森田童子、
そのミステリアスな魅力を
改めて『マザー・スカイ』で
感じてみませんか

『マザー・スカイ -きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか-』(’76)/森田童子
本名も素顔も明かすことがなかった
演歌、歌謡曲がシーンのメインストリームであったとはいえ、歌声と楽曲にあれだけの特徴があって、しかも決して大衆性がないわけではないものを、スタッフが積極的に情報発信しなかったとは考えられない。まぁ、それは今考えたら“考えられない”のであって、当時はそれが普通だったか、あるいは森田童子本人がその活動においてインデペンデントな精神を貫いたのか──彼女の情報が少ないのはそのいずれかだろうが、おそらく後者だろう(前者との合わせ技は十分あり得る)。
匿名性がその世界観を膨らませた
すっかり忘れていたが、2003年にドラマ『高校教師』の新作が放送されている。そこでも「ぼくたちの失敗」が起用されたのだが、ここでも彼女の姿勢は変わらなかった。この時、ベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』(2003年リリース)に「ひとり遊び」という楽曲が新録されたのだが、それでも本人が直接メディアに露出することはなかったのだから完全に徹底していたのだろう。もっとも、この時期は彼女自身、精神面も身体面も優れていなかったというから、そうした側面の方が強かったのかもしれないが──。しかし、こうしたほぼ匿名性とも言える森田童子の立ち位置は彼女の音楽性を際立出せた。変なバイアスがかかることがなく、純粋に楽曲、作品の世界観を膨らませることに大きく寄与したとも言える。
稀代という形容が相応しい歌声
不穏な空気が横たわる歌詞世界
《春のこもれ陽の中で 君のやさしさに/うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ》《君と話し疲れて いつか 黙りこんだ/ストーブ代わりの電熱器 赤く燃えていた》《地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた/悪い夢のように 時がなぜてゆく》《ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな/チャーリー・パーカー 見つけたヨ/ぼくを忘れたカナ》《だめになったぼくを見て/君もびっくりしただろう/あのこはまだ元気かい 昔の話だネ》(M1「ぼくたちの失敗」)。
《ぼくは 弱虫だった》《変れないぼくたち》《悪い夢のように》《ぼくがひとりになった 部屋》《だめになったぼく》とネガティブワードが並ぶものの、そこには具体性がない。そうかと思えば、《ストーブ代わりの電熱器》とか、《地下のジャズ喫茶》とか、《チャーリー・パーカー》とか、この物語の手掛かりとなるかのような言葉が散りばめられている。森田童子の創作の背景には1970年代の学生運動が根差しているというが、そのことをまったく知らなくても、物語の全体の横たわる不穏な空気と、何かの終焉は伝わってくる。意味深長な印象は強い。
歌詞にはショッキングな内容も
《淋しい ぼくの部屋に/静かに 夏が来る/汗を流して ぼくは/青い空を 見る/夏は淋しい 白いランニングシャツ/安全カミソリがやさしく/ぼくの手首を走る/静かに ぼくの命は ふきだして/真夏の淋しい 蒼さの中で/ぼくはひとり/真夏の淋しい 蒼さの中で/ぼくはひとり/やさしく発狂する》(M4「逆光線」)。
《夜汽車にて/ふと目をさました/まばらな乗客 暗い電燈/窓ガラスに もう若くはない/ぼくの顔を見た/今すぐ海を 今すぐ海を/見たいと思った》《ある日 ぼくの/コートの型が/もう古いことを 知った/ひとりで 生きてきたことの/寂しさに 気づいた/行き止まりの海で 行き止まりの海で/ぼくは振り返る》(M6「海を見たいと思った」)。
M1「ぼくたちの失敗」以外の楽曲でも、《伝書鳩が帰ってこない》やら、《安全カミソリがやさしく/ぼくの手首を走る》やら、《行き止まりの海で 行き止まりの海で/ぼくは振り返る》やら、文字通り、行き止まりで、先の見えない状態が示唆されている。本作の収録曲は歌詞だけを見たら、そんなショッキングな内容も目を惹く。
世界観を増幅するかのようなサウンド
また、演出家でもあるJ・A・シーザーが手掛けたM9「春爛漫」、M10「今日は奇蹟の朝です」の後半2曲のアレンジも興味深い。冒頭でデビュー時の森田童子を当時のフォークシーンと絡めて語ったが、メロディーの質とアコギ中心のバッキングからすると(少なくとも当時は)やはりフォークに近いというだけであって、この2曲だけ聴くと、この人の本質はロックだったのだと痛感する。M9「春爛漫」はバイオリン、フルート(多分)、ドラムのマーチングビート、ギター、ベースがゴチャッと重なっていくサウンドと、オペラチックで、どこかソウルフルなコーラスワークが大変面白い。M10「今日は奇蹟の朝です」はドラマチックなバンドサウンドがスリリングに重なって展開するプログレと呼んでいいナンバー。歌詞と相まって、えも言われぬカタルシスを生んでいる。懐が深い。
後ろ向きさを包括した慈愛に満ちた作品
《もしも君が すべていやになったのなら/ぼくと観光バスに乗ってみませんか/君と 今夜が最後なら トランジスターラジオから流れる/あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい》(M2「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」)。
《悲しいときは頬を寄せて/寂しいときは胸をあわせて/ただふたりは目を閉じて/眠るのを待っていました/そんな寂しい愛の形でした》(M5「ピラビタール」)。
M10「今日は奇蹟の朝です」の歌詞はその極みであろう。
《不幸な時代に僕たちは目覚めた/八月の海はどこまでも青い/今日は気持ちのいい朝です》《白い雲が流れる/もうすぐ夕立/僕たちは奇跡を待っています/今日は奇跡の朝です》《八月の海は悲しみいっぱいに/いま聖母マリアが浮上する》(M10「今日は奇蹟の朝です」)。
《不幸な時代》と嘆くだけでなく、《僕たちは奇跡を待っています》と事態が変化することを望む姿を綴っている。海の青さ、雲の白さをそこに重ねているのだから、その奇跡とは、何かが好転する方向だろう。しかも、《いま聖母マリアが浮上する》と締め括っているのだから、そこにあるのは慈愛の心であることは間違いなかろう。加えて──これは森田童子の楽曲における大前提だが、歌メロもやさしい。フォーキーだが尖っておらず、民謡や童謡のようなノスタルジックさも併せ持つ。よって、歌詞にネガティブワードがあっても総体的な聴き応えとしては、決して後ろ向きな印象を残さない(逆に言うと、メロディーがやわらかいからこそショッキングなフレーズが際立つという効果があるとも言えるが…)。そこに“救い”のある気がしてくる。とても奥深い作品なのである。
TEXT:帆苅智之