ザ・ベンチャーズの
『コンプリート・ライヴ
・イン・ジャパン ‘65』は
ライヴアルバムの決定版!

寺内タケシのギターテクニック

今の日本では、なぜか寺内タケシの名前を聞くことはほとんどない。しかし、彼のプレイはすごかった。あれだけのテクニックを持ったギタリストはそういないだろう。テレビなどに出ている時は喋ると東北訛りのユーモラスな存在なのに、一旦ギターを弾きだすとスーパースターの輝きがあった。そもそも彼が在籍していたカントリーバンド、ジミー時田&マウンテンプレイボーイズはベースがいかりや長介(ドリフターズ)だったし、MCでは笑いを取ることが主流であったのだ。寺内といかりやはジミー時田のグループを脱退し、寺内は寺内タケシとブルージーンズを、いかりやはドリフターズをそれぞれ結成、別の道を進んでいく。ブルージーンズは結成時はプレスリーに影響されたロカビリーを演奏していたが、ザ・ベンチャーズの登場によってエレキバンドへと変化していく。

寺内タケシのギターテクニックは日本のアーティストたちに大きな影響を与え、70年代初期に日本のロック界で活躍したギタリストは、ほぼ寺内タケシに影響されていると言っても過言ではないだろう。日本の民謡に取り組んだ『レッツ・ゴー・エレキ節』(‘66)やクラシックに挑戦した『レッツ・ゴー・「運命」』(’67)など、彼のクリエイティブな才能はエレキバンドで開花したのである。ウィキペディアの寺内タケシの項には「1965年、アメリカの音楽雑誌『ミュージック・ブレイカー』でチェット・アトキンス、レス・ポールと並んで世界三大ギタリストに選ばれた」という文章が紹介されている。要出展(誰か出展を明らかにしてほしい)ながら、彼のプレイを知る人なら納得するのではないだろうか。それぐらい彼のギターは斬新でロックしていた。そう、当時のエレキバンドはロック的(ガレージバンド的サウンド)な感覚だったので多くの若者たちに支持されたわけだが、アメリカやイギリスでは日本ほど人気が出ることはなく、60年代末には絶滅危惧種のような存在になっていた。これは若大将シリーズや寺内タケシの存在が、日本ではいかに大きかったかということだろう。

寺内や加山雄三らの尽力で若者たちの間でエレキブームが巻き起こり、62年に初来日していたザ・ベンチャーズが65年に再来日する。これが当時の若者たちに熱狂をもって迎えられ、一気に日本でのザ・ベンチャーズブームが起こる。ザ・ベンチャーズの音楽性や人気もあって、日本独自のグループサウンズ(歌謡曲×エレキバンド、以下GS)が誕生することになるのだが、このあたりは本項の趣旨と違うので別の機会にしようと思う。

ザ・ベンチャーズというグループ

ザ・ベンチャーズは1959年に、ドン・ウィルソン(リズムギター)、ボブ・ボーグル(リードギター)のふたりでスタートし、その後ベーシストとしてノーキー・エドワーズが加入。練習を繰り返すうち、ノーキーが優れたギタリストであることがわかったため、ボーグルがベースに転向、ノーキーがリードギターを担当する。また、当初ドラムは流動的であったが、5thアルバム『ツイスト・ウィズ・ザ・ベンチャーズ』(‘62)からメル・テイラーが参加、この時点でザ・ベンチャーズ黄金期のラインアップとなった。

60年、シングル「Cookies And Coke」でデビューするものの話題にはならなかった。ところが、同年にリリースした2ndシングル「急がば廻れ(原題:Walk Don‘t Run)」が全米チャートで2位となり、ザ・ベンチャーズは“インストゥルメンタル・ロックグループ”という新しいジャンルを確立する。1stアルバム『ウォーク・ドント・ラン』も11位となり、一気に人気グループに躍り出た。この曲はアメリカ国内だけで100万枚以上のセールスを記録するのだが、その後は鳴かず飛ばずとなり、64年に「ウォーク・ドント・ラン ‘64」をリリースすると再ヒットし(全米8位)、日本でも大ヒットする。折からのサーフィンブーム(火付け役は加山雄三)に乗り、同年リリースのシングル「ダイヤモンド・ヘッド」が日本では売れに売れ(アメリカでは70位とたいしたヒットにはならなかった)、エレキバンドブームの到来となる。

OKMusic編集部

全ての音楽情報がここに、ファンから評論家まで、誰もが「アーティスト」、「音楽」がもつ可能性を最大限に発信できる音楽情報メディアです。

新着