青年座劇場最終公演『砂塵のニケ』の
演出家・宮田慶子「未来に向かって、
勇気を持って砂塵にでも向かっていく
気で一区切りつける」

常に新しい創造の場であり続けた代々木八幡の劇団青年座「青年座劇場」が、この3月で観客を入れて公演を行う場としての歴史に幕を降ろすことになった(稽古場としての機能はしばらく継続)。劇団の稽古、作品創作、結婚式にたくさんのお葬式なども行われた、劇団員の思い出が染み込んだ空間。そこでの締めくくりの作品『砂塵のニケ』を演出するのは、今夏まで新国立劇場の芸術監督を務める宮田慶子。青年座では初登場となる、演劇ユニットてがみ座の劇作家・長田育恵が、美術修復を行う若い女性の物語に、生まれる、引き継がれるをテーマに、DNAや遺伝子などの視点を入れて書き下ろした。
暗闇に先輩たちがみんないて、下手な芝居を打ったら怒られそう。
ーー青年座劇場での公演が最後になるそうですね。
宮田 そうなんですよ。もう50年なんです、使い始めて。このマンションができたときから1階にスタジオを入れていただいているんです。劇場が入っているマンションなんて、すごいですよねぇ。立地や規模からいっても今後こんなことは民間じゃできないですよ。
ーー宮田さんはこのスタジオにどんな思い出がありますか?
宮田 もちろん青年座で育った演出家ですから、養成所のときから使ってます。20歳からここにいるんです。青年座研究所の4期生だったんですけど、「演出志望です」と言ったら「うちは演出コースないよ。でも俳優と一緒に勉強するのは無駄にならない」って。1年目はサーカス小屋のようなトレーニングだった(笑)。俳優と一緒に身体を動かしたり、日舞では着付けや所作も叩き込まれた。それが今ものすごく役に立ってる。私は鈴木完一郎さん、高木達さん、五十嵐康治さんの演出助手を務めながらチョイ役で出演もしつつ、この劇場の袖の暗闇を走り回って修行を積みました。もう隅から隅まで知り尽くしたホームグラウンドです。
ーー宮田さんが青年座を選んだ理由は?
宮田 学生のときにすでに演出してきてたから、現場で学んだ方が早いぞと思って劇団を見て回ってたんですけど、ちょうど鈴木さんとか篠崎光正さん、高桑徳三郎という当時30代の演出家が、すごく元気に、新劇とは思えないアングラな芝居をここでやっていたんですよ。こんなに演出家を伸び伸びやらせてくれのは良い劇団に違いないと(笑)。それでここを受験したんです。
ーーでも文学座もアトリエは充実していたんじゃないですか。
宮田 うん、でも大先輩たちがしっかりしてらしたから。ここは隙がいっぱいあった(笑)。
自腹を切ってのスタジオ初演出は先輩たちの助けを借りて
ーー本格的にここで演出をされた作品というのはなんでした?
宮田 青年座では、演出家は自分でスタジオ公演を企画して自腹でやらないとデビューさせてもらえないんですよ。だから4年間コツコツ裏方仕事をして、暇な時はバイトをしながら貯めた30、40万を握りしめて製作部にお願いに行きました。お金がなくて作家の脚本を借りることもできないから、自分で書いてね。
ーーおぉ!
宮田 デビュー作は自分で書いているんですよ。そして俳優さんやスタッフさんに「お金はほとんどないと思いますが、よろしくお願いします」と頭を下げに行くと、先輩たちは「しょうがないよ。いいよ」と皆さん力を貸してくださった。『ひといきといき』という作品で、すごく面白かったんですよ(笑)。まぁ文学少女だからさ、老人ホームの話だけど。照明のスイッチのオンオフは山路和弘さん(俳優)が手伝ってくれたなぁ。そういう皆さんの力のおかげで「まぁいいんじゃないか」とやっと一人前として認めてもらい準劇団員から劇団員になったわけ。そこから劇団の仕事もさせてもらえるんです。スタジオ公演を何本かやったころに、劇団の財産演目になっている『ブンナよ、木からおりてこい』を任されたんです。第一次ブンナは篠崎さんの演出で、私はそれが大好きだったから、自分でやる限りはなぞってはいけないからと、傲慢にも原作者の水上勉先生ご自身に脚本を書いてほしいって言ったんですよ。
ーーいきなりすごい話になってきましたね。
宮田 無謀よね。ところが先生がのらりくらりとちっとも書いてくれない。稽古開始の2週間前になっても本は上がってこず。製作部の水谷内さんに「先生にくっついとけー」と言われて、京都へ飛んだの。先生の書斎の玄関脇の四畳半に泊まり込んで脱走しないように見張りつつ、先生のごはんを3食作ってました。夜になると息抜きを兼ねて飲み屋に連れて行ってくださって。たしか台本の最終稿は若州一滴文庫でいただいたんじゃないかな。残り数枚が書けないのに、一滴文庫の開場準備でバタバタしているのを見て「書く気あるのかな、この先生」と思った。オープン当日、夜を徹して囲炉裏端で酒盛りをしながら「こいつが見張ってるんだよ」と言うんですよね。その中には中上健次さん、宮本輝さん、都はるみさんがいらした。私はお燗番して、へしこ鯖を囲炉裏で焼き。その翌々朝くらいかな、原稿をいただくと新幹線に飛び乗って読み始めたんだけど水上先生の字、独特すぎて読めないのよね(笑)。この経験は最高の宝物です。
名コンビ誕生の舞台もここで誕生
『MOTHER -君わらひたまふことなかれ』(2008)
ーーこうやって一つ一つ聞いていくと全部聞きたくなるんですけど、そうもいかないので、もう一つくらいポイントになる思い出を教えてください(笑)。
宮田 実は『ブンナ』のあと、私は全国をめぐる学校公演担当になったんです。でも外では演出家として加藤健一事務所の『セイムタイム・ネクストイヤー』を皮切りに忙しくなっていく。なのに青年座では私に本公演をやらせる気がないのかと思うくらい声がかからない。私はそのころを“暗黒の10年”と言うんですけど(笑)。そのエネルギーが溜まりに溜まって、まだ京都で活動していたマキノノゾミに声をかけ、『MOTHER 君わらひたまふことなかれ』を書いてもらったんです。
ーーその後に宮田・マキノのコンビで名作を生み出していくわけですけど、マキノさんとの出会いは大きかったんですね?
宮田 そうですね。小劇場には同世代がいっぱいいる。野田秀樹さん、渡辺えり子さん……。みんな作・演出をしていたけど、私は劇団育ちとして台本へのリスペクトがあるからこそ演出ができるというポリシーがあったんですね。それで自分が信頼できる同世代の書き手をずっと探していたんです。それでマキノ氏に出会ったわけですけど、彼の頭の中がまたいい感じに古風じゃないですか。それでいて新しいぶっ飛んだ感覚もあった。私はこれは信じられると。だからもし「こんな小劇場っぽい芝居やれるかよ」と青年座で受け入れてもらえなかったら劇団を辞めようと思ってたもん。公演の初日パーティで、「宮田、苦節13年、本公演の演出デビューです」と言ったらみんなが「え、うそ?!」って。「うそじゃねーよ。お前らどれだけ人を下積みさせておくんだ」と怒った(笑)。
この作品は若い世代へバトンをつなぐ意味もある
『砂塵のニケ』稽古場より
『砂塵のニケ』稽古場より
ーーさて、スタジオがなくなるという話はいつごろ聞いたんですか?
宮田 2年くらい前。東日本大震災以降どのマンションも耐震検査が入って。逆に言えば震災でタイルがちょっとずれたくらいだから、このマンションは頑丈だった。夢としては劇団一同ここは離れたくないと思っているんだけど、いずれは持ち上がる話ではありますからね。とはいえ青年座はやっぱりこの空間があってこそ。ものづくりをする空気はものすごく大事。そしてここは常に先輩たちに見守られている感覚がすごくあるんです。暗闇に先輩たちがみんないて、下手な芝居を打ったら怒られそう。みんなここで稽古して、泣いて笑ってきたからね。
 この時期は私が演出をやらせていただく時期として予定が空いていたこともあるけど、強引に「もし私で務めさせてもらえるんなら最後の締めをやりたい」とお願いしたんです。演出家たちは「また宮田が」と思ってるかもしれないけど。その代わり恥ずかしくない芝居をつくらなきゃなぁと思います。でも集大成をやろうというんじゃなくて、通過点をきちんと打てたらいいなと思っているんです。本当に若い仲間も育ってきていますし、今回の主役を務めてくれる那須凜を始め、ね。
ーー元青年座の那須佐代子さんの娘さんですね。
宮田 凜はそれこそおしめしてヨチヨチ歩きのときからスタジオに出入りしてましたからね。そういう子が舞台に立ってくれるようになって、メインを張るのは座内的には次の世代にバトンタッチしていくということを実感として思いますから。
『砂塵のニケ』稽古場より
ーー長田育恵さんはどういう理由で起用されたのですか?
宮田 すごく力のある、しかも知的でデリケートな仕事をする女性が現れたとは思っていたんです。お会いしてみると、物腰の柔らかな穏やかな、丁寧に一つずつ物事を言語化していく安心感があった。いろんな話をして、それでせっかく女同士なので母と娘、女の生き方をやりたいねって。それで昨今は仕事を一生懸命して気がつくと子供を産めない年齢になってしまう女性も多いし、子供って産んだ方がいいのか産まない方がいいのかみたいな話や、命をつないでいく遺伝子の問題とかいろいろ話しました。彼女は遺伝や体外受精の問題を勉強して、私は母と娘って面倒くさいよねなどと、二人でアイデアを出し合いながら、同じ道、同じ分野を目指してしまう母と娘の面倒くさい関係はどうだろうということになりました。そのときに、長田さんはニケの彫刻、腕をもがれた勝利の女神に、傷つきながらも立ち向かう女性の姿を重ね合わせていて、じゃあニケが出てくる話にしますということで進んでいったわけです。増子倭文江と那須凜が演じる母娘の話です。
ーーそこにスタジオへの思いが見えてくるかもしれないですね。
宮田 そうですね。また未来に向かって勇気を持って砂塵にでも何にでも向かっていく気で一区切りできればいいなとは本当に思います。青年座はかつては女優劇団と言われるくらい怖いお姉さんたちがいっぱいいたんです。実は女性たちがのびのびと天然の方が劇団は元気なので、そういう空気が出てくるといいなぁと思ってます。繰り返しになりますが、最後に恥じないような作品を目指します。
《宮田慶子》演出家。1980年、劇団青年座(文芸部)に入団。83年青年座スタジオ公演『ひといきといき』の作・演出でデビュー。翻訳劇、近代古典、ストレートプレイ、ミュージカル、商業演劇、小劇場と多方面にわたる作品を手がける一方、演劇教育や日本各地での演劇振興・交流に積極的に取り組んでいる。2010年9月に新国立劇場芸術監督に就任(任期は2018年8月)。16年4月より新国立劇場演劇研修所所長。
取材・文:いまいこういち
『MOTHER』の写真の左に写っているのは先日お亡くなりになった大家仁志さんです。大家さんは宮田・マキノ作品の常連でした。このインタビューを大家さんに捧げます。

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