【連載】中島卓偉の勝手に城マニア
第86回「名胡桃城(群馬県)卓偉が行
ったことある回数 2回」

まず城の名前が格好良い。これで「なぐるみ」と読む。卓偉と書いて「たくい」と読むのと同じく読んで格好良い、見て格好良い。たまんねえな、おい!名胡桃城は典型的な連格式の城である。連格式とはいくつかの曲輪が連なって出来た城の事を言う。ある程度同じ高さの曲輪が連なって出来た城のことも言うのかな。典型的な連格式の山城、名胡桃城である。まずこの城の魅力は見学のしやすさにある。全部廻っても30分もかからない。ほぼアップダウンがない。よって疲れない。駐車場に金がかからない。群馬県の人達がみんな良い人、BOØWYとBUCK-TICKが格好良い、上毛かるたが地味に面白い、完璧である。城内にある発掘調査後の説明書きも素晴らしいし、復元想像図もやり過ぎていない。復元想像図の絵がマニアからすると、そんなわけないだろというケースが結構あるのだが、おそらくこれくらいだったのでは?的な感じがとても良い。発掘調査後に土塁や空堀の整備と復元工事が行われ非常に見学しやすくなった。交通の便も良く、関越道月夜野インターから車で6〜7分。上毛高原駅、後閑駅からタクシーで7〜8分というアクセス。浅倉大介さんもびっくりだ。今まで、というかここ最近体力が無いと無理な過酷な城ばかりを紹介していた。たまには楽に見学出来る城をご紹介だ。
築城は沼田氏の支城として1400年代に築かれたとされるが城主もコロコロ代わり、一番有名な武将では真田昌幸が沼田城を攻略するにあたりこの城を整備、増築したともされる。まさに群馬暴威からBOØWYへの進化と同じである。小田原城を攻略する為に石垣山城を築いた豊臣秀吉のケースと同じ感じとも言えるだろう。沼田城はすぐそこであり、まさに目と鼻の先。BOØWYとBUCK-TICKの距離感である。早速意味がわからない。真田氏はいろんな武将に仕えてきたので、その度にいろんな城を治めてきた。よって築城の影響も受けたはず。例えばこの城の三日月堀の跡を考えると武田氏の影響が見て取れると思う。決して大きな城ではない、むしろコンパクトな城だが縄張りは本当に良く出来ている。現在は城の真ん中を国道17号線が突っ切っており、あっちゃんがキャンディを歌うところの「突き抜ける〜」と同じ感覚である。城内入口手前の馬出しまでが城のスペースと思われがちだが、そこより外には外郭が存在した。よって家来達もこの外郭に暮らしていたことがわかっている。山の突き出た丘に建てられた名胡桃城だが大手がこの外郭の部分だったのか、もしくは突き出た先端の物見曲輪の下にあったのかは定かではない。道がはっきりと残っていないのでわからない部分があるが、そもそも17号線の道沿いがこの山を登る道だったとも言えるし、旧道が国道になるケースがほとんどなので間違いはないのかもしれない。となると現在駐車場になっている般若郭の真逆が大手道だったと言える。
名胡桃城は全部で7〜8の曲輪から成り立っている連格式の城で、その周りが断崖絶壁、城内も深い堀切と空堀で構成されている。おそらく当時は土橋や木橋で移動していたと思われる。現在は当時と同じような木橋が復元されている。城マニアならわかると思うが小諸城にもよく似た作りだ。この地形に石垣を組めば小諸城っぽくなる。ただ小諸城ほど本郭に行けば行くほど地形が下がるわけではない。ある程度同じ高さの曲輪で構成されていて、般若郭とニノ郭がとても広いという作りだ。般若郭だけが単独の曲輪となっていて、もしかすると女性や子供がこの曲輪で暮らしていたのかもしれない。
見学のスタートはまず馬出しの後から城内へ。ここでしっかり書かれたありがたい説明書きを読んで入城してもらえればと思う。分かりづらいかもしれないが、馬出しの周りが三日月堀の跡である。発掘調査後に埋められてしまっているが見事な円を描いている。白いアスファルトになった道が三日月堀の跡である。是非イマジンしてほしい。そこから三ノ郭へ。曲輪から曲輪への連結は虎口になっている。その度にいちいち深い空堀、渡れない幅の堀切という仕組み。ここに落ちたら登っては来られない、コテンパンにやられる。まさに「人の不幸は大好きサ」京介というよりむしろ狂介である。おい、上手いこと言うやんけ。
ニノ郭を超えると本郭だがさほどスペースはない。その先に初めてのアップダウンで階段を降りて行くと、ささ郭、そして袖郭、最後は物見曲輪となっている。この階段はBOØWYの日本武道館公演で使われたステージの両サイドにあったもので、布袋さんがギターソロを弾きながら駆け上がっていたあの階段である。嘘です。二度目に来た時は1月で雪が降っており、この物見曲輪まで行くことが出来なかったが、この曲輪はとても良い眺めである。ここから沼田城が見えたであろう。今井商店も見えます。嘘です、見えません。探せなかったがこの先に搦手口があったはずなのだが、門跡らしき部分はわからなかった。当時は利根川まで降りて行ける道があったと推測。もしくは般若郭の外に搦手口があったのかもしれない。近年の発掘調査では土塁の下に石垣も発見された。空堀も単なる空堀ではなく薬研堀だったことも判明。まさに戦う城としての機能が伺える。発掘していろんなことがわかってもそのままにしておくと危険なこともあり、どうしても埋め直さなくてはならないのが残念ではある。だが城は草木もしっかりと整備されていてとてもイマジンしやすい。復元予想図はドンピシャだと言える。素晴らしい。天守こそない城だが、そんなものなど作る必要のない程どの場所にいても良い眺めだ。物見櫓、櫓門、狭間、それくらいがあれば戦いには十分だったであろう。何よりも両サイドの絶壁、深い堀切と空堀、これがほぼ天然の要害とも言えるので建てた場所が完璧だったと言えるだろう。
現在は城の入り口部分に案内所があり、城の更なる詳しい説明書きやパンフレットなどが充実。完全な真田ご贔屓。ここに行くと優しい群馬のスタッフさんからクリアファイルやオリジナルボールペン、ステッカーなどがもらえると城マニアからの情報を得ていたのだが、2回の来城で2回とも閉まっていた。撃沈である。遊びはここで終わりにしようぜとあっちゃんも言っていたのに…。駐車場にはトイレが設置されているがこれがまた真冬の来城の時にドアが凍って開かなかった。群馬の冬は寒い。群馬の人達はとても温かい人ばかりだが、名胡桃城に設置されたトイレのドアは真冬に心を閉ざす。おい、上手いこと言うやないか。
とにもかくにも名胡桃城は見学しやすいので初心者にもお勧めだ。想像力が湧かないという方にもこれだけの説明書きが用意されていれば十分伝わると思う。名胡桃城に来れば戦国時代にタイムスリップさせてくれると思う。まさに季節が君だけを変えると思う。氷室さんもLAに移住される時に上毛かるたは持参されたと思う。前にも書いたような気がするが、都内でお会いする群馬出身の方に、「鶴舞う形の〜?」とセンタリングをあげると必ず「群馬県!」と答えてくれる。これは群馬県人のあるあるだ。で、必ず「卓偉くんも群馬出身なの?」と聞かれ「いえ、福岡です」と答えると皆、「え?なんで群馬じゃない人が上毛かるた知っているの?」と聞かれる。これも200パーセントの確率だ。私の家には何故か上毛かるたが二つもある。一つならまだしも二つある。自分でも意味がわからない。

あぁ 名胡桃城 また訪れたい…。

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