《後編》今宵もどこかでカミングアウ
ト! 伊集院光の暴言事件簿
ニッポン放送からTBSラジオに電撃移籍
彼はそもそも、ニッポン放送で活動するパーソナリティだった。1991年から4年間放送されていた『Oh! デカナイト』で、ラジオパーソナリティとしてブレイク。だが1995年、突如番組は終了してしまう。その理由については当時はおろか現在も明らかになっていないため、様々な憶測が飛び交っている。
ラジオディレクター歴25年のI氏が、伊集院が番組を降板した理由を次のように語っている。
「僕が聞いたのは、大切にしていた構成作家をクビにされたからというものです。伊集院さんはラジオ番組を作る際、構成作家は必要不可欠な存在として考えてます。頭数が多ければ多いほどアイディアも出てきますし」
ではなぜ構成作家がクビになったのだろうか? I氏はこの件について以下のように説明してくれた。
「当時LF(ニッポン放送のこと)は、番組予算のカットを進めていたんです。予算が減るとまず切られるのはフリーの人間、つまり構成作家からなんです。そのことで上層部と大ゲンカになったそうです」最後は伊集院が「だったらやめさせてもらう」と、番組を降板する形となってしまった。
その後伊集院はラジオの活動をニッポン放送からTBSラジオにシフトしていくこととなる。
ラジオディレクター歴25年のI氏が、伊集院が番組を降板した理由を次のように語っている。
「僕が聞いたのは、大切にしていた構成作家をクビにされたからというものです。伊集院さんはラジオ番組を作る際、構成作家は必要不可欠な存在として考えてます。頭数が多ければ多いほどアイディアも出てきますし」
ではなぜ構成作家がクビになったのだろうか? I氏はこの件について以下のように説明してくれた。
「当時LF(ニッポン放送のこと)は、番組予算のカットを進めていたんです。予算が減るとまず切られるのはフリーの人間、つまり構成作家からなんです。そのことで上層部と大ゲンカになったそうです」最後は伊集院が「だったらやめさせてもらう」と、番組を降板する形となってしまった。
その後伊集院はラジオの活動をニッポン放送からTBSラジオにシフトしていくこととなる。
人気番組だがスタッフは続々パンク
1995年にTBSラジオへと移籍した伊集院は、深夜番組『深夜の馬鹿力』を開始。現在も続く名物番組となっている。
水を得た魚となった伊集院は、あっという間にTBSラジオの看板パーソナリティとなっていく。
深夜以外にも日曜日の昼ワイドなどで高聴取率を獲得。2003年には放送人として最高の名誉である「ギャラクシー賞」を受賞した。
日本でも屈指と言われるハイクオリティの番組を提供し続けてきた伊集院だが、やはり栄光の裏には影が付きものだ。というのも彼の番組に携わったスタッフは、かなりの割合でパンクしてしまい、やめていく者が続出していたそうなのだ。
ディレクターのS氏の話。「以前はとにかくダメ出しが多かったそうです。何十回も台本を書き直させてたみたいですよ。こっちは他の番組を何本も抱えているのにっていう話を何度も聞きました。なので伊集院の番組を担当することはステータスでもある反面、ハードだからやりたくないなんていう声もあったようです」
番組の人気の裏に、過労死寸前のスタッフの努力もあったようである。(文・編集部)オススメ書籍:『D.T.』[単行本](メディアファクトリー)/著:みうらじゅん、伊集院光
水を得た魚となった伊集院は、あっという間にTBSラジオの看板パーソナリティとなっていく。
深夜以外にも日曜日の昼ワイドなどで高聴取率を獲得。2003年には放送人として最高の名誉である「ギャラクシー賞」を受賞した。
日本でも屈指と言われるハイクオリティの番組を提供し続けてきた伊集院だが、やはり栄光の裏には影が付きものだ。というのも彼の番組に携わったスタッフは、かなりの割合でパンクしてしまい、やめていく者が続出していたそうなのだ。
ディレクターのS氏の話。「以前はとにかくダメ出しが多かったそうです。何十回も台本を書き直させてたみたいですよ。こっちは他の番組を何本も抱えているのにっていう話を何度も聞きました。なので伊集院の番組を担当することはステータスでもある反面、ハードだからやりたくないなんていう声もあったようです」
番組の人気の裏に、過労死寸前のスタッフの努力もあったようである。(文・編集部)オススメ書籍:『D.T.』[単行本](メディアファクトリー)/著:みうらじゅん、伊集院光
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