愛弟子 佐渡裕がトーンキュンストラ
ー管で21世紀に蘇らせる「1950年代の
バーンスタイン」

作曲家としてのレナード・バーンスタイン
 レナード・バーンスタインがこの世に生を受けて、今年(2018年)で100年が経つ。存命中、指揮者として頂点を極めた存在でありながら、作曲家としては賛否両論。しかし、それが今ではどうだろう。《ウエストサイド物語》の〈シンフォニック・ダンス〉や、《キャンディード》の〈序曲〉は、戦後に作曲されたオーケストラ作品のなかで特に演奏されることの多い楽曲だといえるだろうし、《ミサ》のような演奏が困難な規模の大きな作品でさえも、この1年ほど世界各地で上演されている。作曲家バーンスタインの評価が、着実に地盤を固めつつあるのは間違いない。
 こうした変化を見ていて思い出すのは、1960年代のマーラー・ルネッサンスである。バーンスタイン同様、生前は指揮者としての名声の高さに比べると作曲家としては思うような評価を得られなかったマーラーだったが、1960年に「生誕100年」を迎えた頃から徐々に風向きが変わりはじめる。作曲家としての再評価が世界的に進み、オーケストラが日常的に取り上げるレパートリーへと変化していったのだ。まさにその立役者となったのが、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団と世界で初めて「マーラー:交響曲全集」をレコーディングした、バーンスタインその人であったのは広く知られている通りである。
 「指揮者バーンスタイン」の尽力もあって「作曲家マーラー」に新たな光がふり注いでいった1960年代。しかしながら「作曲家バーンスタイン」にとっての1960年代は真逆で、人生のなかで最も実りが少ない時期であった。
「いくつもの活動のなかから、一つだけを選択することは不可能である」
 さかのぼること1941年。学業を終えたバーンスタインは作曲家、指揮者、ピアニストとしての活動を並行して続けながら、アルバイト仕事によってかろうじて生計をたてている状況だった。そんな状況を変えるきっかけとなったのが1943年に就任したニューヨークフィルの副指揮者のポストである。そして着任して間もない11月14日、日曜日。事件が起こった。巨匠ブルーノ・ワルターが急病のためキャンセルした演奏会で、副指揮者バーンスタインがリハーサルせずに代役を務め上げたのだ。この演奏会はラジオで生放送されたため――作曲家としては幸か不幸か――、一夜にして名を広く知られることとなった。
 そして同じ年、ある男がバーンスタインのもとを訪ねている。のちに《ウエストサイド物語》を共作することになる振付家ジェローム・ロビンズだ。ロシアバレエ団の伝説的ダンサー、フォーキンに師事したロビンズは、自作のバレエ《ファンシー・フリー》の作曲をバーンスタインに依頼。すぐに意気投合したふたりは1年もしないうちに公演開幕までこぎつけ、メトロポリタン歌劇場での入場者記録を更新するほどの大成功を収めた。そして舞台作品の成功は、交響曲やソナタとは比較にならないほどの大きな収入を、バーンスタインにもたらすことになる。
 こうして1940年代半ばのバーンスタインの目の前には「指揮者」と「作曲家」、2つの道がほぼ同時に拓けてしまった。この問題に対して、バーンスタイン自身は次のように考えていたという。

私にとって、オーケストラの指揮、交響曲の作曲、劇場用音楽の作曲、ピアノ演奏といういくつもの活動のなかから、一つだけを選択することは不可能である。〔中略〕指揮者としての活動に没頭している間は、一切作曲には手を付けないし、ベートーヴェンの《第9交響曲》を指揮するためには、ポピュラー・ソングでさえ書かないようにしている。
岡野弁 訳『バーンスタイン わが音楽的人生』(作品社,2012)

 1940年代から50年代にかけてのバーンスタインが、指揮と作曲のどちらかを切り捨てることなく、すべてを並列で取り組もうとしていたことが分かるだろう。しかし、複数の異なるものを同時進行で進めることが出来ないということも、彼自身は重々承知していたのだ。
 実際、1950年代のバーンスタインは、作曲のために指揮の予定を削ることもあった。だから、作曲の時間をただでさえ、充分に確保できないことに苛立っていたバーンスタインが「主たる目的が目立たないことにある音楽を書くなど、作曲者としての音楽的野心を満足させられる経験とはいえない」と考えていた映画音楽の依頼を引き受けるはずもなかった……。
生涯唯一の映画音楽《波止場》
 映画プロデューサー、サム・スピーゲルからの依頼が来たときも全く同じ状況だった。しかしスピーゲルに根負けしてラッシュ・フィルムを観たバーンスタインは度肝を抜かれることになる。それまでの映画とは異なるリアルで自然な演技をみせる若き主演男優に引き込まれてしまったのだ。
 これが、その年のアカデミー賞で8冠を勝ち取った映画《波止場》(1954)とバーンスタインの出会いであった――もちろん、主演は当時30歳のマーロン・ブランドである。
 映画の翌年には、オーケストラのコンサートで演奏できる交響組曲《波止場》(1954/55)へ仕立て直している。組曲と銘打ってはいるものの、すべて切れ目なく演奏されるので実際は「交響詩」に近い。そして実に興味深いのは《ウエストサイド物語》を思わせる音楽が既にこの時点で繰り広げられていることだ。全く異なる物語のようでいて、社会に翻弄される男女の愛というプリミティブなプロットが共通する本作は、《ウエストサイド物語》の音楽をより深く味わうヒントにもなるであろう。
映画《波止場》予告編

30年にわたる試行錯誤《キャンディード》
 《波止場》を引き受けてしまったがために、作曲のスケジュールがずれこんでしまったのがオペレッタ《キャンディード》(1956/89)である。おそらくバーンスタインの作曲家人生のなかで最大の難産となった作品だ。台本作者がなかなか決まらず、作曲が難航。一度、完成したあとも改訂を施したり、上演ごとに手を加えてみたりと、30年以上にわたって決定版ができなかった作品であった。
 しかし、あくまで問題になっていたのは舞台作品としての全体構成にあったから、有名な〈キャンディード序曲〉をはじめ、煌めくようなアリアや合唱曲といった個々の楽曲の素晴らしさが揺らいだことは一度もない。序曲は現代版《フィガロの結婚》といっても良いかもしれない。弟子の指揮者、佐渡裕にとっても師の作品のなかで最愛の楽曲だというのも納得の名曲だ。そもそも、それだけ手をかけているということはバーンスタイン自身にとっても思い入れの強い作品であったのは間違いないだろう。
佐渡のバーンスタインアルバム収録の模様

生涯前半の集大成《ウエストサイド物語》
 こうして苦労を重ねながら、作曲家として舞台作品を手がける技術を磨いていった先にミュージカル《ウエストサイド物語》(1957)のような傑作が生まれるのは、もはや必然だったとも言えるだろう。前述したように振付家ジェローム・ロビンズとの出会いから始まった舞台作品の創作は、またもやロビンズからのアイデアによって生まれた《ウエストサイド物語》により、バーンスタインの人生前半における集大成的作品となったのだから。
 《ウエストサイド物語》が、どれほど大きな成功を収めたかをわざわざ説明する必要はないだろう。1961年には映画化され、その年のアカデミー賞で10部門を独占した。音楽が脇役であった《波止場》と違い、《ウエストサイド物語》では音楽が中心に位置していたから、普段は舞台やオーケストラに触れる機会がない人々にもバーンスタインの音楽はより知られるようになっていった。加えて、この映画公開にあわせたかのように、ウエストサイド物語の名場面をつなぎ合わせた管弦楽曲〈シンフォニック・ダンス〉(1957/61)が編み直され、オーケストラのレパートリーとしても演奏されるようになった。
映画《ウエストサイド物語》予告編

指揮者としての活躍の裏で……
 多忙を極めながらも、いかに1950年代のバーンスタインが充実した創作活動を繰り広げていたかは、こうした一端からも充分に伝わるであろう。では何故、60年代になると創作が停滞してしまったのか。
 1957年11月20日、水曜日。史上初めてアメリカ人のバーンスタインを音楽監督に迎え入れることを、ニューヨークフィルが発表した。それまでの指揮仕事とは異なり、楽団の運営まで携わる音楽監督の責任は客演する指揮者とは全く異なっていた。1958年1月18日、土曜日。テレビ番組「ヤング・ピープルズ・コンサート」の放送がはじまった。これまでクラシック音楽に興味がなかった層にも、テレビを通して希求していくこととなり、バーンスタインの名声は広がる一方に。ただし、バーンスタイン自身が台本や演出にも直接関与しているため、1回の番組制作にかかる負担はかなり大きい。不定期ではあったが、1972年まで放送が継続している。
 もちろん、その他にも様々な仕事が舞い込んできた。その結果として作曲のスケジュールを優先することが徐々に難しくなっていったのだ。事実、1960年代に計画されていたミュージカルの制作は未完のまま頓挫してしまっている。
 こうして、バーンスタイン自身にとっては不本意ながら「ウエストサイド物語の作曲家」というイメージを更新できぬまま1960年代を過ごしてしまった。当然「バーンスタインといえば指揮者」というパブリックイメージは強まり、1970~80年代に再び作曲活動に力をいれるようになってからも、そのイメージを覆すまでには至らず。バーンスタインは1990年10月14日に、72歳でこの世を去っている。
バーンスタインが遺してくれたもの
 冒頭でも記した通り、生誕100年を迎える2018年、バーンスタインの「遺産」に改めて注目が集まっている。彼が残したのは何も作品だけでもないし、指揮者としての録音だけでもない。バーンスタインが生涯にわたって若い音楽家の育成に力をいれていたことを忘れてはいけないだろう。現在も毎年、北海道で開催されている国際音楽教育祭PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)は、バーンスタインが最後に遺した教育的遺産といえる。
 小澤征爾大野和士、大植英次、佐渡裕など、薫陶をうけた日本人指揮者が多いのも有名だ。なかでも佐渡はこの1年間で最も師の作品を取り上げようとしている弟子のひとりだろう。1月にはアメリカ、2月にはドイツ、3月にはフランス、4月にはオーストリア、そして5月には日本で……と、世界各地でバーンスタイン作品の演奏をおこなっている。なぜ、これほどまでに佐渡は師の作品にこだわるのか、次のように語っている。

“バーンスタイン生誕100周年”は、僕の中では「彼への恩返し」をする時という強い思いがある。彼に出会うことができた一人として、彼の作品の素晴らしさ、音楽の面白さを今こそ、そして生涯伝えていきたいと思っています。

いまの自分があるのは師のお陰である……その強い思いを胸に、誰よりも強い愛情をもって、バーンスタインの作品に生涯を賭して取り組む佐渡。手兵トーンキュンストラー管弦楽曲(略称:トンク管)を従えた凱旋公演(北は北海道、南は福岡まで!)を聴き逃すわけにはいかない。
【佐渡裕指揮 トーンキュンストラー管弦楽団】予告ムービー到着!

佐渡裕さんからコメント動画到着!!

文=小室敬幸

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