「ザ・ブロードウェイ・ストーリー」
VOL.7 ガーシュウィンの時代

ザ・ブロードウェイ・ストーリー The Broadway Story
☆VOL.7 ガーシュウィンの時代 
文=中島薫(音楽評論家)text by Kaoru Nakajima
 2021年1月9日に、東京国際フォーラム ホールCで幕を開けた、宝塚歌劇団・花組公演『NICE WORK IF YOU CAN GET IT』。全編を彩るは、ガーシュウィン兄弟よる名曲陣だ。今回はブロードウェイのみならず、アメリカの音楽史に多大なる貢献を果たした彼らを特集しよう。
ジョージ・ガーシュウィン(左)と兄のアイラ・ガーシュウィン(1928年撮影)  Photo Courtesy of Michael Feinstein
■移民の街NYで育まれたリズム
 『NICE WORK~』の他にも、劇団四季が翻訳上演した『クレイジー・フォー・ユー』(1992年)や『パリのアメリカ人』(2015年)も、同様にガーシュウィン兄弟の既成曲がふんだんに使われていた。これらの作品で大きくフィーチャーされた〈アイ・ガット・リズム〉や〈ス・ワンダフル〉などのスタンダード・ナンバーは、誰もが一度は耳にしているだろう。
ガーシュウィン・ミュージックの楽しさを再認識させた、『クレイジー・フォー・ユー』(1992年)のオリジナル・キャストCD(輸入盤)

 作曲はジョージ・ガーシュウィン(1898~1937年)、そして作詞が兄のアイラ・ガーシュウィン(1896~1983年)。1937年に、38歳の若さで急逝したジョージを兄と勘違いしている人が多いが、アイラが年長だ。ミュージカルに留まらず、クラシックとジャズを融合させた交響楽『ラプソディ・イン・ブルー』(1924年)や、黒人オペラ『ポーギーとベス』(1935年)に挑戦し、作曲家として華やかに活躍したジョージ。一方、シャイで内向的だったのがアイラだ。だがジョージの才能を誰よりも正当に評価し、彼の旋律に詞を託したのが兄だった。
マイケル・ファインスタイン  Photo Courtesy of Michael Feinstein

 晩年のアイラの許で、アシスタントを務めたのが歌手のマイケル・ファインスタイン。ガーシュウィン兄弟研究の第一人者で知られ、彼らの楽曲の素晴らしさを次の世代に伝えるべくレコーディングやコンサートで歌い継いでいる。 
 まずガーシュウィンと言えば、ジョージが生みだした色彩豊かな音色とダイナミックな躍動感だ。VOL.6で紹介したアル・ジョルスンが歌い、ジョージ初のヒット曲となった〈スワニー〉(作詞はアーヴィング・シーザー)や前述の〈アイ・ガット・リズム〉など、聴くたびに心弾むナンバーが多い。ファインスタインは、ジョージによる旋律の特色をこう解説する。
「兄弟の父親は、帝政ロシアからNYへと亡命したユダヤ系移民。2人が少年期を過ごした20世紀初頭のNYは、移民の音楽に溢れていた。物静かだったアイラとは対照的に、ジョージは活発でね。街中を遊び廻っては、ユダヤの民族音楽はもちろん、ハーレムで聴いたジャズや、アコーディオンが奏でるアイルランド民謡など、新天地で働く移民たちのエネルギーに満ちた音楽や文化を吸収し、それを血肉とした。それが彼の音楽的基盤となったんだ」
ファインスタインが、1996年に発表したガーシュウィン歌曲集「ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット」(輸入盤で入手可)

■メロディー先行のコラボレーション
 曲が先か詞が先か。ソングライター・チームなら必ず一度は受ける質問だ。ガーシュウィン兄弟の場合は、どうだったのだろう。ファインスタインは続ける。
「アイラによると、彼らの楽曲の70~80%は曲先行だったそうだ。まずミュージカルの場合は、どのシチュエーションでどんなタイプの歌を入れるかを、2人でアイデアを交わしながら相談する。仕事が早いジョージは、さっそく作業に取り掛かり、たちまちメロディーを仕上げてしまう。アイラは、天才肌だった弟を常に絶賛していたよ。一方、兄は熟考型だった。一曲につき、数週間掛かる事もあったらしい。僕はアイラと出会うまで、作詞家があれほど手間暇を掛けて仕事するとは知らなかった。彼は、友人同士の何気ない会話のように、自然に言葉が観客の耳に届くよう推敲を重ね、何度も書き直しながら歌詞を磨き上げたと言っていたよ」
ピアノを演奏するジョージの手  Photo Courtesy of Michael Feinstein

 ブロードウェイでは、『オー・ケイ!』(1926年)や『ガール・クレイジー』(1930年)など単純明快なミュージカル・コメディーから、『汝がために我歌わん』(1931年)のような政治風刺モノまで立て続けにヒット作を連発。アップテンポの賑やかなナンバーだけでなく、〈サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー〉や〈バット・ノット・フォー・ミー〉など、兄弟の瑞々しい感性が息づく珠玉のバラードも好評を得た。
■ガーシュウィン・イン・ハリウッド
 ハリウッドでも活躍したガーシュウィン兄弟。彼らが書き下ろした楽曲をふんだんに使ったミュージカル映画の白眉が、フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズ主演の「踊らん哉」(1937年)だ。アステアが歌い、スタンダードとなった究極のバラード〈誰にも奪えぬこの想い〉は本作から生まれた。他にも彼が、噴射するスチームの音に合わせ神業的タップを披露する〈スラップ・ザット・ベース〉や、ラストを賑やかに飾る〈シャル・ウィ・ダンス〉など、とにかく好ナンバー揃いで堪能出来る。歌詞を明瞭に発音し、多くのソングライターから愛されたアステア。ガーシュウィン兄弟も、彼のヴォーカルを高く評価していた。
「踊らん哉」(1937年)のブルーレイは、アイ・ヴィー・シーよりリリース。

 ジョージの死後に製作された伝記映画が「アメリカ交響楽」(1947年)で、その短い生涯を比較的忠実に描いている。特筆すべきは、アル・ジョルスンやピアニストのオスカー・レヴァントら、彼の人生に大きく関わった、当時御存命の関係者が出演している事。彼らの歌や演奏が、作品に厚みを加えている。映画中盤とラストで演奏される、壮大な「ラプソディ・イン・ブルー」は美しい事この上なし。DVDはワンコインの廉価版で入手可能だ。
「アメリカ交響楽」(1947年)の予告編より、ピアニストのオスカー・レヴァント。彼は、続いて紹介する「巴里のアメリカ人」(1951年)にも出演している。

 都会の喧騒と孤独を活写した、この傑作シンフォニーを効果的に使った映画が、ジャズ通で知られるウディ・アレン監督&主演の「マンハッタン」(1979年)だ。この曲のみならず、全編に流れるのがガーシュウィン・ナンバー。ズービン・メータ指揮による、ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏が抜群だ(サントラ盤は、ソニーミュージックよりリリース)。
特典満載のブルーレイ版「巴里のアメリカ人」。ワーナー・ホーム・ビデオよりリリース。
■ラヴ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ
 ガーシュウィン兄弟の既成曲で構成されたミュージカル映画では、「巴里のアメリカ人」(1951年)が必見。映画ラストで、ジョージが1928年に発表した交響曲〈パリのアメリカ人〉に乗せて、主演のジーン・ケリーとレスリー・キャロンが展開するモダン・バレエが圧巻だ。ルノワールやロートレックの絵画をモチーフにした、極彩色のセットと衣装に目を奪われる。そして、セーヌ河畔でケリーが歌い、キャロンとロマンチックに踊るナンバーが〈わが恋はここに〉。実はこれが、兄弟が共作した最後の楽曲となった。再びファインスタインの証言。
「元々あの曲は、『ゴールドウィン・フォリーズ』(1938年)という映画のために書かれたんだ。ところがジョージは、譜面を仕上げる前に、脳腫瘍で突然亡くなってしまった。ただジョージがそのメロディーを弾くのを、友人のオスカー・レヴァントが憶えていてね。彼の記憶を頼りに完成させ、その後アイラが詞を付けた。彼は、私的な感情を歌詞で表す事はなかったけれど、あの歌だけは例外だよ。『たとえ山脈や海峡が崩れ落ちようとも、僕たちの愛はこのまま。永遠に変わりはしない』というフレーズには、ジョージへの敬愛の情が溢れているんだ」
 次回VOL.8も、引き続きガーシュウィンだ。文中でも触れた、黒人キャストのフォーク・オペラ『ポーギーとベス』を取り上げよう。
「巴里のアメリカ人」の一場面。ジーン・ケリー(右)とレスリー・キャロン
文=中島薫

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