【インタビュー】吉田栄作、歌手デビ
ュー30周年「旅のように思えるんです
、人生っていうのが」
「人生が旅のように思える」と彼はいう。高校時代にひらめいた、俳優になって音楽もやりたいという強い衝動も、人気絶頂の20代で選んだ、どこにいても自分のからだ一つで生きていきたいという願いも。50歳になった今は、それらの理想をリアルに実現させている。
◆吉田栄作 画像
そして長いようで短い、人生という旅の途中で、出会った人や起きた事柄は、歌に置き換えて記録していく。愛と別れ、嬉しかったこと、苦しかったこと、すべてのイメージが微熱を発するように、音楽の中で輝く。
◆ ◆ ◆
■からだ一個で生きてる感じがすごくカッコよく思えた
■それに比べると、自分の生命力は弱いなあって
──吉田さんの最近のドラマや映画作品を見たのですが、“その役の人としてそこに居る”という芝居のできる役者さんになっていらしたのだなと、あらためてびっくりしました。カッコいいなと思いました。
吉田:ああ、ありがとうございます(小さめの声で)。
──すごく考えて、繰り返し演じて、そういう積み重ねの上でしかできないと思うんです。自分でも努力をしてきたなって思われますか?
吉田:ま、努力っていうのは、イチローみたいな人のことなんだろうなって思うんですけど(笑)。いままでの俳優としてのキャリア、経験を積み上げてきて、いまの自分があることは間違いないことなんです。プラス私生活でも、いま僕50になったんで、50年間分の人との出会いとか別れがあって、嬉しかったこと、イヤだったこと、そういう全部ひっくるめて全身で演じようとしている。それを良しと信じている自分が、カメラの前とか、舞台の上に立っているんだと思うんですね。
──役者として、自信を持ってもいいって思えたのはいつぐらいでしたか?
吉田:いやいやいや、なってないすから(笑)。自分の芝居を見た時に、カッコつけた言い方すれば“BEST IS NEXT”だなって、そう思うことが目立っちゃうんです。う~ん。ときどき、ドーン!と、自分の今の最高の玉で行けたかなって思うことあるんだけど。それって不確かですからね。でもどっかナルシストなのか、結局、そういう日の酒はうまかったりするんですよ。でもあんまり評価を気にするより、自分で考えて、自分で進んでいくっていうことが、何よりも大事っていうことでしょうね。
──こうやって話すと、吉田さんてツッパリでもないし、タカビーでもないですよね(笑)。若かった頃の発言は、若かったからこそだと思うのですが。
吉田:完全に自分でキャラを作ってましたよね。結局、当時はただ若さと勢いで、鏡で自分を見て、こいつがこういうことをすれば面白いんじゃないかっていう、演出が入ってました。たとえて言うと、黒いアイドルがいたっていいじゃないかと(笑)。
──ええっ。じゃ、世間の反応を、イヤだなとも思わずに?
吉田:思わなかったです。イヤだったのは、むしろチームとしては抑えようとしていたので、なんでわかってくれないんだっていうのはありましたね。そこがプロジェクトとして成立していれば、僕自身は、もっとやり続けられたかもしれないですよね。みんなでやった後に「あ、すいませんでした」って謝るようなね(笑)。
──それには、芸人さんたちの台頭を待たないと、いけなかったかもしれないですね。
吉田:そうですそうです。ちょっと、早かったかもしれないですね、やり方が。だから結果、自分がつらくなっちゃったんですよ、自分じゃない自分を演じてたので。
──それもあってアメリカに行かれたんですか? 大成功していた26歳で。
吉田:だいぶ独り歩きしちゃったなという反省点はあったんで、本当の自分として帳尻を合わせたかった。あと、いろんな海外に行かしてもらって、世界はこんなに大きいのに、日本でもてはやされたとしても、それがなんなんだって思うようにいつしかなりまして。それと撮影やレコーディングで海外に行くと、現地の言葉をしゃべられる日本人のコーディネイターさんがいらっしゃるじゃないですか。彼らの生活とか生き方を見てると、からだ一個で生きてる感じがすごくカッコよく思えた。それに比べると、自分の生命力は弱いなあって。守られて、通訳されて“なんとかプリーズ”ぐらい、自分で言えばいいだろうって。そういうこともできる人間になっていきたいなと思ったことも、休養の大きな理由でしたよね。
──向こうではどんな生活を。
吉田:お金は稼いでいったけど、無駄づかいしてると、一気になくなっちゃうものだろうから。アパートはウエストハリウッドの800ドルくらいの部屋で自活して、車なんか中古車の5000ドルくらいの、50万円くらいのジープを買ってました。それで英語で演技の勉強をして、ライブハウスに通って、ミュージシャンの友達を作って、スポーツして、毎日ように映画を見に行った。安いものは1ドルで見れたし、英語の勉強にもなった。
──みんなが思っていた、ブイブイの吉田栄作像とはぜんぜん違いますね。
吉田:そもそもこっちが本物なんで(笑)。
──俳優は、演じるものではなく、その人になるものだと学んだのもその時期ですか。
吉田:“Do not act please.”だったか、そういう教材があるんですよ。演技の教材なんだけど、演じないでくださいっていう。もうその一言で、なるほど、向こうの名優たちの素晴らしい芝居っていうのは、確かにそうだなあって思うし。そこに近づきたい、そこに行かなきゃなあって思ったキッカケでもありましたね。
──29歳で帰国してからは、NHKのドラマに出たことも大きかったとか。
吉田:大河ドラマや社会派の作品だったり、それまでやってきたキャリアより、もう少し深くいろんなことを考えながら、ドラマをできるチャンスが僕に与えられた。それが大きいなと思います、1998年ぐらいからなんです。で、2006年ぐらいから、舞台というものに出ていくんです。またこれも、ひとつの役とか芝居というものを、数々の演出家や共演者と掘り下げる作業という意味では、今にとてもつながっていると思います。僕としてはやっぱり映像の俳優になりたかったので、舞台での経験もすべて、映画や、テレビドラマの仕事に返ってくればいいと思っている。
──そもそも、モデルになるオーディションから出てこられたのですよね?
吉田:じゃないんです、ウィキペディアでさえそうなってるんですけど。もともと高校2年の時から俳優になりたくて、東京の俳優養成所に通い始めたんです。高校を卒業して、東京でアルバイトをしながら自活して、19歳の時にタカキューというアパレルが主催する<ナイスガイ・コンテスト>でグランプリを獲ったことが映画デビューにつながるんです。
──俳優になりたかったのが先なんですね。
吉田:そうです、同時に歌手もやりたかったんですよ。だからキャリアの始まりとしては、俳優養成所に通ったのと、友達とバンドを組んだことですね。これ同時に、高校2年生の16歳の時でした。
──なぜ俳優になりたいと?
吉田:あの、高校2年のバスケット部が休みの日に、当時のガールフレンドと小田急線で新宿まで遊びに行ったんです。新宿センタービルの52階にカフェがあって、彼女がケーキ食べ放題があるという。じゃ、そこに行こうじゃないかと。で、窓際の席に座って下を見ると、スクランブル交差点があって、ワーッて人が通っている。ああ、人って小さいんだな、自分もあそこに行ったら、あの中の点なんだなって。ならば自分は死んだ時に、記録に残るような生き方がしたいなと思った。それがなぜか俳優とか芸能界っていうものと、直結したんですよね。
──何かをずっと続けていらっしゃる方って、若いときにひらめいてずっと続けていらして、大成される方が多いですよね。吉田さんもそうだったんですね。
吉田:だからそっからのことを考えると、30年以上も経ってるんで、非常に感慨深いのと。冒頭での努力っていう話に戻ると、たぶんそれがない人間は、絶対にここに残れない。やっぱり基本、俳優とか芸能界って淘汰されていく世界だと思うので。
◆インタビュー(2)へ
◆吉田栄作 画像
そして長いようで短い、人生という旅の途中で、出会った人や起きた事柄は、歌に置き換えて記録していく。愛と別れ、嬉しかったこと、苦しかったこと、すべてのイメージが微熱を発するように、音楽の中で輝く。
◆ ◆ ◆
■からだ一個で生きてる感じがすごくカッコよく思えた
■それに比べると、自分の生命力は弱いなあって
──吉田さんの最近のドラマや映画作品を見たのですが、“その役の人としてそこに居る”という芝居のできる役者さんになっていらしたのだなと、あらためてびっくりしました。カッコいいなと思いました。
吉田:ああ、ありがとうございます(小さめの声で)。
──すごく考えて、繰り返し演じて、そういう積み重ねの上でしかできないと思うんです。自分でも努力をしてきたなって思われますか?
吉田:ま、努力っていうのは、イチローみたいな人のことなんだろうなって思うんですけど(笑)。いままでの俳優としてのキャリア、経験を積み上げてきて、いまの自分があることは間違いないことなんです。プラス私生活でも、いま僕50になったんで、50年間分の人との出会いとか別れがあって、嬉しかったこと、イヤだったこと、そういう全部ひっくるめて全身で演じようとしている。それを良しと信じている自分が、カメラの前とか、舞台の上に立っているんだと思うんですね。
──役者として、自信を持ってもいいって思えたのはいつぐらいでしたか?
吉田:いやいやいや、なってないすから(笑)。自分の芝居を見た時に、カッコつけた言い方すれば“BEST IS NEXT”だなって、そう思うことが目立っちゃうんです。う~ん。ときどき、ドーン!と、自分の今の最高の玉で行けたかなって思うことあるんだけど。それって不確かですからね。でもどっかナルシストなのか、結局、そういう日の酒はうまかったりするんですよ。でもあんまり評価を気にするより、自分で考えて、自分で進んでいくっていうことが、何よりも大事っていうことでしょうね。
──こうやって話すと、吉田さんてツッパリでもないし、タカビーでもないですよね(笑)。若かった頃の発言は、若かったからこそだと思うのですが。
吉田:完全に自分でキャラを作ってましたよね。結局、当時はただ若さと勢いで、鏡で自分を見て、こいつがこういうことをすれば面白いんじゃないかっていう、演出が入ってました。たとえて言うと、黒いアイドルがいたっていいじゃないかと(笑)。
──ええっ。じゃ、世間の反応を、イヤだなとも思わずに?
吉田:思わなかったです。イヤだったのは、むしろチームとしては抑えようとしていたので、なんでわかってくれないんだっていうのはありましたね。そこがプロジェクトとして成立していれば、僕自身は、もっとやり続けられたかもしれないですよね。みんなでやった後に「あ、すいませんでした」って謝るようなね(笑)。
──それには、芸人さんたちの台頭を待たないと、いけなかったかもしれないですね。
吉田:そうですそうです。ちょっと、早かったかもしれないですね、やり方が。だから結果、自分がつらくなっちゃったんですよ、自分じゃない自分を演じてたので。
──それもあってアメリカに行かれたんですか? 大成功していた26歳で。
吉田:だいぶ独り歩きしちゃったなという反省点はあったんで、本当の自分として帳尻を合わせたかった。あと、いろんな海外に行かしてもらって、世界はこんなに大きいのに、日本でもてはやされたとしても、それがなんなんだって思うようにいつしかなりまして。それと撮影やレコーディングで海外に行くと、現地の言葉をしゃべられる日本人のコーディネイターさんがいらっしゃるじゃないですか。彼らの生活とか生き方を見てると、からだ一個で生きてる感じがすごくカッコよく思えた。それに比べると、自分の生命力は弱いなあって。守られて、通訳されて“なんとかプリーズ”ぐらい、自分で言えばいいだろうって。そういうこともできる人間になっていきたいなと思ったことも、休養の大きな理由でしたよね。
──向こうではどんな生活を。
吉田:お金は稼いでいったけど、無駄づかいしてると、一気になくなっちゃうものだろうから。アパートはウエストハリウッドの800ドルくらいの部屋で自活して、車なんか中古車の5000ドルくらいの、50万円くらいのジープを買ってました。それで英語で演技の勉強をして、ライブハウスに通って、ミュージシャンの友達を作って、スポーツして、毎日ように映画を見に行った。安いものは1ドルで見れたし、英語の勉強にもなった。
──みんなが思っていた、ブイブイの吉田栄作像とはぜんぜん違いますね。
吉田:そもそもこっちが本物なんで(笑)。
──俳優は、演じるものではなく、その人になるものだと学んだのもその時期ですか。
吉田:“Do not act please.”だったか、そういう教材があるんですよ。演技の教材なんだけど、演じないでくださいっていう。もうその一言で、なるほど、向こうの名優たちの素晴らしい芝居っていうのは、確かにそうだなあって思うし。そこに近づきたい、そこに行かなきゃなあって思ったキッカケでもありましたね。
──29歳で帰国してからは、NHKのドラマに出たことも大きかったとか。
吉田:大河ドラマや社会派の作品だったり、それまでやってきたキャリアより、もう少し深くいろんなことを考えながら、ドラマをできるチャンスが僕に与えられた。それが大きいなと思います、1998年ぐらいからなんです。で、2006年ぐらいから、舞台というものに出ていくんです。またこれも、ひとつの役とか芝居というものを、数々の演出家や共演者と掘り下げる作業という意味では、今にとてもつながっていると思います。僕としてはやっぱり映像の俳優になりたかったので、舞台での経験もすべて、映画や、テレビドラマの仕事に返ってくればいいと思っている。
──そもそも、モデルになるオーディションから出てこられたのですよね?
吉田:じゃないんです、ウィキペディアでさえそうなってるんですけど。もともと高校2年の時から俳優になりたくて、東京の俳優養成所に通い始めたんです。高校を卒業して、東京でアルバイトをしながら自活して、19歳の時にタカキューというアパレルが主催する<ナイスガイ・コンテスト>でグランプリを獲ったことが映画デビューにつながるんです。
──俳優になりたかったのが先なんですね。
吉田:そうです、同時に歌手もやりたかったんですよ。だからキャリアの始まりとしては、俳優養成所に通ったのと、友達とバンドを組んだことですね。これ同時に、高校2年生の16歳の時でした。
──なぜ俳優になりたいと?
吉田:あの、高校2年のバスケット部が休みの日に、当時のガールフレンドと小田急線で新宿まで遊びに行ったんです。新宿センタービルの52階にカフェがあって、彼女がケーキ食べ放題があるという。じゃ、そこに行こうじゃないかと。で、窓際の席に座って下を見ると、スクランブル交差点があって、ワーッて人が通っている。ああ、人って小さいんだな、自分もあそこに行ったら、あの中の点なんだなって。ならば自分は死んだ時に、記録に残るような生き方がしたいなと思った。それがなぜか俳優とか芸能界っていうものと、直結したんですよね。
──何かをずっと続けていらっしゃる方って、若いときにひらめいてずっと続けていらして、大成される方が多いですよね。吉田さんもそうだったんですね。
吉田:だからそっからのことを考えると、30年以上も経ってるんで、非常に感慨深いのと。冒頭での努力っていう話に戻ると、たぶんそれがない人間は、絶対にここに残れない。やっぱり基本、俳優とか芸能界って淘汰されていく世界だと思うので。
◆インタビュー(2)へ
■50歳を迎え、30年所属した事務所から独立して
■ここからが起承転結の“転”
──今回、音楽の活動としては「Runners High」「Annie」がリリースされます。
吉田:僕の中では、新しい始まりのちょうどいい機会なんです。俳優っていう部分に関しては、起承転結をつけたいなっていうのが自分の中であって。そういう意味では、第一章の“起”が若い時で、デビューしてから7年くらい。渡米して帰国してからが第二章の“承“ですね。で、帰ってきてからのこの第二章が、ほんとに長かった。どこで閉じるかなって、この4~5年ぐらい、ものすごいもがいてましたね。で、50歳になり、30年お世話になったワタナベエンターテインメントを辞めさせてもらい、独立して、こっからが第三章の“転”だと思うんですね、はい。
──いまレコーディングされてる曲は、全曲をご自分で作られたんですよね。
吉田:ずっと音楽はやり続けてるんですけど、自主製作盤も多かったので、今回、正式にレコーディングしてリリースできるのは、僕としてはとても嬉しいです。それこそ記録に残る形にできるわけじゃないですか。歌い続けてきた曲には、思い入れがあるので。
──吉田さんて、人生哲学っぽいことをすごく考えてますよね。どういうふうに演じるとか、どういうふうに生きるかとか。歌詞もいろんな暗示に聴こえておもしろい。
吉田:ああ、なんか旅のように思えるんですよね、この人生っていうのが。僕の曲って、デビュー曲から旅の曲が多いんですよね。最初のヒット曲もカバーですけど「心の旅」だし。自分で書いた「Runners High」も「Annie」も、旅の途中の出会いとか、旅の途中で感じたことが詞になっているので、僕の中の哲学かもしれないですね。
──ラブソングが多くなるわけではないんですか?
吉田:ないですねえ。「Annie」なんかはラブソングなんだけど、むしろ自分の心の中を比喩した感じですかね。
──歌詞の中で、今は幸せだけど、いつかは過ぎてしまうのかもしれないとも歌う。
吉田:それって、ある程度経験をしていくと、とてもリアルだと思うんですよね。そうじゃないものは、ないと。人生って、浮かれている時に絶対にボーンと、イヤなことが来るじゃないですか。
──来ますね(笑)。
吉田:だから幸せに感じていることって、いつか失うよなって思うように、だんだんなってくるんですよね。
──アレンジも素敵ですよね。ウエストコーストの風を感じたり、本当にそれが新鮮に聴こえて、いいなあって。
吉田:曲自体に、僕の中ではもう風情がある。季節があって、風が吹いている。プロデューサーの佐久間さんは、音楽を制作する人であり、レコードマンじゃないですか。で、今回参加してくれた、阿部潤くんたちはミュージシャンで。それぞれに音楽を愛する人たちとコラボレーションすることで、僕の曲の風情みたいなものが、みなさんが作ってくれるものと、うまくコラボできたらなあと。そこはすごく楽しみなところですよね。
──男性が聴いてわかってくれて、一緒に歌ってくれたら、嬉しいなとは。
吉田:もちろんもちろん。「お前まだやってたんだ」とか「歌ってたんだ」とか。「心の旅」で止まってるけどっていう人に聴いてもらって「おお、なかなかいいじゃないか」とか。「歌いたいな」ってなってくれれば、それは嬉しいですよね。
▲ニューシングル「Runners High」
──ツアーに出る予定は?
吉田:プロデューサー的には、なにかできたらいいよね、みたいには言ってくださってるので、実現したいなあと。でも僕ね、本当にずーっとやり続けてるんですよ。ひと知れずといいますか(笑)。デビュー20年の時にも「心の旅(ver.2009)」を出して、北海道から鹿児島までインストアライブをやって。それでけっこう全国からオファーがきた。予算に応じて、場合によっちゃマネージャーも連れずに、僕がギターを抱えてひとりで現地に行って歌って(笑)。ずっといろんな場所でやってきたんで、今回の30年というのがフックになって、「お、またやってる」って思ってもらえたらいいなと、思いますけどね。
──“歌”に関しては、どんなふうに続けていこうと思っていますか?
吉田:第一章を終える時に、アメリカに行く前に思ったのは、これからは大きなホールやアリーナじゃなくても。一人のお客さんが目の前にいてくれたら、その人のために歌うぞっていうような、その精神があればいいのかなあと。結果それが何人になっても。
──歌うことが好きだし、すごく自然なことなんでしょうね。
吉田:そうですね。もう、職業は何かって聞かれたら、僕は間違いなく“俳優”って言う。「じゃあ音楽は?」ってなったときに「いやいやいや、好きだから続けているんです」と。お金にならないかもしれないけど、だって好きなんで(笑)。
──渡米から25年が経ち、ロサンゼルスには今でも、毎年、行ってるのだとか。
吉田:行ってます。向こうでもライブをやってます。音楽仲間がいるので、アコースティックライブをやったり、バンドをやったり。あそこは、肌に合うんですよねえ。ここにいる自分以上に、向こうの方がリアルというかね、自分が等身大だと思える。やっぱり特殊な仕事だからですかね。どうしても日本にいると、キュークツな感じがしますからね。自分をアピールするとか、自分の意見を言ったりするのに、手足をボーンと伸ばすと、ハミ出ちゃう気がするんですよ。でもアメリカって、手足を伸ばしても、ぜんっぜん、まだまだ足んないよっていうような。僕が背が高いからかもしれないけど(笑)。
──ということは25年前の強い思いを、ライフスタイルとして実現させたのですね。変わらないんですね、自分の足で立って、体ひとつで進んでいきたいという思いは。
吉田:そうです。僕が今年、立ち上げた会社の社名がドゥータって言いまして。ズタ袋の、ズタの語源なんですね。インドの修行僧がぶら下げている袋が、ドゥータっていうらしいんですよ。人生は旅で、修行で、いただける対価に感謝と。
──吉田栄作さんのインタビューで、そこに結論が行くと思いませんでした(笑)。
吉田:そうですか? とにかくズタ袋一個で生きていきたいっていう話ですね。
──じゃ、これからも旅はつづくと。
吉田:そうです、旅はつづきます。
取材・文◎高山まゆみ
音楽デビュー30周年記念シングル「Runners High」
2019年6月5日(水)発売
FNFY-44 ¥1,080(税込)
1. Runners High
2. Annie
3. Runners High -original karaoke-
4. Annie -original karaoke-
■ここからが起承転結の“転”
──今回、音楽の活動としては「Runners High」「Annie」がリリースされます。
吉田:僕の中では、新しい始まりのちょうどいい機会なんです。俳優っていう部分に関しては、起承転結をつけたいなっていうのが自分の中であって。そういう意味では、第一章の“起”が若い時で、デビューしてから7年くらい。渡米して帰国してからが第二章の“承“ですね。で、帰ってきてからのこの第二章が、ほんとに長かった。どこで閉じるかなって、この4~5年ぐらい、ものすごいもがいてましたね。で、50歳になり、30年お世話になったワタナベエンターテインメントを辞めさせてもらい、独立して、こっからが第三章の“転”だと思うんですね、はい。
──いまレコーディングされてる曲は、全曲をご自分で作られたんですよね。
吉田:ずっと音楽はやり続けてるんですけど、自主製作盤も多かったので、今回、正式にレコーディングしてリリースできるのは、僕としてはとても嬉しいです。それこそ記録に残る形にできるわけじゃないですか。歌い続けてきた曲には、思い入れがあるので。
──吉田さんて、人生哲学っぽいことをすごく考えてますよね。どういうふうに演じるとか、どういうふうに生きるかとか。歌詞もいろんな暗示に聴こえておもしろい。
吉田:ああ、なんか旅のように思えるんですよね、この人生っていうのが。僕の曲って、デビュー曲から旅の曲が多いんですよね。最初のヒット曲もカバーですけど「心の旅」だし。自分で書いた「Runners High」も「Annie」も、旅の途中の出会いとか、旅の途中で感じたことが詞になっているので、僕の中の哲学かもしれないですね。
──ラブソングが多くなるわけではないんですか?
吉田:ないですねえ。「Annie」なんかはラブソングなんだけど、むしろ自分の心の中を比喩した感じですかね。
──歌詞の中で、今は幸せだけど、いつかは過ぎてしまうのかもしれないとも歌う。
吉田:それって、ある程度経験をしていくと、とてもリアルだと思うんですよね。そうじゃないものは、ないと。人生って、浮かれている時に絶対にボーンと、イヤなことが来るじゃないですか。
──来ますね(笑)。
吉田:だから幸せに感じていることって、いつか失うよなって思うように、だんだんなってくるんですよね。
──アレンジも素敵ですよね。ウエストコーストの風を感じたり、本当にそれが新鮮に聴こえて、いいなあって。
吉田:曲自体に、僕の中ではもう風情がある。季節があって、風が吹いている。プロデューサーの佐久間さんは、音楽を制作する人であり、レコードマンじゃないですか。で、今回参加してくれた、阿部潤くんたちはミュージシャンで。それぞれに音楽を愛する人たちとコラボレーションすることで、僕の曲の風情みたいなものが、みなさんが作ってくれるものと、うまくコラボできたらなあと。そこはすごく楽しみなところですよね。
──男性が聴いてわかってくれて、一緒に歌ってくれたら、嬉しいなとは。
吉田:もちろんもちろん。「お前まだやってたんだ」とか「歌ってたんだ」とか。「心の旅」で止まってるけどっていう人に聴いてもらって「おお、なかなかいいじゃないか」とか。「歌いたいな」ってなってくれれば、それは嬉しいですよね。
▲ニューシングル「Runners High」
──ツアーに出る予定は?
吉田:プロデューサー的には、なにかできたらいいよね、みたいには言ってくださってるので、実現したいなあと。でも僕ね、本当にずーっとやり続けてるんですよ。ひと知れずといいますか(笑)。デビュー20年の時にも「心の旅(ver.2009)」を出して、北海道から鹿児島までインストアライブをやって。それでけっこう全国からオファーがきた。予算に応じて、場合によっちゃマネージャーも連れずに、僕がギターを抱えてひとりで現地に行って歌って(笑)。ずっといろんな場所でやってきたんで、今回の30年というのがフックになって、「お、またやってる」って思ってもらえたらいいなと、思いますけどね。
──“歌”に関しては、どんなふうに続けていこうと思っていますか?
吉田:第一章を終える時に、アメリカに行く前に思ったのは、これからは大きなホールやアリーナじゃなくても。一人のお客さんが目の前にいてくれたら、その人のために歌うぞっていうような、その精神があればいいのかなあと。結果それが何人になっても。
──歌うことが好きだし、すごく自然なことなんでしょうね。
吉田:そうですね。もう、職業は何かって聞かれたら、僕は間違いなく“俳優”って言う。「じゃあ音楽は?」ってなったときに「いやいやいや、好きだから続けているんです」と。お金にならないかもしれないけど、だって好きなんで(笑)。
──渡米から25年が経ち、ロサンゼルスには今でも、毎年、行ってるのだとか。
吉田:行ってます。向こうでもライブをやってます。音楽仲間がいるので、アコースティックライブをやったり、バンドをやったり。あそこは、肌に合うんですよねえ。ここにいる自分以上に、向こうの方がリアルというかね、自分が等身大だと思える。やっぱり特殊な仕事だからですかね。どうしても日本にいると、キュークツな感じがしますからね。自分をアピールするとか、自分の意見を言ったりするのに、手足をボーンと伸ばすと、ハミ出ちゃう気がするんですよ。でもアメリカって、手足を伸ばしても、ぜんっぜん、まだまだ足んないよっていうような。僕が背が高いからかもしれないけど(笑)。
──ということは25年前の強い思いを、ライフスタイルとして実現させたのですね。変わらないんですね、自分の足で立って、体ひとつで進んでいきたいという思いは。
吉田:そうです。僕が今年、立ち上げた会社の社名がドゥータって言いまして。ズタ袋の、ズタの語源なんですね。インドの修行僧がぶら下げている袋が、ドゥータっていうらしいんですよ。人生は旅で、修行で、いただける対価に感謝と。
──吉田栄作さんのインタビューで、そこに結論が行くと思いませんでした(笑)。
吉田:そうですか? とにかくズタ袋一個で生きていきたいっていう話ですね。
──じゃ、これからも旅はつづくと。
吉田:そうです、旅はつづきます。
取材・文◎高山まゆみ
音楽デビュー30周年記念シングル「Runners High」
2019年6月5日(水)発売
FNFY-44 ¥1,080(税込)
1. Runners High
2. Annie
3. Runners High -original karaoke-
4. Annie -original karaoke-