【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#92 歌
手・萩原健一の言葉

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

そのときにもう、ブルースが鳴っていた
んです

より

萩原健一の音楽性の原点といえば、多くの人は、グループサウンズにあると考えるだろう。2018年5月に行われたこのインタビューには、22年ぶりのリリースとなったシングル『Time Flies』とライブ活動への思いとともに、萩原の音楽史が語られている。萩原の音楽性の原点は、ザ・テンプターズのもっと前にあった。14歳〜15歳の頃の萩原が聴いていたという音楽である。「当時、横浜の山下町にゼブラ・クラブというのがありましてね。要するにG.I.(米兵)専用のクラブなんだけど、気がついたらそこにいて、ブルースが自然に入ってきたんですよ」と振り返る。2019年3月26日に、惜しくもこの世を去った萩原の本性が滲み出た名言である。記事の中で、インタビュアーの「萩原さんのなかで、いままたライブをやるのが面白くなってきたとか、そういう気持ちの変化はありましたか」という問いかけに対して、萩原は「面白いからやるってことはしないですね。仕事の準備ができ次第、ものごとをやってます」と返答。萩原の意外性と実像が感じ取れる秀逸なインタビュー記事なので、ファンならずとも全文を読んでほしい。

萩原健一(はぎわらけんいち)
1950年7月26日生まれ、埼玉県北足立郡与野町出身。俳優、歌手。1967年、ザ・テンプターズのボーカリストとして、「忘れ得ぬ君」でレコードデビュー。1968年に「エメラルドの伝説」、「神様お願い!」など、次々と大ヒットを飛ばして絶大な人気を得る。1970年にザ・テンプターズが解散。その後に、井上堯之、大野克夫、岸部一徳、大口広司らで、伝説のロックバンドPYGが結成する。沢田研二とのツインボーカルで話題となった。1972年、映画監督を志し、映画『約束』に助監督として参加する。そこで、たまたま元の主演俳優が降板してしまい代役に抜擢され、演技が高い評価を得ることとなる。その後は、テレビドラマにも活躍の場を広げる。『太陽にほえろ!』(1972年~1986年)をはじめ、『傷だらけの天使』(1974年~1975年)、『前略おふくろ様』(1975年~1976年、1976年~1977年)などで、名演技を披露。野村芳太郎監督の『八つ墓村』(1977年)や黒澤明監督の『影武者』(1980年)など、日本の名作映画においてもその実力が発揮された。2018年、レコードレーベル『Shoken Records』を設立。22年ぶりとなるシングル『Time Flies』をリリースした。2019年3月26日、GIST(消化管間質腫瘍)のため死去。

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