Plastic Treeが辿り着いた遠い国

Plastic Treeが辿り着いた遠い国
MVではアーティスト写真と同じ真っ黒な衣装を着て砂丘で歌うメンバーが映し出されている。
メインのアーティスト写真では真っ白な衣装だが、これは赤外線で撮影されたもの。赤外線の写真を撮るには、早朝を狙わなければならないらしい。
アーティスト写真を撮る段階ではMV撮影は予定していなかった。しかし、早朝から遠出をして、砂丘というシチュエーションが揃い、「せっかくだから」というその場のノリで撮影されたという。
そのせいか、MV自体は凝ったつくりのものではなく、遠景を演出しつつ衣装のままのメンバーが実演する、というものだ。
しかし「その場のノリ」というにはあまりに儚く、またゆらゆらとした危うげな色気がただよい、さすがに20周年を迎えたバンドだな、という印象。
早速、Plastic Treeの遠国の歌詞を少し覗いてみよう。
Plastic Treeの遠国
儚く色気のあるのは、歌詞もまた同様だ。モノクロームの危うげな色気が、ここでも遺憾なく発揮されている。
今回、アルバムの発表に際し、メンバーがひとり1曲ずつ請け負ってセルフライナーノーツを書いている。
「遠国」という曲について、有村は「曲をはじめて聴いたときに一枚のデッサンのような絵が見えて。そしてバンドで音を積み上げたり、それに言葉をつけていったりすると、空や風や光や湿度やらを感じとれるような具体的な風景画となり。」と語っている。
「遠国」の歌詞は一見すると恋愛について歌っているかのような印象だが、曲全体を聴くと、タイトルに表れているように、どこか遠い国で鳴っている美しい音色のようなイメージがわいてくる。
それは、たしかに「風景画」という表し方が一番しっくりとくるようだ。はじめ「デッサン」だったこの楽曲が、バンドとして音を重ねていくごとに、だんだんと加筆されて1枚の「風景画」として完成された。
その風景の一端は、前述したMVの中に、砂丘として表れている。歌詞の言葉やギター、ベース、ドラムの音色を聴いていると、まるで異国のおとぎ話を聴いているような、そんな風にも受け取れないだろうか。
「風景画」とはいいつつも、歌詞はしかし、やっぱり色気を感じさせると思う。その色気はあの真っ黒な衣装と相まって凄みを増している。
時には夢の中をただよっているような歌声が、艶やかなギターのノイズと重なり、幻想的な曲にしあがっている。
有村は続けて「あまりにも自然で理想的な曲の生まれ方」とも書いている。前作「剥製」というアルバムを発表した際は、メンバーの口から「バンドの最終形態」という言葉が多く語られた。
その「最終形態」から「ドア」を開いた結果のひとつが「遠国」であり、Plastic Treeとして、ひとつの到達点でもあるのだろう。
Plastic Treeのバンドとしての在り方、未来が示された1曲
「doorAdore」というタイトルは、メンバーの言葉を借りれば「バンドの次の扉 (door) を連想させる」、「バンドの音楽への敬慕 (Adore) を体現した」アルバムだ。
決して完成した曲だけに満足せず、次へのビジョンが明確に生まれている。
それはバンドにとっては結果論なのかもしれないが、それでも「最終形態」「理想的」「バンドの音楽への敬慕」という言葉の数々は、ただ場数を踏んだだけのバンドからは生まれないと思う。
「遠国」は、まさにそのようなバンドの在り方や、今のバンドの状態を、特に顕著に体現した、到達点であり次への道しるべなのだ。
そして私はそこに、一握の砂に混じった確実な色気を感じる。曲を聴いた人が、どのような感覚を砂の中から見つけ出すのか。
夢、幻惑、切なさ、暗さ、光、それらが全て合わさったとき、「遠国」は「風景画」として完成するのだろう。
TEXT:辻瞼

UtaTen

歌詞検索・音楽情報メディアUtaTen