自宅に潜入していた男に襲われた事件(1963年)や、山口智子(当時28歳)の自宅マンションに宅配業者を装った男二人が乱入した事件(1992年。当時秘密裏に付き合っており山口宅にいた唐沢寿明が撃退した)、西村知美(当時18歳)の姉(当時20歳)が、知美のファンの男に自宅から拉致され車で連れ去られた事件(1989年)などなど、小さなものまで数えると、無数とまでは行かないが二桁くらいは拾い上げることができる。ちなみに、山口の事件は犯人が逃げたのでわからないが、吉永、西村の事件は狂信的なファンによる犯行だった。

 取り上げてきた、美空ひばり、こまどり姉妹、岡田奈々、松田聖子、倉沢敦美の事件は、この手の事件のショーケースとして並べられる代表中の代表だが、倉沢の件が捻れているとはいえ、いずれもやはり狂信的ファンが犯人だった。

 今回のAKB襲撃事件は、犯人の「AKBなら誰でもよかった。襲ったメンバーの名前は知らなかった」という供述をひとまず鵜呑みにするなら、狙われたのは、AKBという集団あるいはシステムだったということになるだろう。運営側などから「無差別テロ」という言葉が出ているけれど、AKBという集団・システムが狙われたのだとすれば、無差別という評価はやや外れている。「AKBなら誰でもよかった」と「AKBでなくてもよかった」では意味がまるで違う。

 個人ではなく、特定の集団・システムに狙いを定めていたのだとすれば、芸能人襲撃事件としてはほぼ例がなく、思い入れのない対象を襲ったという点も含めると、かなり特異な部類になってくると思われる。

 もちろん犯人の言葉足らずで、「AKBでなくても誰でもよかった」の可能性もあり、その場合は運営サイドの判断が妥当ということになる。

 要するに、これっぱかしの材料では判断がつかないということであり、今後の追究が待たれる……と、結局、最初に書いたことに戻ってしまうのだが。(栗原裕一郎)

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