待望のベートーヴェン・プログラムで
有終の美を飾る! 辻井伸行のオンラ
イン・サロンコンサート第4夜レポー

6月の週末夜にイープラス・Streaming+で配信される辻井伸行 オンライン・サロンコンサート。4回目となる6月28日(日)は、今年2020年に生誕250年を迎えるベートーヴェンの3大ソナタ​​《悲愴》《月光》《熱情》の連続演奏という待望のプログラムでの配信だ。
今年は世界中でベートーヴェンに捧げる演奏会が開催されるはずであったが、コロナ禍でその多くがキャンセルされた。1991年のモーツァルト没後200年や2006年の生誕250年に匹敵する一大アニバーサリーイヤーの盛り上がりを期待していたクラシックファンにとっては残念な限りだ。
しかし、今まだ6月。これからの半年、世界中で繰り広げられるであろうベートーヴェンイヤーの再キックオフを予感させるにふさわしい辻井伸行のベートーヴェン3大ソナタのコンサートに、「やっと、ベートーヴェンに出合えた!それも辻井さんの演奏で!!」とモニターの前で興奮した視聴者も多いことだろう。
辻井伸行 オンライン・サロンコンサート
まずは第一曲目、ベートーヴェン初期の傑作、ピアノ・ソナタ第8番 《悲愴》。あの絶望感に満ちた冒頭の重苦しいテーマの後に相対して現れる、喜びあふれる軽やかな音のパッセージ。苦悶の中にある“希望の明るい光”が、辻井の持ち味でもある精緻で繊細なタッチで描き出され、音の粒が輝きだす。
この作品はベートーヴェン30歳前後に書かれたとされており、聴覚を完全に失った失意の時期に重なる。青春の喜びを謳歌しながらも、先々の人生への苦悩を感じる若き作曲家の内面の葛藤と外の世界への憧れ、光と闇が混在し、揺れ動く情動が、美しく繊細な辻井の指先からあふれ出ていた。
かの有名な第二楽章(アダージョ)の冒頭の旋律でも、辻井らしい素直で真摯な想いがストレートに伝わってきた。メロドラマ的な誇張のない、抑制された感情によって紡ぎ出される歌に、あらゆる傷みと葛藤を超え、安らぎとともにある青年の心の有り様がつぶさに描きだされる。
全編にわたり、ペダルを多用しないクリアで、あたたかみのある音と旋律の応酬。ここまでで、辻井のベートーヴェン作品に対する真の理解と一途さ、そして人間性までもが、一挙に感じられた。
辻井伸行 オンライン・サロンコンサート
続いて演奏されたピアノ・ソナタ第14番 《月光》。第一楽章の刻々と変わりゆく和声が描きだす多彩で細やかな三連符の表情、上昇下降を続ける右手の旋律など、辻井は一つひとつを愛おしむかのように奏でてゆく。ゆったりとしたたたずまいの中にも、孤高の作曲家ベートーヴェンの音楽だけが持つ内面の深奥さが精緻にえぐり出され、聴き手の心にストレートに響く。
堰を切るような激しさが求められる最終楽章でも、決して荒ぶることなく、作曲家の心の機微をあたかも傍観者のように冷静に客観的に紡いでゆく。感情の起伏を押さえた控え目で粛々とした表現が、むしろ作曲家の心情に痛いほどピタッと寄り添っているように感じられた。
最後に演奏されたのは中期の大傑作、ピアノ・ソナタ第23番 《熱情》。この作品はベートーヴェン唯一のオペラ 『フィデリオ』 と並行して作曲されただけに、副題の《熱情(アッパショナータ)》からも想像できるが、楽曲全体がオペラティックでドラマティックだ。
第一楽章は息を呑むような長大なフレーズが各所に散りばめられており、かの交響曲5番 《運命》 のあの主題を彷彿とさせる二つの動機とともに、音の波が縦横無尽に力強く錯綜する。感情の起伏(テンペラメント)も前の二曲に比べてさらに大きい。辻井は、この激情ほとばしる作品を一気に弾き上げた。前の二曲とはまた一味違う力強い雄弁さに圧倒される。
辻井伸行 オンライン・サロンコンサート
これはあくまでも筆者の主観だが、辻井は、この曲をフィナーレと位置付けるべく、前の二曲ではあまり雄弁になりすぎぬようコントロールしていたのではないかとも思わせる。三つの大曲の連続演奏ならではの緻密な計算があったのでは…、と感心させられる演奏だった。ベートーヴェンの弟子ツェルニーが、「強大で巨大な計画をこの上なく完璧に遂行した作品」と表現したこの最高傑作。その醍醐味を辻井は文字通り巧みに構築し、描きだしていた。
哲学的な深淵に満ちた二楽章では、第一楽章の雄弁さとは打って変わり、特に瞑想的な部分では、心洗われる天上の響きを存分に聴かせてくれた。これぞ、まさに辻井独自の世界。この類まれなピアニストにしか実現することのできない境地――作曲家との心の対話の瞬間(とき)に他ならない。
二楽章から休みなく続けて突入する三楽章。この意欲的なコンサートの締めくくりにふさわしい、集中力みなぎる密度の高いフィナーレに、思わずモニターの前でブラボーと叫んでしまった。
終始、一線を超えることなく、品格ある古典的な様式を貫く快さ。普段ラフマニノフやリスト、ショパンなど華やかなヴィルトゥオーゾの曲を得意とする辻井のもう一つの本領、いや、ピアニストとしての真の底力を感じさせてくれる盛りだくさんの内容だった。
ソロ演奏会としてはシリーズ最終となる今宵のオンライン・コンサート。演奏後の辻井の言葉によると、意外にも三大ソナタを続けて弾いたのは今回が初めてだという。
辻井伸行 オンライン・サロンコンサート
「重いプログラムで、きっと皆さんお腹一杯だと思うので、アンコールはいらないかもしれませんが、せっかくなので 『笑顔で会える日のために』 を弾きます」との嬉しいメッセージ。第一夜でも演奏された辻井オリジナルの曲だ。ベートーヴェンの心の叫びの余韻が冷めやらぬ空間に、今度は辻井自身の心のメッセージが美しく響きわたった。
すべてのダイナミックレンジを見事にカバーしうる高精細な音質と自由自在なカメラワークで演奏者の本質に迫るオンライン・コンサート。辻井伸行という演奏家をこんなに身近に感じられるのはストリーミングならではの醍醐味だろう。
次回、7月4日(土)の辻井伸行 オンライン・サロンコンサートは、ヴァイオリン・三浦文彰を迎えてデュオが繰り広げられる。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ 第1番 《雨の歌》、フランクのヴァイオリン・ソナタという内容も大いに期待したい。
最高のパートナーを得て、ピアニスト辻井伸行の新たな魅力を発見する絶好の機会。最高の音と映像とともに、あなたのお気に入りの居場所でゆったりと味わってみてはいかがだろうか。
文:朝岡久美子

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