首振りDolls ナオ、横浜銀蝿 翔

首振りDolls ナオ、横浜銀蝿 翔

首振りDolls、
マンスリーインタビュー第22弾は
ナオ vs 横浜銀蝿 翔!

“自分たちにしか出来ない音楽は
無いのか?”って言われたときに、
一番痛いところを突かれた

横浜銀蝿 翔

横浜銀蝿 翔

――その風潮をあおってしまうというイメージだったということだったんですかね?

翔:まぁそういうのもあったんだろうね。俺たちは俺たちの普段のまま、そのまま、ありのままのスタイルで音楽やってたから。その風潮を煽ってた訳でもないから。

――誤解もあったんですね。

翔:そうだね。でも、それをちゃんと認めてくれていたのが、一緒にやろうって言ってくれたキングレコードのディレクターだったんだよ。いろんなレコード会社が声をかけてくれた中でキングレコードという会社を選んだのは、一番厳しいことを言ってくれた人が居たからだった。当時の音楽シーンは、恋の歌が多かった。愛してるとか、そういうことを歌っている曲が多くて。ビートルズやキャロルもクールスもそういう歌歌ってた。俺、チャック・ベリーとか大好きだったんだけど、みんなそういうこと歌ってたりするんだよ。俺たちもそういう音楽を聴いて育って来てるから、自然とそういう曲作っちゃうよね(笑)。俺たちはもちろんそこに憧れてもいたし。そんな中で、横浜銀蝿が別格である為に作っていかなくちゃいけない曲って、そういうところじゃないんじゃないの? ツッパって、大人の言うことなんか聞かねぇっていう生き方して来てて、自分たちにしか歌えない歌はないの? ってそのディレクターに言われて。たしかに、革ジャンにドカンにサングラスっていう自分たちが貫いてきたスタイルを崩さなくちゃいけないなら、メジャーなんかいかねぇ、デビューなんてしねぇって言ってたんだから、俺たちにしか歌えない歌を歌わないと意味ないよな、って思ったんだよ。だから、そのディレクターに、“自分たちにしか出来ない音楽は無いのか?”って言われたときに、一番痛いところを突かれたというか。

ナオ:そう言われる前は、やっぱり恋愛の曲とかが多かったんですか?

翔:そう。だいたいそうだったね。世間が悪いとか、大人が悪いとか、パンク系の奴らはそういう主張をした歌を歌っていたけど、俺たちはロックンロールは楽しいものじゃなくちゃいけないって思っていたから、男子だったら女子にモテたいし、っていうんで、恋愛の歌とか失恋の歌に片寄ってたんだよ。

――じゃあ、そのキングレコードのディレクターさんとの話し合いで、改めて自分たちを見つめ直せた感じだったんですか?

翔:そう。勝負かけなくちゃいけないなって。なんかやんなきゃいけないときに、そこに答えを出さなくちゃいけないって思う不良の精神っていうのかな。そのときのディレクターの言葉がすごく胸に響いて。その言葉に対して、答えを出したいって思ったというか。それで頭切り替えて自分たちらしさを追求する曲を作った。土曜の夜に集団暴走行為をしていた頃のことを思い出して曲作ったんだよ。

ナオ:それが「ぶっちぎりRock'n Roll」だったんですね!

翔:そう。“走り出したら止まらないぜ、俺たちは土曜の夜の天使なんだ!”ってね。“ルームミラーにうかぶ赤いシグナル背中に受けて”ってのは、お巡りさんに追いかけられてる感じね(笑)。

ナオ:パトカーの赤色灯ですね!

翔:そう(笑)。直接的に書かずともだったけど、リアルな情景をそのまま書いた歌詞を乗せたロックンロールを提出したんだよ。そしたら、事務所の社長もレコード会社もひっくり返ってさ。“これだよ! こういうことだよ!”って。俺たちも、あ、こんなんでいいの!? って思っちゃって(笑)。今まで、どうやって女口説いたら良いかってことを一生懸命に考えて歌詞書いてたから。数あるラブソングの中で、より輝きを増す極上のラブソングを作らなくちゃと思って必死に頭悩ませて来たのに、あぁ、そういうことじゃないのね! って気付いたというか。

ナオ:それがキッカケだったんですね。

翔:俺とリードギターのJohnnyは高校の頃からの同級生で、一緒にバンドを始めたんだけど、奴と2人で曲を作っていく中で、デビューするならこの曲がいいねって決めてたのが「横須賀Baby」だったんだよ。その意見をレコード会社に押し通して、シングル曲はそれでデビューさせてもらったんだけど。そのとき、今話した、リアルな情景をそのまま書いた歌詞を乗せた「ぶっちぎりRock'n Roll」が出来たから、それをB面にしたのと、それを1曲目にした『ぶっちぎり』ってアルバムを一緒にリリースすることになったんだよ。

――同時でしたもんね。

翔:そう。さっきもちょろっと話したけど、キングレコードを選んだのは、当時俺たちをディレクションしてくれた水橋さんって人が居てくれたからってのもすごく大きかったんだよね。俺たち1979年に結成してるんだけど、デビューするまでに1年かかってんの。なんで1年かかったかって言ったら、“お前たちじゃなくちゃ歌えない歌をつくれ”って事と、音楽の基礎知識がなかったって事(笑)。

ナオ:そうなんですか!?

翔:そうなんだよ(笑)。当初は譜面も書けなかったからね。マスターリズムくらい作れないの? って言われても、“なんだよ、そのマスターリズムって!?”って感じだった(※マスターリズム=コード・リズムだけの譜面)。水橋さんはすごく信頼もしてたし信用もしてた。普段は本当に仲良い感じで接してたんだけど、仕事のことになると本当に厳しい人で、音楽で飯食ってくってことがどれほど大変なことで、考えている以上に甘いもんじゃないってことをすごく教えられたんだよ。何も分かってなかった俺たちにいろいろと教えるのは、本当に大変だったと思うよ。普段は女の話とか車の話とかして一緒に馬鹿言って笑えるのに、仕事の向き合い方の話になると本当に厳しかったからね。ずーっとオリジナル曲で勝負していくっていうことの厳しさとかもすごく言われた。甘いもんじゃないだよ。覚悟決めてやんなくちゃやれるもんじゃないんだよって。だからJohnnyと話してちゃんと自分たちの音楽やっていこう、腹括ろうって決めたんだよ。他に声をかけてくれたレコード会社の人たちは、みんないい事しか言わなかったんだよ。“いいねいいね! すごいね!”って。でも、水橋さんだけは厳しかった。“そんな甘いもんじゃない”って、ずっと言ってくれた。人間、自分を褒めてくれたり甘やかしてくれる人に逃げがちだし、絶対にそっちの方が楽だけど、なんか、不良の嗅覚っていうのかな、厳しい事を言ってくれる水橋さんについて行こうって思ったんだよ。リーダーの嵐さんも含め、レコード会社を決めるときに、全員が“水橋さんの居るキングにしよう”ってなったからね。水橋さんはもう今亡くなってしまったんだけど、本当に失ってからも特にその存在の大きさと有難さに感謝してる。一緒に出来たからこそ、今もこうして横浜銀蝿はあると思っている。 「ぶっちぎりRock'n Roll」の次は学校編でも作るか! っていうので出来たのが「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」。

ナオ:なるほど! そういう流れなんですね!

翔:そう(笑)。作戦。

――しかし、「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」がデビュー前に出来てたとは! 当時あの曲を聴いたときの衝撃は、今も変わってませんからね。あれほど完璧なメロと歌詞の曲は他に無いと言っても過言では無いくらい、最強作だと思ってます。

翔:あははは。ありがとう! 嬉しいよ。でも、レコード会社の人たちも水橋さんも同じことを言って褒めてくれた。そんな武器が同時に出来ちゃったから、もう黙ってどんどんレコーディングしてくれちゃってさ(笑)。デビュー作のレコーディングしてんのに、もう2枚目確約! みたいなラッキーな状況になったんだよ(笑)。

ナオ:素晴らしいですね!

翔:そう。デビューシングルもアルバムもそこそこいったんだよね。でも、本当の意味で横浜銀蝿を押し上げてくれたのはアルバムだったんだよ。

OKMusic編集部

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