爆音アワー

爆音アワー

いい音爆音アワー vol.70「日本ポッ
プス青春期=70年代」

いい音爆音アワー vol.70「日本ポップス青春期=70年代」

2016年9月14日(水)@風知空知

ちょうど70回目ということで、1970年代にフォーカスしてみました。

世界的にもそうですが、日本でも音楽市場が劇的に変化した10年間です。ロック、フォーク、アイドル、ニューミュージック、テクノポップ……みんな60年代末〜70年代に登場し、驚くほどの勢いで成長しました。まさに日本のポップ・ミュージックの青春時代。

なぜそれが70年代だったのか、社会背景なども合わせて考えつつ、これだけは聴いとかないと♪と思う重要音源をピックアップしてみました。

福岡智彦 (いい音研究所)

セットリスト

▶1960年代の終焉

象徴的な諸事件…

1969年7月3日 ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが死去。

1970年4月10日 ポール・マッカートニーがビートルズからの脱退を発表。ビートルズ解散

1970年9月18日 ジミ・ヘンドリックス死去。

1970年10月4日 ジャニス・ジョプリン死去。
The Beatles「Let It Be」(シングルver.)
驚くのは、69年に『Let It Be』と『Abbey Road』の2作を作っていること。解散直前なのに創作力凄い。


22th シングル(1970年3月6日発売)

13th アルバム『Let It Be』(1970年5月8日発売)収録

作詞・作曲:Lennon-McCartney/プロデュース:George Martin

1969年1月8日〜16日、1月22日〜31日 ゲット・バック・セッション

1969年4月11日 シングル「Get Back」リリース

1969年5月28日 エンジニアのグリン・ジョンズglyn johnsがまとめ、アルバム『Get Back』としてテスト盤まで配布されるがクオリティに疑問がつき、発売延期。

1969年7月1日 ニュー・アルバムのレコーディング開始、8月25日に完了。

1969年9月26日 アルバム『Abbey Road』リリース

1970年1月3日〜8日 「ゲット・バック・セッション」継続(ジョン不在)。

1970年1月27日 ジョン・レノン、ジョージの推薦によるフィル・スペクターのプロデュースの元、「Instant Karma! (We All Shine On)」をレコーディング。

1970年3月6日 シングル「Let It Be」リリース

1970年3月23日 ジョンとジョージ、「ゲット・バック・セッション」をフィル・スペクターに託す。

1970年4月1日 スペクター仕切りでオーケストラおよびコーラスのダビング(リンゴのみ参加)。

1970年5月8日 ポールとジョージ・マーティンは気に入らなかったが、アルバム・リリース契約が1枚残っていたため、アルバム『Let It Be』をリリース。
▶ロック登場

エレキ・ギターの進歩、PAシステムの開発などを背景に、60年代の終わりから、英米では大音量のロック・ミュージックが盛況を極める。

それに影響を受けて、日本でも多くのロック・バンドが生まれ、ロック・イベントも盛んに開催されるが…、結局この時期の日本のロックは売れなかった。

考えられる要因は3つ。

1.フェンダーやギブソンの楽器・アンプは高かった。1ドル=360円の時代だからね。

2.PAがお粗末だった(「ニューミュージック・マガジン」 72年10月号に 「音響装置がこれからの問題」 という記事があった)。

3.「世界を目指す」と言って英語で唄うバンドが多かった(だったら洋楽を聴くだろう)。
はっぴいえんど「いらいら」
「奇跡」という言葉を軽々しく使いたくないが、この4人が集まったのはやっぱり奇跡としか言いようがない。日本のロックの創始にして完成形。


1st アルバム『はっぴいえんど』(1970年8月5日発売)収録

作詞・作曲:大瀧詠一

1968年8月、GSバンド”フローラ”結成。

1969年4月、細野晴臣松本隆が”フローラ”に加入。”Apryl Fool”に発展。

1969年10月、唯一のアルバム『The Apryl Fool』をリリースし、解散。

1969年秋、「バッファロー・スプリングフィールドの音楽に日本語詞を乗せる」というコンセプトの元、松本隆、大瀧詠一とともに”ばれんたいん・ぶるう”結成。

1970年4月、グループ名を”はっぴいえんど”と改称。

1970年8月5日、1st アルバム『はっぴいえんど』リリース。

1971年11月20日、2nd アルバム『風街ろまん』リリース。

1972年10月、ロサンゼルスでアルバム『HAPPY END』をレコーディング。

1972年11月25日、大瀧1st ソロ・アルバム『大瀧詠一』リリース。

1972年12月31日、はっぴいえんど、解散を発表。

1973年2月25日、3rd & Last アルバム『HAPPY END』リリース。

1973年5月25日、細野1st ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』リリース。
クリエイション「You Better Find Out」
坂本九が全米1位になった記憶がまだ新しかったから、そしてGSが歌謡曲でしかなかったから、世界を目指すロックは英語で!という発想になった。


1st アルバム『クリエイション』(1975年発売)収録

作詞・作曲:竹田和夫/プロデュース:内田裕也


1969年10月、前身バンド”ブルース・クリエイション”がアルバム『ブルース・クリエイション』をリリース。

1972年、”ブルース・クリエイション”を解体し、竹田和夫(g)、松本繁(b)、樋口晶之(dr)、大沢博美(vo)で”クリエイション”を結成。

1973年、飯島義昭(g)が加入後大沢が脱退。

1975年、1st アルバム『クリエイション』をリリース。

1976年、元”Mountain”のフェリックス・パパラルディFelix Pappalardiのプロデュースにより、2nd アルバム『CREATION WITH FELIX PAPPALARDI』リリース。アメリカでも『FELIX PAPPALARDI & CREATION』として発売。

1976年7月〜 パパラルディとともに全米ツアー(9箇所12公演)。

【日本人アーティストの海外ライブ】

フラワー・トラベリン・バンド: カナダ(1971年)

サディスティック・ミカ・バンド: イギリス(1975年)

YMO: イギリス、フランス、アメリカ(1979年10月〜)

YMO: イギリス、ドイツ、オランダ、スウェーデン、フランス、イタリア、アメリカ(1980年10月〜)

1977年、3rd アルバム『PURE ELECTRIC SOUL』リリース。

1984年、解散。

2005年、再結成。
▶フォーク・ブーム

60年代後半から70年代前半にかけて、日本で多くの若者の支持を集めたのはロックではなく、 フォークだった。 アコースティック・ギターを中心としたシンプルな編成で演奏されることが多かったフォークソングは、 高度な音楽的素養を必要とせず、 また楽器も安価に入手できることもあって、 多くのアマチュアシンガーやグループを生み出した。そうした中から、 やがて有力なシンガーたちが登場してくる。
よしだたくろう「親切」
ヒット・アルバム『元気です。』の中では地味な曲ですが、デビュー曲の「イメージの詩」と同様のスタイルで、完成度はより高いと思う。拓郎にしかできない境地です。


3rd アルバム『元気です。』(1972年7月21日発売)収録

作詞・作曲:吉田拓郎/編曲:石川鷹彦+吉田拓郎

アルバムはオリコン14週連続1位!


1946年4月5日、鹿児島県大口市(現:伊佐市)生まれ。小学校3年時より広島市南区西霞町育ち。

1967年 「第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」中国地区大会にバンドで出場し、ロック部門で優勝。

1968年 吉田の発案でアマチュア・フォークサークル”広島フォーク村”を結成。

1970年3月、ユーゲント・レーベルから”広島フォーク村”名義『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作。

1970年6月、エレック・レコードよりシングル「イメージの詩」リリース。

1970年11月、1st アルバム『青春の詩』リリース。

1971年7月、CBSソニーより3rd シングル「今日までそして明日から」リリース。

1971年10月、後藤由多加とともに音楽制作プロダクション「ユイ音楽工房」設立。

1971年11月、エレックより2nd アルバム『人間なんて』リリース。

1972年1月、CBSソニーより4th シングル「結婚しようよ」リリース。オリコン3位のヒットで、フォークがサブカルチャーからメインストリームへ浮上する分岐点となった。

1974年1月、森進一に「襟裳岬」を提供。第16回日本レコード大賞を受賞。

1975年6月1日、吉田拓郎、井上陽水小室等泉谷しげるが中心となって、「フォーライフ・レコード」を発足させる。
井上陽水「人生が二度あれば」
暗い歌だけど、この歌唱に惹かれない人はいないでしょう。


1st シングル(1972年3月1日発売)

1st アルバム『断絶』(1972年5月25日発売)収録

作詞・作曲:井上陽水/編曲:星勝


本名:井上陽水(アキミ)

1948年8月30日、福岡県嘉穂郡幸袋町(現・飯塚市幸袋地区)出身。福岡県田川郡糸田町育ち。

1969年9月1日、CBSソニーより、アンドレ・カンドレ名義でシングル「カンドレ・マンドレ」でデビュー。

1971年、多賀英典に誘われてポリドールに移籍。

1972年、”井上陽水”と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビュー。

 5月、1st アルバム『断絶』リリース。

1973年3月、3rd シングル「夢の中へ」リリース。初ヒット、オリコン17位。

1973年12月1日、3rd アルバム『氷の世界』リリース。オリコン1位。日本初のミリオン・セラー・アルバムとなる。
赤い鳥「A Fool On the Hill」
はっぴいえんどより、五輪真弓より2年も早い海外レコーディング。しかもデビュー前に。プロになりたくないって言ってたのに。…いい時代。


1st アルバム『Fly With the Red Birds』(1970年6月10日発売)収録

作詞・作曲:Lennon - McCartney/編曲:John Fiddy/プロデュース:Jack Winsley with Andrew Heath/プロダクション・スーパバイザー:村井邦彦


後藤悦治郎(ギター)

平山泰代(ピアノ、1974年2月後藤と結婚)

山本俊彦(ギター)

新居潤子(ボーカル・ギター、1973年4月に山本と結婚)

大川茂(ベース、1969年6月加入)

大村憲司(ギター、1972年2月から1973年4月)

村上秀一(ドラム、1972年6月から1973年4月)

渡辺俊幸(ドラム・キーボード、1973年4月から)
1969年結成。

1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場、グランプリを獲得(オフコースが2位、小田和正は最優秀歌唱賞)。

優勝者はレコードデビューの権利と副賞にヨーロッパ周遊旅行が授与されたが、プロになることは固辞。→ヤマハ音楽振興会の顧問をしていた村井邦彦が説得を試みるがウンと言わない。「じゃあ記念にロンドンでレコードを1枚作ろう」と提案したところOK。

1970年4月、ヨーロッパ旅行に出発、イギリス、ロンドンでレコーディング。

ロンドンで村井が再び説得。「目をつぶって賛成の人はせーので手を上げて。5人のうち3人以上だったらプロになることにしよう」と提案し、「はい、3人だね」で決定。ほんとに3人だったかは謎。

 6月、シングル「人生」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でデビュー。

1971年2月、シングル「竹田の子守唄/翼をください」をリリース。

1974年、解散。

その後、後藤・平山の夫妻は”紙ふうせん”、山本夫妻と大川は”ハイ・ファイ・セット”を結成。
ザ・ディランII
「プカプカ(みなみの不演不唱<ぶるうす>)」
URCレコード発。関西フォークは土臭さが魅力。


1st シングル「男らしいってわかるかい」(1971年7月発売)のB面

1st アルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』(1972年発売)収録

作詞・作曲:象狂象(西岡恭蔵


1960年代末、大阪のフォーク喫茶「ディラン」に集まった西岡恭蔵、大塚まさじ、永井洋の3人が”ザ・ディラン”として活動、フォークキャンプや中津川フォークジャンボリーなどのイベントに出演。

1971年頃に西岡恭蔵が離れて、大塚まさじと永井洋のデュオとなり”ザ・ディランII”と称する。

1971年7月、ボブ・ディラン""I Shall Be Released""を日本語訳したカヴァー「男らしいってわかるかい」を1st シングルとしてリリース。

1972年、URCレコードより、1st アルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』リリース。

1973年、2nd アルバム『SECOND』リリース。

1974年、ベルウッドより3rd & Last アルバム『さようなら〜この世を悲しむ風来坊に捧ぐ〜』リリース。
中島みゆき「わかれうた」
ヤマハのポプコンも70年代を作ったジェネレータのひとつ。


5th シングル(1977年9月10日発売)

4th アルバム『愛していると云ってくれ』(1978年4月10日発売)収録

作詞・作曲:中島みゆき/編曲:福井崚・吉野金次

オリコン1位(自身初) アルバムは2位

本名:中島美雪

1952年2月23日、北海道札幌市生まれ。

1972年、「フォーク音楽祭全国大会」で入賞。

デビュー前既に地元北海道では多くのファンを獲得しており、オリジナル曲は100曲以上あったという。

1975年5月、「第9回ヤマハ・ポピュラーソング・コンテスト」に「傷ついた翼」で入賞。

 9月、シングル「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。

 10月、「第10回ポプコン」に「時代」でグランプリを受賞。

 11月、「第6回世界歌謡祭」 でもグランプリを受賞。

 12月、2nd シングル「時代」リリース。

1976年4月、1st アルバム『私の声が聞こえますか』リリース。

 9月、研ナオコに提供した「あばよ」が研ナオコ唯一のオリコン1位。

1977年9月、5th シングル「わかれうた」リリース。自身初のオリコン1位獲得。

1979年、ニッポン放送「中島みゆきのオールナイトニッポン」(月曜1部)がスタート。

1981年10月、11th シングル「悪女」リリース、オリコン1位。

1989年12月、演劇とコンサートを融合したイベント「夜会」を開催。以後ライフワークに。

1994年5月、31th シングル「空と君のあいだに/ファイト」リリース。147万枚の大ヒット。

2000年7月、NHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の主題歌およびエンディングテーマとして作られた、「地上の星」「ヘッドライト・テールライト」を37th シングルとしてリリース。2003年1月、前年の紅白歌合戦出演によって売上が急上昇、オリコン1位を獲得。130週目の1位獲得はオリコン史上最長。結果的にオリコン・シングルチャート100位以内に183週ランクイン。

2009年11月3日、紫綬褒章を受章。
▶アイドル

60年代までは、人気芸能人は「スター」と呼ばれていた。

1971年にデビューした新三人娘(小柳ルミ子4月・南沙織6月・天地真理10月)がアイドルの源流とされ、これ以来「アイドル」という言葉に独特のイメージが定着した。
南沙織「17才」
デビューした時は、まだ沖縄返還前でした。


1st シングル(1971年6月1日発売)

1st アルバム『17才』(1971年10月1日発売)収録

作詞:有馬三恵子/作曲・編曲:筒美京平/プロデュース:酒井政利

オリコン2位 アルバムは8位

出生名:内間明美

1954年7月2日、沖縄県生まれ。

琉球放送ののど自慢テレビ番組でアシスタントのアルバイトをする。ある時、番組にゲスト出演した”ヒデとロザンナ”のマネージャーが持ち帰った南の写真が偶然CBSソニー関係者の目にとまり、急遽、東京に呼び寄せた。

1971年の春、本土復帰前の沖縄から母親と二人で上京。

(1972年5月15日、沖縄返還)

急速に話は進み、1971年6月、シングル「17才」でデビュー。

年末には第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞。ブロマイドの年間売上げ実績でも、1971年、1972年ともに第1位を獲得した。

1978年10月、引退。

1979年、写真家の篠山紀信と結婚。
麻丘めぐみ「芽ばえ」
歌に合わせた”フリ”の元祖だと思います。


1st シングル(1972年6月5日発売)

作詞:千家和也/作曲:筒美京平/編曲:高田弘

オリコン3位

本名:藤井佳代子

1955年10月11日、大分県日出町生まれ、生後半年から大阪育ち。

1967年3月、姉が花里明美としてミノルフォンよりデビュー。

1970年、姉がビクターより藤井明美として再デビュー。

ビクターのスタッフからレコードを出さないかと勧められ、姉の苦労を見ているのでその気はまったくなかったが、断りきれず、
1972年6月、シングル「芽ばえ」をリリースしたところ大ヒット。第14回日本レコード大賞で最優秀新人賞を受賞。

1973年7月、「わたしの彼は左きき」が大ヒット。左利き用品が多数発売されるようになった。第15回日本レコード大賞で大衆賞を受賞。

1977年、結婚し、引退。

1983年、離婚し、芸能界へ復帰。以後、女優業をメインに活動。
太田裕美「青い傘」
この人の場合、アルバムの片隅にも名曲が隠れているのです。


5th アルバム『12ページの詩集』(1976年12月5日発売)収録

作詞・作曲:荒井由実/編曲:萩田光雄

アルバムはオリコン9位


1955年1月20日、東京都荒川区生まれ、埼玉県春日部市育ち。

1969年、中学3年の時に友人の代わりにスクールメイツのオーディションを受け、合格。同期生には、伊藤蘭・田中好子らがいた。

1973年1月〜1974年3月、”ヤング101”のメンバーとして、NHK「ステージ101」に出演。同期メンバーには谷山浩子がいた。

1974年11月1日、シングル「雨だれ」でデビュー。

1975年、日本レコード大賞、日本歌謡大賞等で新人賞を受賞。

1975年12月、3rd アルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が大ヒット。

2004年から太田、伊勢正三、大野真澄の3人でユニット「なごみーず」を組み、各地でコンサートを展開中。
山口百恵「夢先案内人」
1980年、弱冠21歳で完全引退。70年代を席巻し、”菩薩”とまで言われたアイドル。


17th シングル(1977年4月1日発売)

作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童/編曲:萩田光雄

オリコン1位


1959年1月17日、東京都渋谷区生まれ。小学2年生から横須賀市で過ごす。

1972年12月、「スター誕生!」に出場、準優勝で20社から指名を受ける。審査員の阿久悠から「あなたは青春ドラマの妹役なら良いけれど歌手は諦めた方が良い」と言われる。

1973年4月、映画「としごろ」(和田アキ子森昌子主演)に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。

第2弾シングル「青い果実」から「青い性路線」を展開、1974年6月の「ひと夏の経験」でブレイク。

1974年、映画「伊豆の踊子」主演、大ヒット。三浦友和と共演。

1974年10月〜 TBSのテレビドラマ「赤いシリーズ(大映ドラマ)」に出演。

1976年6月、「横須賀ストーリー」リリース。これより阿木燿子・宇崎竜童コンビ作品が続々ヒット。

1980年10月5日、日本武道館でファイナル・コンサートを開催。21歳で引退。
キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」
1978年に渡辺プロに入社した私が、新入社員の研修で行かされたのが後楽園の「ファイナル・カーニバル」。ラッキーでした(^^)。


14th シングル(1977年6月21日発売)

9th アルバム『Candy Label』(1977年9月1日発売)収録

作詞:喜多條忠/作曲:佐瀬寿一/編曲:馬飼野康二

イメージキャラクターを務めた郵政省(当時)の暑中見舞い葉書のCMソングに使用。

オリコン5位

この曲がヒット中の1977年7月17日、日比谷野外音楽堂でのコンサート中に、「普通の女の子に戻りたい」と、突然の解散宣言をした。


伊藤蘭(1955年1月13日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ)

田中好子(1956年4月8日 - 2011年4月21日 東京都足立区梅田生まれ)

藤村美樹(1956年1月15日 東京都世田谷区生まれ)
1972年4月、NHK「歌謡グランドショー」のマスコットガール兼アシスタントとして”キャンディーズ”誕生

1973年4月〜、TBS「8時だョ!全員集合」のアシスタントとしてレギュラー出演

1973年9月、シングル「あなたに夢中」でデビュー。

1975年2月、シングル「年下の男の子」リリース、初のトップ10(9位)を記録。

1976年10月〜、NET(テレビ朝日)「見ごろ!たべごろ!笑いごろ!」レギュラー出演。

1978年4月4日、後楽園球場に55,000人を集めた「ファイナルカーニバル」をもって解散。
▶ニューミュージック

「フォーク」という言葉にある反体制的あるいは私小説的というイメージ、「ロック」にあるヘビーなサウンドのイメージには収まらず、歌謡曲でもない新しい音楽についてこう呼ぶようになった。

ちなみに1969年に創刊された「ニュー・ミュージック・マガジン」は、1980年に「ミュージック・マガジン」と改称している。
荒井由実「返事はいらない (album ver.)」
「天才」という言葉も軽々しく使いたくないが(最近ほんと「神」まで軽いからね)、18歳でこんな詞曲を作り、アレンジもしてしまうなんて、本物の天才。


1st シングル(別バージョン、かまやつひろしプロデュース、1972年7月5日発売)

1st アルバム『ひこうき雲』(1973年11月20日発売)収録

作詞・作曲:荒井由実/編曲:荒井由実+キャラメル・ママ/プロデュース:村井邦彦

アルバムはオリコン9位。シングルは300枚くらいしか売れなかったと言われる。

アルバム・レコーディング時、ユーミン19歳、細野25歳、松任谷、林、鈴木は22歳、村井は27歳。


1954年1月19日、東京都八王子市生まれ。

中学時代、麻布のイタリアン・レストラン「キャンティ」に出入り、また”ザ・フィンガーズ”の追っかけもしていた。

立教女学院高校1年の時、立教高校の高橋幸宏、麻布高校の東郷昌和(バズ)と”ブッダズ・ナルシィーシィー”というバンドを組み、TBSの「ヤング720」に出演する。

1970年、高校2年の時、加橋かつみに曲を提供、シングル「愛は突然に…」として1971年発売される。

1970年、アルファ・ミュージックの作家契約第1号となる。

1972年4月、多摩美術大学に入学。

 同年7月、シングル「返事はいらない」でデビュー。

1975年8月、バンバンに提供した「いちご白書をもう一度」発売、オリコン1位を獲得。

1976年11月、松任谷正隆と結婚。

1981年11月、アルバム『昨晩お会いしましょう』リリース。これ以降オリジナル・アルバム17枚連続でオリコン1位。
五輪真弓「少女」
デビュー・アルバムをいきなりロス録音。しかもキャロル・キングがピアノ。かっこよすぎます。


1st シングル(1972年10月21日発売)

1st アルバム『少女』(1972年10月21日発売)収録

作詞・作曲:五輪真弓/プロデューサー&エンジニア:John Fischbach

piano: Carole King/bass: Charles Larkey/drums: Bugs Pemberton/harpsichord: Loren Newkirk

オリコン30位 アルバムは6位

1972年7〜8月、ロサンゼルスのクリスタル・サウンド・スタジオでレコーディングされた。


1951年1月24日、東京都中野区生まれ。

1972年10月、CBSソニーより、アルバム『少女』・シングル「少女」同時発売でデビュー。

1980年、「恋人よ」がヒット。第22回日本レコード大賞金賞を受賞。

1982年10月にリリースされたアルバム『潮騒』に収録された「心の友」はシングルになっていないにも関わらず、インドネシアでは知らない人がないくらい有名である。
▶早すぎた名作たち

少し進み過ぎていたために、70年代の大衆には理解されなかったアーティストたちもたくさんいました。しかし彼らの存在が、日本のポップミュージックのレベルを底上げし、彼ら自身も次の時代では大きく開花していくのです。
大瀧詠一「指切り」
スタックス・サウンドを導入。この人はほんとに日本のポップスの可能性を大きく広げました。


1st アルバム『大瀧詠一』(1972年11月25日発売)収録

作詞:松本隆/作曲・編曲:大瀧詠一

drums:松本隆/bass:細野晴臣/piano & flute:吉田美奈子/chorus:シンガーズ・スリー
はっぴいえんどに強い興味を持ったキングレコードの三浦光紀は、はっぴいえんどの2nd アルバム『風街ろまん』について、URC原盤のキング・リリースとしたいと要望したが、それは断られ、ただ個々のメンバーについてはしばらないということで、「まず」大瀧詠一のソロを制作することになった。やがて三浦はベルウッド・レコードを立ち上げ、本作はベルウッドからリリースされることになる。

この曲はアル・グリーンの「Let’s Stay Together」を目指して作られたが、ベースは面白くないので、Staple Singers「Respect Yourself」を参考にした。アル・グリーンのようにソウルフルに歌いたかったが、キーの選定を間違えたらしく、高すぎた。ともかくテストで歌ってみると、ミキサーの吉野金次が「これがいい」と言い張り、テイクワンでOKにしたという。
1948年7月28日 -、岩手県江刺郡梁川村(現:奥州市江刺区)生まれ。

1972年11月、”はっぴいえんど”在籍中に、1st ソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリース。

1974年9月、プライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。

1976年、エレックが倒産し、コロムビアと契約。

1980年、CBSソニーに移籍。

1981年3月、アルバム『A LONG VACATION』をリリース。

2013年12月30日、解離性動脈瘤で急死。享年65歳。
シュガー・ベイブ「雨は手のひらにいっぱい」
今なお古さを感じさせない名盤も、当時は売れず、評価もされなかった。つくづく人間は視野がせまいのです。


1st & last アルバム『SONGS』(1975年4月25日発売)収録

作詞・作曲・編曲:山下達郎

当時は珍しかったメジャー7thや分数コードなどのコード・プログレッションを多用したり、コーラス・ワークに重点を置いた音作りが独創的だったが、その時点では広く受け入れられることはなかった。


1972年7月、山下達郎、アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を友人達と3か月かけて自主制作。

1972年秋、夏に故郷の長崎で”はっぴいえんど”を招き、「大震祭 vol.3」を主催した長門芳郎が、開店間もない四谷のロック喫茶「ディスク・チャート」の運営に携わる。

矢野誠の紹介で、毎週水曜の閉店後、大貫妙子がソロ・デビューに向けたセッションを行うようになる。

1972年11月、『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を置いてもらおうと山下がディスク・チャートの長門を訪問、意気投合する。

 12月、山下が大貫のセッションに通うようになり、やがてバンド結成を提案する。大貫もソロでは不安もあったので、参加を決める。

1973年1〜4月、村松邦男(g)、鰐川己久男(b)をメンバーに決定。ドラムは始めたばかりの野口明彦に山下が教えこむことにする。

 5月、長門がマネージャーとなる。”Young Bloods”の曲名から”シュガー・ベイブ”をバンド名にいただく。

 8月18日、山下と長門、福生の大瀧詠一宅を訪問。以後通い詰める。

 9月21日、はっぴいえんどのラストライブ「CITY -LAST TIME AROUND-」に、シュガー・ベイブはコーラス隊として参加。

 12月17日、青山タワーホールで「HELLO! WE'RE SUGAR BABE」コンサート開催。”はちみつぱい”など共演。

1974年9月、ナイアガラ・レーベル、エレック・レコードとの契約が決まる。

 10月28日〜12月26日、アルバム・レコーディング。

1975年3月、アルバム『SONGS』完成。野口が脱退し、上原裕と伊藤銀次が加入。鰐川が脱退し、寺尾次郎が加入。マネージャーが長門から柏原卓に交代。

 4月25日、アルバム『SONGS』とシングル「DOWN TOWN」を同時リリース。

1976年1月、上原が辞めるのでバンドは解散、と山下が宣言。

 3月31日&4月1日、解散コンサート@荻窪ロフト。
鈴木茂「微熱少年」
いざアメリカに着いてみたら、手違いでミュージシャンがブックされていなかった。名盤は逆境から生まれる?!


1st アルバム『BAND WAGON』(1975年3月発売)収録

作詞:松本隆/作曲・編曲:鈴木茂

Drums : Greg Errico(スライ)/Bass : Doug Rauch(サンタナ)/E.Piano : Bill Payne(フィート)/Clavinet : Don Grusin

サンフランシスコのDifferent Fur Studioでレコーディング

当初、ジェームス・ギャドソン(James Gadson)(dr)やジェームス・ジェマーソン(James Jermerson)といったメンバーをオーダーしたが、コーディネーターの手違いから、手配できず、渡米後急遽探した。


1951年12月20日、東京都世田谷区生まれ。

1968年、林立夫、小原礼と”スカイ”を結成。

1969年、”はっぴいえんど”に加入。

解散後、細野晴臣らと”キャラメル・ママ”を結成、”ティン・パン・アレー”へと発展。

1975年、サンフランシスコで録音した初ソロ・アルバム『BAND WAGON』をリリース。

その後、”ハックルバック”を結成。

1992年、尾崎亜美、小原礼らと”桃姫BAND”を結成。

1995年、阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして、声優の神谷明の呼びかけで結成された”WITH YOU”に、尾崎・小原らとともに協力ミュージシャンとして参加。

2000年、細野、林と”ティン・パン”を結成。
サディスティック・ミカ・バンド
「塀までひとっとび」
世界的なプロデューサーが自らプロデュースさせてくれと言ってきた日本のアーティストは他にないのでは?


「SUKI SUKI SUKI(塀までひとっとび)」というタイトルで1975年4月にシングル・カット

2nd アルバム『黒船』(1974年11月5日発売)収録

作詞:林立夫/作曲:小原礼/編曲:サディスティック・ミカ・バンド/プロディース:Chris Thomas

アルバムはオリコン38位


1971年11月、元”ザ・フォーク・クルセダーズ”の加藤和彦(g/vo)と、加藤ミカ(vo)、角田ひろ(dr)で結成される。そこに高中正義(リードギター)が加入。

1972年にシングル「サイクリングブギ」でデビュー。

まもなく角田が辞め、ドラムは大口広司→高橋幸宏と変わる。小原礼(b)も加入。

1973年5月、1st アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』リリース。

1974年、1st アルバムを聴いたクリス・トーマスChris Thomas(ビートルズ、エルトン・ジョン、ピンク・フロイド、セックス・ピストルズ…)からプロデュースの話があり、2nd アルバム『黒船』を制作。

その後、小原礼が脱退し、後任ベーシストに後藤次利が参加。

1975年10月、”ロキシー・ミュージック”の全英ツアーのオープニング・アクトを務める。

 11月、3rd アルバム『HOT! MENU』リリース。

 11月、加藤和彦・ミカの離婚により解散。

その後、今井裕、後藤次利、高中正義、高橋幸宏の4人は”サディスティックス”として活動(→1978年頃)。
加藤和彦「シンガプーラ」
72年に私費を投じて機材を購入し、PAサービス会社「ギンガム」を立ち上げた人。そういう面からも日本のポップミュージックを切り拓いた偉い人なのです。


先行シングル(1976年11月29日発売)

3rd アルバム『それから先のことは…』(1976年12月20日発売)収録

作詞:安井かずみ/作曲:加藤和彦/プロデュース:加藤和彦+新田和長

サディスティック・ミカ・バンド解散後初のソロ・アルバム。

マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ(アラバマ州)、クライテリア・スタジオ(マイアミ)、ワーナー・ブラザーズ・レコーディング・スタジオ(ロス)でレコーディング


1947年3月21日、京都市伏見区生まれ。生後すぐに神奈川県鎌倉市に移り、鎌倉と逗子市で小学校4年まで、その後1年間京都、その後は高校卒業まで東京日本橋で育つ。

1965年、京都の龍谷大学に入学。

1967年、”ザ・フォーク・クルセダーズ”の解散記念に自費23万円で300枚制作したアルバム『ハレンチ』中の「帰って来たヨッパライ」に対するリクエストがラジオ局に殺到し、1年限りの約束でプロとして活動することに。

1968年10月17日、フォーク・クルセダーズ解散。

1970年7月、福井ミカと結婚。

1971年4月、「あの素晴しい愛をもう一度」を北山修との連名でリリース。

1971年11月、”サディスティック・ミカ・バンド”結成。

1975年、ミカと離婚。ミカ・バンドは解散。

1977年、安井かずみと再婚。

1994年、安井かずみ死去。

2009年10月17日、長野県軽井沢町のホテルで遺体が発見される。首吊りによる自殺と見られている。享年62歳。
RCサクセション「やさしさ」
制作後5年も経ってようやく日の目を見た名盤。やはりよいものは不滅です。なお、巨人軍は不滅ではありません。


3rd アルバム『シングル・マン』(1976年4月21日発売)収録

作詞:忌野清志郎/作曲:肝沢幅一/編曲:星勝 & RCサクセション
当時所属していたホリプロダクションからRCを担当していた奥田義行が井上陽水を連れて独立し、RCは契約上残されたが、ホリプロからは冷遇される。そんな1974年、ポリドールの多賀英典の元、事務所には内緒でレコーディングを開始、1975年春には完成するが、やはり事務所からは許可が降りず、1年後、RCがやっと奥田の新会社「りぼん」に移籍した後の1976年4月に発売された。しかし活動が停滞していたこともあり、アルバムは全然売れないまま、1年も立たないうちに廃盤となってしまう。

RCがようやくライブから盛り上がり始めた1979年になって、評論家吉見佑子を中心に「シングル・マン再発売実行委員会」が発足、限定300枚ながら再発にこぎつけ、その売れ行きが好調だったので、1980年8月に正式再発売された。
このときの”RCサクセション”は

 忌野清志郎(vo / g)、林小和生(b)、破廉ケンチ(g)

ゲスト・ミュージシャン:

(歌詞カードに「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と書かれている。契約の都合上クレジットされていない)

drums:西哲也

Horn section:タワー・オブ・パワーTower Of Power(かまやつひろし「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」にも参加しているのでその来日時に録音か)
矢野顕子「丘を越えて」
高2でプロとして認められた、ユーミンと並ぶ天才少女。


1st アルバム『JAPANESE GIRL』(1976年7月25日発売)収録

作詞:島田芳文/作曲:古賀政男/編曲:矢野顕子/プロデュース:小東洋(矢野誠)、矢野顕子

drums&しめ太鼓:かしぶち哲郎/bass:鈴木博文/piano:矢野顕子/香港びわ&flat manodlin:武川雅寛/しめ太鼓:鈴木慶一/second vocal:あがた森魚/pedal steel:駒沢裕城(宏季)/ジャケット・イラスト:駒沢裕城/mix:吉野金次
A面:AMERICAN SIDE

演奏:リトル・フィートのメンバー(dr: Richie Hayward, b: Kenny Gradney, g: Paul Barrere, g: Lowell George, per: Sam Clayton Bill Payneは参加してない)

B面:日本面

細野晴臣・林立夫(1973年のセッション)、あがた森魚、かしぶち哲郎、鈴木慶一、鈴木博文、駒沢裕城など
タイトルはあがた森魚のアルバム『日本少年』(1976年)に由来し、本作はあがたの作品へのアンサー・アルバムにもなっている。
出生名:鈴木顕子

1955年2月13日、東京都生まれ、3歳〜中学まで青森市育ち。

1971年、単身上京し青山学院高等部に入学。

父親の知人である安部譲二と当時の妻であった遠藤瓔子が経営するジャズクラブ「青山ロブロイ」で、安部家に下宿しながら夜な夜なセッションをやっていた。やがて高校を2年の夏休みに中退、プロの道を選ぶ。

1973年、アルバム発売を前提に、細野晴臣、林立夫らと共にレコーディング。アルバムは発売されず、一部の録音がアルバム『JAPANESE GIRL』、『いろはにこんぺいとう』、および1996年発売のベストアルバム『ひとつだけ/the very best of 矢野顕子』に収録された。

この頃からセッション・ミュージシャンとして、アグネス・チャン、荒井由実、吉田美奈子などさまざまなアーティストのレコーディングに参加。

1974年、”ザリバ”名義で、トリオ・SHOW BOATよりシングル「或る日」をリリース(作詞:石津善之/作曲:筒美京平/編曲:矢野誠)。発売日翌日に解散。

長男の妊娠を機に矢野誠と結婚。当時19歳。

1976年7月、1st アルバム『JAPANESE GIRL』をリリース。

1976年12月、ライブ・アルバム『長月 神無月』リリース。

1977年8月、2nd アルバム『いろはにこんぺいとう』リリース。

1978年9月、3rd アルバム『ト・キ・メ・キ』リリース。

 「ト・キ・メ・キ」ツアーにYMOのメンバー3人が参加。

1979年、矢野誠と離婚。

 KYLYN BAND(渡辺香津美主宰)やカクトウギ・セッション(坂本龍一主宰)、YMOの第1回ワールドツアーに参加。

1980年5月、長女美雨誕生。

 10月、YMOの第2回ワールドツアーに再び参加。

 10月、徳間ジャパン移籍第1弾アルバム『ごはんができたよ』リリース。YMOメンバーが全面的にバッキング。

1981年、カネボウ化粧品CMソングに起用されたシングル「春咲小紅」が、オリコン5位。
▶テクノポップ

細野さんの「イエロー・マジック」構想、シンセサイザーとシーケンサーの発達、ディスコ・ブーム、インベーダーゲーム、村井邦彦さんの意志、という5要素がYMOのテクノポップを生んだと思う。
Yellow Magic Orchestra
「Yellow Magic (Ton Poo)」
発売された頃は、「細野さん、どうしちゃったんだろう?インベーダー・ゲームのやり過ぎかな?」と思っていました。


1st アルバムのリミックス『Yellow Magic Orchestra(US盤)』(1979年5月30日発売/日本では7月25日)収録

作曲:坂本龍一/background vocal:吉田美奈子/engineer: Al Schmitt


アルファ・ミュージックの創始者、村井邦彦氏の「世界を相手に音楽ビジネスをする」という目標の元、細野晴臣に託したプロジェクト。

1978年2月19日に行われた、細野のソロアルバム『はらいそ』の1曲、「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏と、初めて3人で顔を合わせた。その当日、細野が2人を自宅に招き、こたつでミーティング。細野が「マーティン・デニーの『ファイアー・クラッカー』をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、世界で売る」という新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、“YMO”が結成された。

1978年11月、1st アルバム『Yellow Magic Orchestra』をアルファ・レコードよりリリース。アルファは同年秋に米国A&Mレコードと相互ライセンス契約を締結しており、副社長のトミー・リピューマが気に入り、米マーケット向けにアル・シュミットがリミックスした上、
1979年5月、トミーのレーベル「ホライゾン」から『Yellow Magic Orchestra(US盤)』をリリース。

1979年9月、2nd アルバム『Solid State Surviver』をリリース(リリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、US盤は発売されなかった)。オリコン1位を獲得。

 10月〜 ワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をロンドンからスタート。

1980年10月〜 第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードから始まる。8ヶ国で19公演が行われ、ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たした。
▶J-POPの予兆

「ニューミュージック」はやがて「J-POP」という枠に飲み込まれていく。

「J-POP」という言葉が作られたのは1988年の終わりか1989年の頭。1988年10月に開局したばかりのJ-WAVEが言い始めた。

「ニューミュージック」までは、テレビに出ないとか、やはりどこかサブカルチャーの匂いがあるが、「J-POP」はもはやメインストリームである。日本でもっとも売れ、もっともありふれた音楽は、歌謡曲からロック/ポップス的音楽にとって代わったということだ。

70年代にはその言葉は存在しないわけだが、最初からテレビで活躍し、売れるポップスを作ったサザンオールスターズは元祖「J-POP」と言えるのではないだろうか。
サザンオールスターズ「思い過ごしも恋のうち」
言葉とメロディがこれでもかこれでもかと畳みかけてくる。改めて、よくできたポップミュージックだと思います。


4th シングル(1979年7月25日発売)

2nd アルバム『10ナンバーズ・からっと』(1979年4月5日発売)収録

作詞・作曲:桑田佳祐/編曲:サザンオールスターズ/弦管編曲:新田一郎

オリコン7位 アルバムは2位/1979年度年間3位


青山学院大学の音楽サークル「AFT」(青山フォークサークルたびだち)(後分裂して「Better Days」)で、桑田佳祐を中心に様々なバンドが組まれ、活動する。

バンド名を考えたのは桑田の友人・宮治淳一。1976年4月、ニール・ヤングの『After the Gold Rush』をBGMにのコンサート・ポスターを製作中だった宮治が、休憩して風呂に入りつつ聴いていたラジオから、ファニア・オールスターズの来日コンサートの宣伝が流れ、風呂から上がるとつけっぱなしだったレコードから「サザン・マン」が流れていて、これを組み合わせることを思いついた。

1977年、ヤマハの音楽コンテスト「EastWest」に出場して入賞し、桑田はベスト・ボーカル賞を獲得する。

レコード会社がビクターに決まる。事務所は1977年に設立されたばかりのアミューズの大里洋吉氏が興味を持つ。当時は原田真二の個人事務所のような感じで、大里がサザンに出会う2週間前に原田が辞めたばかりだったが、もし原田が辞めていなければ、サザンをやる余裕はなかったという。
1978年6月25日、シングル「勝手にシンドバッド」でビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からデビュー。

当初はコミックバンド路線で、テレビで彼らを観たいかりや長介は桑田を気に入り、ドリフターズへの加入を打診してきたという。

1979年3月、3rd シングル「いとしのエリー」をリリースし、本格派の歌も作れることを示した。宮川泰や南こうせつが大絶賛し、サザンの代表曲のひとつとなった。

アーティスト

BARKS

BARKSは2001年から15年以上にわたり旬の音楽情報を届けてきた日本最大級の音楽情報サイトです。

新着