きっと自分の人生をほんの少し好きに
なれるーー『99才まで生きたあかんぼ
う』ゲネプロレポート

辻仁成原作・脚本・演出による舞台『99才まで生きたあかんぼう』が幕を開けた。0才から99才までの人生を、村井良大、松田凌、玉城裕規、馬場良馬、松島庄汰、松田賢二という6人の俳優たちによって描くという試みが、開幕前から大きな話題を呼んでいた本作。99年という生涯を、たった6人でどうやって具現化するのか。期待の視線が注がれていたが、2月22日(木)の初日に先駆け、同日行われた公開ゲネプロで、いよいよその全貌が明かされた。そこで私たちが見たものは、演劇だからできる想像と幻想の世界。コミカルでありながら、ほろ苦く儚い人間賛歌が、今ここに誕生した。
(左から)松田賢二、馬場良馬、松田凌、SUGIZO、辻仁成、村井良大、玉城裕規、松島庄汰
あなたの「過去」と「今」と「未来」が、ここにある
あなたは今までの人生を振り返ったとき、どんな場面を思い出すだろうか。友人にからかわれ、悔し涙を瞳いっぱいに溜めて帰った夕暮れの家路。初めて好きになった人のほくろの位置。性の目覚めに対する罪悪感。言いようのない怒りをいつも抱え込んでいた制服の頃。故郷を離れる日の朝のしんとした空気。初めてセックスをしたときの、肌が破けそうになるくらいの緊張と興奮。最後に食べたお母さんのオムレツの味。
そんな断片的な景色が、作品とともに記憶の底からふっと沸き上がってくるようだった。舞台で描かれるのは、ある男の0才から99才までの人生。もちろんそれは自分自身の人生とはまったく別のお話なのに、不思議と舞台上方に設えられたカウンターが、1才、また1才と年齢を更新するたびに、自分自身の記憶の絵本を、1ページ、また1ページとめくっていくような感覚を覚えた。
そして面白いのが、最初はずっと過ぎし日々のことを見つめているつもりだったのに、やがて自分の年齢を超えた瞬間、それはいつか訪れる未来のイメージへと変わっていくのだ。
(左から)玉城裕規、馬場良馬
この記事を読んでいるあなたは、今、いくつだろうか。少なくとも0才よりは年上だろうし、恐らくだけど99才よりは年下だろう。つまり、本作の中で綴られるどこかに、あなた自身の「過去」も「今」も「未来」も織り込まれている。
だからこそ、自分が今どこに立っているかで、この作品の見え方は大きく変わってくるのかもしれない。ある人は、まだ見ぬ未来に想いを馳せ、眩しさを感じたかもしれないし、ある人はかつて自分が犯した過ちを見ているようで胸が苦しくなったかもしれない。見た人の数だけ、見え方がある。そんな多層的な作品だ。
(左から)松島庄汰、村井良大
主人公のあかんぼうは、故郷を離れ、料理人を目指し、やがて家庭を得て、世界的シェフとして成功をおさめていく。だけど、人生はいくつものハッピーエンドとアンハッピーエンドの積み重ねだ。人よりほんの少しの努力と笑顔で、人生をより良いものにしてきたあかんぼうも、やがて自分の力だけではコントロールできない時代の波や人の思惑に翻弄され、傷つき、笑顔と勇気を失っていく。
決して彼はスーパーマンではない。自暴自棄になって、過ちを犯し、周りの人を傷つけてしまうこともある。初々しさを忘れ、尊大な態度を振る舞うこともある。それもまた人間らしさ、というものだろう。
(左から)松田凌、村井良大
そうやって年齢を重ねていきながら、やがて大切な人を喪っては、また新しく大切な人を見つけていく。身の回りにいる人たちの顔ぶれも、10才のときと、30才のときと、50才のときと、80才のときではまったく違う。人はみな、そのときどきの環境の中で、誰かを愛し、何かを守って生きていくのだ、と教えられているような気持ちになる。
(左から)馬場良馬、松田賢二
だからこそ、彼が99才を迎えたとき、最後にいちばんそばに残ったものを見て、いつか迎える自分のそのときを想像せずにはいられなくなった。この結末を温かいと感じる人もいれば、切ないと思う人もいるだろう。でも、それがいい。人の人生なんて、そう簡単に他人が決めつけたり評価できるものではない。幸せのカタチだって、人それぞれだ。
ただひとつ言えることは、人生というものはそれだけで美しいものなのだ、ということ。生きるということは、困難で、残酷で、それでも素晴らしいものなのだ、ということだけだ。そんな希望と祝福を、この作品は観客に届けてくれる。
(左から)玉城裕規、松島庄汰
想像力と技術で、未知の世代を生きていく
演じる6人の俳優も、柔らかな遊び心と想像力をもって、この世界を体現した。
主人公のあかんぼうを演じる村井良大は現在29才。つまり、彼にとっては29才までの人生は、自らの経験をベースに膨らませることができる。だが、その先は完全な未知の世界だ。映像なら最新の特殊メイクを用いて、その容貌を限りなく壮年、さらに老年へと近づけることはできるかもしれない。だが、ノンストップで進行する演劇の世界では、青年から壮年、そして老年へと移行するにあたって、鬘や眼鏡など最低限の衣装や小道具でしか補うことはできない。あとは、村井自身が、おしゃぶりをつけたあかんぼうから、現年齢の3倍以上の年齢を、この2時間で演じ分けていくしかない。それは、俳優として相当な技術と想像力が求められる。
村井良大
だが、村井はやってのけた。特に、老年期に入ってからの演じ分けが非常に繊細だ。極端な話をすると、5才と70才ならほとんどの俳優は演じ分けることにそれほど苦労はしないだろう。だが、70才と80才の違いを表現するのは、デリケートな技術を要する。
村井は、まず50代の頃から声質に変化を加え、60代に差しかかってからは腰を少し落とし、重心を低くすることで、ひと回り身体を小さく見せた。さらに70年代以降は腰を曲げ、発話もよりゆっくり、かすれ声を交えながら、老いを細かく表現していく。非常に困難な70才から99才までのグラデーションを、反応速度の違いや、目の力など、随所に工夫を凝らし、見事に表現した。
ずっとスマイルを大切にしてきた男が、その生涯を終える瞬間に見せた最後のスマイルは、圧巻の一言。そこに、この男の人生のすべてが凝縮されていた。
(左から)村井良大、松田凌
あかんぼうを取り巻く俳優たちもいい。それぞれ年代によって様々な役を演じ分けるが、松田凌は、主にあかんぼうの妻を演じる。もともと端正な顔立ちの俳優ではあるが、これだけ女性役がぴたりと映えるは、彼自身の「受け」の芝居によるところが大きい。
(左から)村井良大、松田凌
性別の違いを表現するのは、決してウィッグやスカートではなく、相手に対する反応だ。村井を見る視線、抱きしめられたときの身の預け方、手の置く位置。そんな些細なリアクションで、男のそれか、女のそれかが明確になる。松田凌は、常に村井に対し母性をたたえた眼差しを注ぎ、普段よりもずっと柔らかな仕草で彼を受け止めた。だからこそ、彼が男であることは観客なら誰もが承知しているのに、相手役の村井と寄り添うと、ちゃんと女性に見える。妻に見える。いつの間にかごく自然にヒロインとしての松田凌を多くの人が違和感なく受け入れてしまっているのだ。この懐の深さが、演劇の面白さだろう。
(左から)松田凌、村井良大
それは、同じく女役を演じた玉城裕規にも言える。玉城が主に演じたのは、あかんぼうの母。この母は、後にあかんぼうの生涯を決定づけるお手製オムレツをつくった張本人。息子に美味しい御飯を食べさせてあげることに喜びを感じる家庭的な女性だ。
(左から)村井良大、玉城裕規
見せ場となるのは、あかんぼうが夢を目指し、家を出ていくシーン。目に光るものをたたえながら、小さくなっていく息子の背中にエールを送る表情は、まさしく母のそれだった。玉城本人の持つ艶やかさが品となり、優しくも芯のある女性像を形づくっていた。
玉城裕規
主に娘役を演じた馬場良馬、主に息子役を演じた松島庄汰、主に娘婿役を演じた松田賢二もそれぞれに印象深い。6人だけとは思わせない、少人数ながら盤石の布陣だった。この物語がどこか寓話性を持っているのも、6人の男性だけで演じきったところにあるだろう。これがアンサンブルを入れ、女性役は女性が演じていたら、もっと俗っぽい生々しいものになっていたはずだ。だが、6人の俳優だけで演じることで、国境も時代も超えた、とびきり優しいファンタジーとしてこの作品は産声をあげた。
(左から)松田凌、村井良大、馬場良馬、松田賢二
舞台『99才まで生きたあかんぼう』の東京公演は3月4日(日)まで。その後、愛知、福岡をめぐって、3月24日(土)、梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティにて、この物語はひとつの結末を迎える。生きるとは何か。死ぬとは何か。辻仁成が贈る人生賛歌をぜひ味わってほしい。

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