70sアメリカンロックの
進むべき道を示したザ・バーズの
『タイトルのないアルバム』
カントリーロックの誕生
当初はキーボード奏者として新たに加入したグラム・パーソンズは、インターナショナル・サブマリン・バンドという売れないカントリーロックグループのリーダーであったが、マッギンにカントリーとロックを融合させる意味を説き、マッギンも了承する。そして、多数のゲストを招き入れてナッシュビルでの録音に臨み、リリースされたのが最初期のカントリーロック作品として知られる『ロデオの恋人(原題:Sweetheart Of The Rodeo)』(‘68)であった。このアルバムは、以前このコーナーで山口智男氏が取り上げているので、ご覧いただきたい。
新生バーズの始動
結局、マッギンとそりが合わなかったパーソンズは『ロデオの恋人』のレコーディングに参加しただけでグループを去る。マッギンは以前からスタジオミュージシャンとしてバーズのレコーディングに参加していたクラレンス・ホワイトに加入を呼びかける。クラレンスはカントリーロック志向であったために、『ロデオの恋人』の路線ならと参加を了承。クラレンスはドラムのケヴィン・ケリーに難色を示し、後釜にクラレンスの盟友、ジーン・パーソンズをマッギンに推薦し新生バーズが始動するはずであったが、デビュー時からマッギンの右腕としてグループを支えてきたヒルマンも、マッギンへの不信感から脱退することを決める。マッギンにとってヒルマンが辞めた痛手は大きかっただろう。とりあえず、スタジオミュージシャンのベーシスト、ジョン・ヨークを加えて『バーズ博士とハイド氏(原題:Dr.Byrds & Mr.Hyde)』(‘69)、『イージー・ライダー』(’69)をリリースする。
この時期はジーン・パーソンズが開発したストリングベンダーを駆使したクラレンスのギターワークが評判となり、後にボブ・ウォーフォードやアルバート・リーらのように、多くのクラレンス・フォロワーを生み出している。あのジミー・ペイジもクラレンスのプレイに魅せられ、ツェッペリン時代にストリングベンダーを使用していたことがある。
ライヴバンドとしての再生
当時、フェスなどでオールマン・ブラザーズ、グレイトフル・デッド、サンタナら、ライヴに定評のあるグループが増え、バーズもライヴパフォーマンスの向上が課題であった。マッギンはクラレンスの助言からジョン・ヨークを解雇し、新たなベーシストとしてスキップ・バッティンを迎え入れる。彼の参加によってステージでの演奏クオリティーが格段にアップし、バーズの念願であったライヴ盤のリリースが決定する。