SPEEDが想像の遥か上を行く
グループであったことをデビュー作
『Starting Over』から思い出す
同世代からの圧倒的な支持
話をアルバム『Starting Over』に戻す。ここまで述べてきた初期SPEEDの歌詞の件──筆者はそれを図々しくも“イロモノ”に近いだとか何だとか指摘したわけだが、彼女たちを支持した同世代のファンたちは、そんなことは些末なことだと言わんばかりに、SPEEDに飛びついた。歌詞の深いところまでは分からないし、その内容が相応しいものかどうかなんて関係ない。ダンスと歌がカッコ良い。自分と同じくらいの齢の女の子たちがそれをやっていることにとにかくしびれる──。当時、小学生だったSPEEDファンに訊いてみたら、そのようなことを言っていたのでおそらくこんな感じで間違いはなかろう。言葉うんぬんではなく、ダンスと歌というフィジカルな特徴に直感的にビビッと来たのもローティーンならではだろうし、多感な時期の子供たちがSPEEDの活躍を自己肯定と結び付けたのかもしれない。
確かな歌唱力をしっかり露出
アルバムの後半になると、M7「Go! Go! Heaven」のアウトロ近くで聴こえてくるSPEEDのメンバーとの絡みはまだ控えめな感じではあるものの、M9「Kiwi Love」では(おそらく)外国人男性のラップがしっかり入ってきたり、M10「HAPPY TOGETHER」の間奏では(これもおそらく)外国人男性のコーラスが入っている上に、アウトロではその男性コーラスと迫力ある女性シンガーのソウルフルな歌声との絡みも聴けたりする。極めつけはM11「Starting Over」だろう。ゴスペル風のコーラスがほぼ全編にあしらわれており、《We're Starting Over》の箇所ではSPEEDメンバーの歌声が外部のコーラスと同等となっている。ほとんど溶け込んでいるようなかたちであって、ルックスがいいだけのグループではないことがダメ押しされているかのようでもある。
こうした外部のコーラスの多用は、メインヴォーカルのメロディーを引き立てることだけに留まらず、本格的なソウル、R&B──とは言わないまでも、その匂いを確実に楽曲に落とし込もうとした結果であったことが分かる。無論、当時の彼女たちの歌声がプロのミュージシャンに勝っているとは言わないけれども、決して見劣り(聴き劣り?)していないことは確か。そうでなかったなら、これほどまでに外部からの歌声を入れないであろう。つまり、本格派コーラスの多用はSPEEDが歌唱力で勝負するという決意の表れでもあったのだろう。特にアルバムの実質上のフィナーレであるM11「Starting Over」で前述したようなハーモニーを強調したということは、SPEEDは“イロモノ”なんかじゃなく、文字通り、“Starting Over=最初からやり直す”という決意表明だったのかもしれないと思ったりもした。そのM11「Starting Over」にはこんなフレーズがある。
《ひとりには慣れていたはずなのに/誰かそばに今日はいてほしくて/けどムナしさしか残らなくて/大切な人に気づいたよ》(M11「Starting Over」)。
スマッシュヒットに留まらず、ミリオンやチャート1位となると、《痛い事とか恐がらないで/もっと奥まで行こうよ いっしょに…》や、《成熟した果実のように/あふれ出してく 欲望に正直なだけ/満たされてたい!》の路線を続けることはもはやできなかった。今となってみれば急ブレーキというか180度の方向転換と思えるが、それだけ早い速度でSPEEDの社会現象化が進むという想像もしなかったことが起こったのだから仕方がない。スタッフ、関係者はそうするしかなかっただろうし、それが正解だった。
TEXT:帆苅智之