ジム・モリソンの遺作となった
ドアーズの『L.A. ウーマン』は、
自らのルーツを見直した秀作
ドアーズのデビュー
そして、67年初めにデビューアルバム『ザ・ドアーズ』がリリースされる。幸運にもプロデュースにはポール・ロスチャイルド、エンジニアにはブルース・ボトニックというロック界の職人ふたりが携わる。「ブレイク・オン・スルー」「ライト・マイ・ファイア」「ジ・エンド」といった彼らの代表曲が収められ、「ライト・マイ・ファイア」はデビューシングルにして全米1位を獲得、アルバムも2位になり大ヒットを記録する(この時の1位はビートルズの『サージェント・ペパーズ~』なので仕方ない)。
ベーシストがメンバーにいないグループ
デビューに際して彼らは結局ベーシストを入れず、アルバム録音時にセッションマンを呼ぶというスタイルとした。ただ、彼らがベースを軽んじていたわけではない。それが証拠にレコーディング時はアルバムに複数のベーシストを使い、曲によって向いているプレーヤーを選んでいる。初期のドアーズに愛されていたのはラリー・ネクテル(本業はピアノ。のちブレッドに加入)やダグ・ルバーンで、ルバーンはのちにジャズロックグループの『ザ・ドリームス』やウエストコーストロックグループの『ピアース・アロウ』で活躍するが、残念なことに今年11月(先月)に亡くなっている。
モリソンの奇行
モリソンは普段はおとなしいのだが、コンサートや人の多い場所では凶暴な性格が出ることがあり、学生時代すでに逮捕歴がある。デビュー後、コンサートでは自分のロックスターとしての役割を果たすべく、ジム・モリソンという人格を演じることに尽力する。それは彼の心労を増やすものであったし、3rdアルバム『太陽を待ちながら』が全米1位になると、重責によるストレスからか、アルコールや薬物依存が進んでいく。
その後もイギリスのキンクスから盗作で訴えられそうになったり、ツアー疲れからあらゆる薬物に手を出したりと、警察などから目を付けられていた。そして、69年のマイアミのコンサートでは性器を露出したとして逮捕され、有罪判決を受ける。この事件の詳細はよく分からないものの、モリソンはその破天荒な行動や言動で、世間の“良識”と言われるものからその存在を疎ましく思われていたことは間違いない。
ただ、裁判中も彼らはツアーをこなし、ストリングスやホーンを加えた4thアルバム『ソフト・パレード』(‘69)、原点に立ち返ったシンプルな5thアルバム『モリソン・ホテル』(傑作!)(’70)、初の2枚組ライヴ盤『アブソルートリー・ライヴ』(‘70)を次々にリリースしていく。70年8月にはワイト島ロックフェスティバルにも参加するが、モリソンの健康状態や精神状態は悪くなり、麻薬の過剰摂取もあって精悍な体つきは失われていく。その姿は次作『L.A. ウーマン』のジャケットを見ればよく分かる。