劇場版「Gレコ l」富野由悠季が語る
“アニメの力”と新たな“革命論”

 11月29日から2週間限定上映される「劇場版 Gのレコンギスタ l 行け!コア・ファイター」。「機動戦士ガンダム」の原作者である富野由悠季が満を持して送る最新作は、2014年に放送されたテレビシリーズ「Gのレコンギスタ」に新規映像を追加した再構築版で、全5部作の口火を切る第1部となる。約5年の歳月を経て、富野総監督は「G-レコ」を再びどこへ導こうとしているのだろうか。その真意をたずねた。(取材・文/黒峰澄一)
――富野監督は「G-レコ」が、テレビシリーズの放送当時から、子どもたちに向けた作品だと言っていました。劇場版「G-レコ」は、より子どもたちにわかりやすくという意図で作られたのでしょうか。
富野:もちろんそうです。ですが、それはちょっと違いまして、映画というものは、もともとそのように作られていなければいけないのだけれども、テレビ版はそうではなかったという反省がありました。「映画としてお話をまとめられるように作った」という、それだけのことです。そのためには、テレビ版のきちんと流れていないところを、正してあげる必要がありました。部分的にカットの積み重ねがよくない、と思えるところの改善をしていったので、大々的に変わった気持ちがあるわけではないのですが、「行け!コア・ファイター」については見やすくなって“映画になった”と言えると思います。
――それは作品の血流をほぐす、というようなことなのでしょうか。
富野:まったくそういうことです。“マッサージをしてあげた”という気分です。「行け!コア・ファイター」はご覧になりましたか?
――拝見しました。
富野:(メディア関係者に事前に配布したDVDや試写会での映像は)ラストのエンディングロールには映像が入っていなかったと思うのですが、それは完成品ではありません。機械的にクレジットが流れているだけなのは「G-レコ」らしくないと感じたので、絵を入れています。新規カットではなく、テレビ版の流用ですが、そのようには見えないはずです。「『G-レコ』ってこういう気分の映画だったよね」と思っていただけると思います。それをもって完パケとしたので、ご覧になった映像は、ゼロ号試写とは言わないまでも、初号の手前ですね。
――エンディングはテレビシリーズと同じく、富野監督が“井荻麟”として作詞された「Gの閃光」が飾っていましたね。“元気”をテーマにした、「G-レコ」を象徴する楽曲だと思います。
富野:まさしく「Gの閃光」は黒ベタが似合わない楽曲です。パリで開催された「Japan Expo」でお披露目するためのタイムリミットがあったので、仕方がなかったという事情があります。ある意味では手抜きで、パリでの上映時に本当に腹が立ったので、手直ししました。明らかに印象が変わって、“楽しいアニメ”になったという自信があります。
(c) 創通・サンライズ――「G-レコ」でいう“元気”とは“楽しい”とイコールなのでしょうか。
富野:それだけのことで、それ以上のものは一切ありません。とりあえず見ていただいて、楽しんでいただければいいな、と作ったつもりです。
――以前、富野監督は「G-レコ」で“脱ガンダム”ができたと発言されています。「∀ガンダム」を経ての「OVERMANキングゲイナー」ではガンダムを脱せていなかったという考えだったのでしょうか。
富野:他の作家であれば事情は違うのでしょうが、僕の場合はずっとガンダム漬けでした。それは、そうならなければおかしいというくらいの状況で、「∀ガンダム」には“ガンダムを総括する”という意気込みで取り組みましたが、ガンダム20周年という気分のなかで、そこまで全体を俯瞰できるものではなかったという反省があります。そこから抜け出すために「キングゲイナー」をやったのですが、それでもダメだったという後悔もあります。
 それから約10年間、アニメの仕事をやらなかったんです。そうすると、「少しは垢抜けたかな」という気分も出てきて、今なら“脱ガンダム”ができるのではないかと仕掛けていきました。しかし、それも(雑誌)「ガンダムエース」でさまざまな作品が連載されていたり、「機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)」のような新作アニメーションが連綿と作られ続けているという土壌があったからこそ、できたことです。それがなければ“脱”もないですからね。そんななかで、僕は年長者であるからこそ“脱”を見せておきたかった。そうでなければ「ガンダムエース」の路線のままで、アニメが作られ続けていくのではないかと思えたのです。
――“脱ガンダム”とおっしゃられていますが、それは“抜け出す”のではなく“突き抜ける”というような意味合いなのでしょうか。
富野:そうです。「G-レコ」はガンダムシリーズの歴史観を前提にしている作品ですから、“全否定”ではなく、すべてにおいて“脱”をしているわけではありません。新しい時代に向き合っていくことを考えたときに、天井にドリルで穴を開けるようにしていく必要があった。それが過酷な作業だったのは事実です。
――エネルギーが必要だったのですね。
富野:もちろんですが、それだけで済む問題ではなかった。宇宙世紀の25世紀ほどの歴史があり、そこから人類が1~2億人くらいしか生き残っていない状況を経て、何百年か、ひょっとしたら1000年以上の時間を経てこれから再生していくぞ、というのが「G-レコ」です。途方もない年月を内包しているので、気力だけで突破できるものではありませんでした。もし年表を作っていたら、きっとそれだけで3年くらいはかかってしまっていたでしょうね(笑)。
 そこで、どうしたかというと、アニメの長所を利用しました。アニメは絵空事であって、魔法使いが出てきてもいい、ファンタジーが許される安手な媒体です。ローカルチャーであるがゆえに、雑に未来志向ができる。20メートル近くある二足歩行のロボットなんて、とうてい現実的とは言えません。しかし、実写でやれば嘘くさくても、それを絵で動かしてしまえば説得力が生まれる、というのがアニメなんです。“人類が一度死に絶えたかも知れない、その次の時代”を描くのにも、絵空事であることが好都合でした。現在いわれている温暖化問題、環境汚染問題への対応がすべて失敗してしまって、人類が滅亡の危機にひんしてしまったかもしれない、そこから再生を果たした世界というのは、実写でやれば、どうしても陰鬱なものになってしまうでしょう。「ウォーターワールド」(1995)がいい例で、スケールが小さくまとまってしまう。「G-レコ」のように、滅亡を経ても子どもが元気に飛び回るような世界は、ローカルチャーであるアニメだからこそ描けたのです。
――過酷な背景を考えると、伸び伸びした絵にならないということですね?
富野:そう。改めて自由度がとても高い、アニメの力を確認できました。媒体が同じだったとしても、新海誠の作品になりようがない、という作り方ができます。似たような作品を作って客を動員するというやり方は、商売としてはわかるけれど、新海アニメを追いかけていたら、新海誠には勝てません。興行収入100億円にはかないませんよ。でも、こっちはずっと生き延びていって毎年1億稼げる、というのならどうですか? 100年続けば勝てる、という捨てゼリフが言えます(笑)。
水の玉に軌道エレベータ……「G-レコ」が描き出すリアリティ
――絵空事というキーワードが出てきましたが、僕は個人的に「∀ガンダム」のラストがすごく好きなんです。ロランが「ディアナ様、また明日」と言って、おとぎ話として終わる。これが「ガンダム」シリーズの結末なら、それがとても幸せではないかと。ところが「G-レコ」ではベルリが富士山に登るラストで、現実に引き戻されたような感じがしました。
富野:「G-レコ」は安手のSFではありますが、徹頭徹尾リアルの延長で設定を考えています。巨大な2本脚のロボットなんてありえないことですが、それが存在できるように、キッチリと設定を固めていきました。そんな途方もない存在を動かすだけのエネルギー、それを制御できるアイデアがあれば、ロボットが存在してもおかしくないだろうと。絵空事を成立させるための設定は、現実に即したものにしています。
 21世紀現在の最先端科学技術では、1000年、1万年と人類を生き延びさせていくことは不可能だろうと見通せます。アメリカ政府は、人類を火星に到達させると言ってしまいました。中国も月を目指し、領有権を主張しようとしています。それを言い出した政治家、支援する経済人、技術者、そろって本当におめでたい。月の資源を持ってくることで、人類すべてが1000年幸せに暮らせるのならそれでいいけれど、到底まじめに考えているとは思えません。ですから「G-レコ」では、「宇宙開発に取り組むには、ここまでの技術が必要だ」ということを盛り込んでいます。「行け!コア・ファイター」にも出てくる“水の玉”は、その最たるものです。小さなカプセルに膨大な量の水が圧縮されて詰まっているのですが、そういったものが製造できなければ、宇宙に行くことなんかできません。もしもスペースコロニーが存在するのであれば、そこには必ず水や空気が必要になります。最初の「機動戦士ガンダム」の頃には、そこまで考えていませんでした。スペースコロニーやスペースノイドありきで、まさにローカルチャーの夢物語です。だけど、40年間ガンダムをやってきましたから、そろそろそれがバカなんだということをわかれよと。そのバカらしさを否定しつつも、現実のものとして成立させるためにはどうするべきかを考えたときに、水や空気がハイレベルで圧縮されたカプセルが必要になったのです。
(c) 創通・サンライズ この考えは、モビルスーツにも応用できました。モビルスーツのランドセル(バックパック)は小さすぎ、ロケットエンジンすらついていないように見えます。これは40年前から我慢ならないことでしたが、当時はそれを説明する方法論が見つからなかった。ですから“核融合エンジン”だと言っていましたが、それをあんなにコンパクトにすることは、1000年経ってもできません。だから「G-レコ」では、核融合エンジンを排し、光子そのものを燃料にして熱を発生させることにしました。そして、ロケット噴射させるための推進剤は、水と空気の玉のようなもので収納されています。……そんな技術がはたして作れるのか。作れるわけがないのですが、「ここまでしなければ」ということなのです。アニメだからこそ、説得力をもたせられたと思っています。
 「G-レコ」には、そうしたリアリティを随所に盛り込んでいます。宇宙エレベーターにしてもそう。僕は「G-レコ」の企画を立てている5年ほどの間、宇宙エレベーター志望者の集まりにも顔を出してみて、彼らがガンダムファン以上にファンタジー志向の人たちだとわかりました。本気で宇宙エレベーターを作りたいと思っているのだから……。この人たちに現実を理解させるためにどうしたらいいかを考えて、「G-レコ」で“キャピタル・タワー”を登場させたのです。交通機関、つまりインフラがなければ、3~7万キロのテザー(ケーブル)なんて引けません。しかし、交通機関にするには、意味がなければならない。行った先に何かがあって、それを運んでくることでお金儲けができる、という保証がなければケーブル1本引けないのが現実です。ここに思いいたらないのが、いま宇宙エレベーターを作ろうとしている人たちなんです。
――その無計画さは、空恐ろしいものがありますね。
富野:なのに、もっともらしい顔で「いつかこれを建設する」と言っている企業もあります。やれるものならやってもらおうじゃないか、と思っています。でも「G-レコ」は宇宙世紀以後の話で、ガンダムの世界にはミノフスキー・フライトがありますから、その技術の応用で軌道エレベータが建設できます。途中には144個の人工衛星の駅“ナット”があり、駅があるのだからその周囲には街が形成されている。そうして、各ナット間には物流、ひいては経済が発生する。また、地球が一度汚染されて滅亡にひんした世界ですから、産業廃棄物が出るような生産は宇宙で行われていて、その産物を地球に降ろす。このように、経済によって成立しているため「軌道エレベータ」と呼ばず、“キャピタル(資本)”の名を冠しました。資本を循環させる芯になっているのが、“キャピタル・タワー”なのです。この名前を発明したときに、わかるやつはこれで説得できるという手応えがありました。わからない限りは、宇宙エレベーター建設なんて税金の無駄使いです。ところが、ここ数年で宇宙エレベーターが文科省の教科書に掲載されてしまいました。これはボヤボヤしていられないぞ、と思います。宇宙に行くということは、普通の人にも夢として理解されるものだと思いますが、その幻想は今のうちに打ち砕いておかないといけません。文科省の人たちは東大や京大を出たようなインテリでしょうが、そんな人たちがやることじゃない。ガンダムファンが巨大ロボットをカッコいいともてはやすよりも、ずっと危ういことですよ。

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