映画『あゝ、荒野』は菅田将暉の代表
作となりうるか?

映画『あゝ、荒野』が公開され、各所で話題を呼んでいる。
寺山修司が残した唯一の小説が原作であることや、主演に菅田将暉と映画『息もできない』でカルト的人気を誇る韓国のヤン・イクチュンを迎えたこと。さらに前後編通して5時間の大作ということなど、公開前から注目ポイントの多かった。実際、どんな映画なのか?
まずは予告編をどうぞ。
(映画『あゝ、荒野』予告編)

あらすじはこちら。

ふとしたきっかけで出会った新次とバリカン。 見た目も性格も対照的、だがともに孤独な二人は、ジムのトレーナー・片目とプロボクサーを目指す。 おたがいを想う深い絆と友情を育み、それぞれが愛を見つけ、自分を変えようと成長していく彼らは、 やがて逃れることのできないある宿命に直面する。 2021年、ネオンの荒野・新宿で、もがきながらも心の空白を埋めようと生きる二人の男の絆と、 彼らを取り巻く人々との人間模様を描く、せつなくも苛烈な刹那の青春物語。 (『あゝ、荒野』オフィシャルサイトより抜粋)

ゆるいつながりか?死ぬまで殴り合うか

原作は1964〜1965年に雑誌で連載された寺山修司による小説。当時の時代背景をかなり反映していて、政治状況や新宿の街の様子、流行歌など様々な風俗がてんこ盛り。
(寺山修司『あゝ、荒野』)

映画版の設定は2021年の新宿。同じ街を舞台にしつつも現代版にアップデート。東京オリンピック後に発生するであろう経済問題、介護問題、徴兵制議論、SEALDs以降のデモ行進、3.11の影響、ドローンなどの小道具の使用、歌舞伎町のラブホテルはケアホームに代わり、葬儀場をテーマパークにするなど、設定の時点で大幅な変更が加えられている。

さらに、原作では描かれていなかった登場人物の背景もかなり細かく設定されている。
菅田将暉演じる沢村新次は、母に捨てられ、振り込め詐欺に手を染め、仲間に裏切られて傷害事件を起こし3年ぶりに少年院から出所。ヤン・イクチュン演じる「バリカン」こと二木健二は、母の死をきっかけに韓国から日本に連れてこられた理髪師で、元自衛隊員の父親から虐待に近い扱いを受けている。
このように原作をかなり大胆に脚色してはいるが、根底にある「怒り」や「孤独」「他人とつながることへの渇望」といったテーマは同じ。むしろ、SNSなどであらゆる人がゆるくつながる現代においてこそ、『あゝ、荒野』という作品が抱える「孤独」のテーマとセックスやボクシングを通した肉体的なぶつかり合いは重要な意味を持つかもしれない。

見方によっては、この映画は観客に「ゆるいつながりか? 死ぬまで殴り合うか?」と問うているようにも見える。

原作の精神を忠実に再現し、細部を補う

(出典:テラヤマ・ワールドFacebook)

原作者の寺山修二は、本作のあとがきで次のように述べている。

「この小説を私はモダン・ジャズの手法によって書いてみようと思っていた。(中略)大雑把なストーリーをコード・ネームとして決めておいて、あとは全くの即興描写で埋めてゆくというやり方である」

要は、アドリブで書いた部分が多いということだ。
その言葉通り、小説版は即興で書かれたと思われる箇所が多く、構成的にはややいびつだ。

そうした原作の精神をあまりに忠実に再現しようとしたせいか、映画版においても物語の本筋に関係のないシーンの多さがやや目立つ。

たとえば西北大学の自殺研究会による「自殺抑止フェスティバル」のシーンなどは、菅田将暉とヤン・イクチュンという主役ふたりにほとんど関係がない(かろうじてヤンだけが自殺研究会のメンバーのひとりとちょっとした接点を持つが、それも物語の本筋にはあまり関係ない。普通の映画やドラマならばっさりカットするところだ)。寺山修司という作家や「モダン・ジャズの手法」に興味がない人にとって、こうした作りはノイズになる可能性が高い。
しかし一方で、こうした物語の本筋に関係ないと思われるシーンこそが、いわゆる寺山らしさをもっとも端的に表現したシーンであるとも言える。「自殺抑止フェスティバル」のシーンは明らかに天井桟敷を連想させるし、そもそもコラージュ的な作り方は寺山の原点とも言える。

さらに映画版は、原作では即興で書かれていたいくつかの部分を拾いあげ大幅に設定を追加し、各々のバックストーリーが観客に伝わるような工夫がなされている。主役の二人はもちろんのこと、他のほとんどの人物に「なぜこのキャラクターはこんな言動をとるのか」という疑問にしっかりとした答えを持たせ、人物の言動に説得力を与えている。

寺山の精神を忠実に再現するのか、現代の映画としての完成度を目指すのか。両方実現できればもちろんベストだが、優先すべきはどちらなのか。このあたりは企画や脚本の段階でかなり議論されたのだろう。
どちらを選んでもリスクがつきまとう。それならば、寺山の精神に忠実であることを優先する。それが製作陣の出した結論だったのではないだろうか。

寺山修司の文体と菅田将暉の肉体

とはいえ、映画化にあたってどうしても再現できないものがある。文体だ。

寺山の魅力はたくさんあるだろうが、その最も大きなものが文体だと筆者は考えている。後世のクリエイターに寺山の文体が及ぼした影響も大きい(寺山修司はアングラ演劇の人、というイメージが強いかもしれないが、むしろその独特な詩や短歌でより豊かな作品を多く残している)。
しかし、文章を映像化することは不可能なので、小説の文体をそのまま映画の中に取り込むことは非常に難しい。寺山のように文体に特徴のある作家の作品を映像化する際、その最良のものがほとんどこぼれ落ちてしまうことがある。

では、映画『あゝ、荒野』に寺山の文体の魅力はあるのか? ないのか?

もちろんある。そして、それがこの映画の最大の魅力だと考えられる。

つまりと言うか、やはりと言うべきか、菅田将暉なのだ。
本能を感じさせる荒々しさ、肉体の躍動感。見ていてぞっとするような迫力、怒りと寂しさと人に対する純粋さを感じさせる表情。スクリーンに映る菅田将暉のすべてが、この映画の文体となり、観客を魅了する。

ヤン・イクチュンは菅田将暉についてこんなことを語っている。

「菅田さんは”今この瞬間がすべて”という演技をする役者で、それは僕が理想とする役者の姿と同じなんです。(中略)スリムな体を超えるエネルギーがあって、カメラの前では野生の猿みたいに(!)生の感情をぶつけてくれるので、それを受け取るだけで僕は自然とバリカンの気持ちになってリアクションができました(公式パンフレットより)」

「野生の猿」とは言い得て妙で、リングにおいても濡れ場においても、菅田将暉はまさに餓えた猿のように強く野生の美しさを放っている。緻密に設計されたブレのない円熟の演技というよりは、才能が洪水のように溢れ出し、それを溢れるがままノンストップでーーまるで最良のモダン・ジャズのようにーーフィルムにおさめたのが本作だという印象を受ける。

寺山修司の文章を映像にすることはできないが、代わりに、菅田将暉の肉体がその役割を担ったというわけだ。

そして、結果どうなったかというと、これは菅田将暉の映画となった。

映画『あゝ、荒野』は菅田将暉の代表作
となりうるか?

近年はすっかりイケメン俳優として評価が定着し、人気絶頂という感じの菅田将暉だが、思い返せば彼が俳優として本格的に注目され始めたのは『共喰い』や『そこのみにて光輝く』などの重厚な映画作品であった。それらの作品で、彼はむしろ本能のままに荒々しい怪演を披露していた。

そうした菅田将暉の才能は、『あゝ、荒野』で狂気すれすれの役を演じたことで完全に開かれたのではないだろうか。

菅田将暉のフィルモグラフィーはこれから長く続いていくだろうし、もちろんそれを期待するが、未来の観客や批評家や映画関係者が過去を振り返った際に「菅田将暉の転機は2017年の『あゝ、荒野』だった」と口を揃えて言う姿が容易に想像できる。

映画『あゝ、荒野』は菅田将暉の代表作となりうるか?

もちろん答えはイエス。この映画はその筆頭候補だ。

ちなみに、ゴールデン街や新大久保の裏道などのロケーションを効果的に使い、60年代の雰囲気を引き継いでいるのもこの映画のポイント。新宿という街が第三の主人公なのではないかと言いたくなる。できれば新宿で見たい映画。見終わってからゴールデン街に寄って、一杯飲んで映画について隣のお客さんと語り合えたら、『あゝ、荒野』の楽しみ方としては満点。

作品情報

『あゝ、荒野』
出演:菅田将暉、ヤン・イクチュン、ユースケ・サンタマリア、木下あかり、木村多江、でんでん、モロ師岡、高橋和也、今野杏南、山田裕貴、河井青葉、前原滉、萩原利久、小林且弥、川口覚、山本浩司、鈴木卓爾、山中崇
監督:岸善幸
原作:寺山修司
脚本:港岳彦、岸善幸
主題歌:BRAHMAN

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Text_Sotaro Yamada

映画『あゝ、荒野』は菅田将暉の代表作となりうるか?はミーティア(MEETIA)で公開された投稿です。

ミーティア

「Music meets City Culture.」を合言葉に、街(シティ)で起こるあんなことやこんなことを切り取るWEBマガジン。シティカルチャーの住人であるミーティア編集部が「そこに音楽があるならば」な目線でオリジナル記事を毎日発信中。さらに「音楽」をテーマに個性豊かな漫画家による作品も連載中。

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