【連載】中島卓偉の勝手に城マニア
第63回「青柳城(長野県)卓偉が行っ
たことある回数 1回」

なんだかすぐもう一回来たい、すぐそんな気にさせてくれた城、青柳城である。ちょっと癖になる城だ。当然のごとく癖になるだけのディティールがあるわけだがこの城にしかない独特な作りがマジでたまらない。初めて訪れたのは去年の2016年、tvkのミュートマ2でのロケであった。私もノーマークだった青柳城、私は音楽シーンから18年もノーマークであるが。間も無く19年目に突入する中島卓偉だが引き続きぶっちぎりでノーマークな活動を余儀無くされる。
そんな青柳城。正式には「あおやぎ」とは呼ばず「あおやなぎ」呼ぶのが正しいとされる。上野にある不忍池も「しのばずいけ」ではなく「しのばずのいけ」が正しいとされる。レッド・ツェッペリンも「レッド・ゼッペリン」が正しい。いい加減こういう日本読みの英語、訂正した方がいいと思う。レモネードの発音がラムネになって、でも現在はレモネードとラムネの味って違うしさ。これから英語を勉強する次世代は街の外れでシュビデュバ~さりげなく大迷惑だ。だがBUCK-TICKと書いて「バックティック」と読ませず「バクチク」と呼ばせるBUCK-TICKさんは最高なセンスである。さすが日本が誇るニューウェーブバンド。いやもはやジャンルなどでは括れない世界最高のバンドである。考えてみたらBOOWYもそのまま読めば「ブーウィー」だがそれを「ボーイ」と呼ばせてしまう感じ、やっぱり群馬県出身のバンドはセンスが違うぜ。さて今回紹介するのはそんな群馬県じゃなくそんな群馬県の隣にある長野県の城だ。一瞬ユニコーンの話が出たけど敢えて広げない感じ、嫌いじゃないぜ。
城マニアな私でも行ったことがなかった青柳城は、実に素晴らしい城だった。もっと評価されたい。まず何と言っても城の地形、縄張りが最高だ。城の大手が山の中腹にあり、城の中心部に向かって降りていく作りになっている。同じ長野県で言うと小諸城もその部類だ。途中の曲輪にアップダウンがあり、土塁を登る場所もあるが間違いなく大手より本丸の高さの方が低い。よって大手から攻められることを警戒した上で作られた堀切がマジで凄い、凄いのは二重になっているところである。堀切が二重!?平らな場所に溝を切って作る!まさに二重まぶた整形!すでに最高だ。これを目の当たりにするだけで、感動は半端ない。しかもこの堀切は竪堀になっており、両サイドは谷に落ちている。目頭も目尻も垂れる二重まぶた整形手術だ。しかも城内に二重堀切が二箇所も存在する。なんだと?二重まぶた整形手術を二回!?青柳城と言えばまずこの二重堀切、これが一番の見所と言っても過言ではない。あまりにもパッチリな二重にし過ぎて寝てる時も目が閉じず半開きな目、言ってる意味がよくわからない。
築城は1200年代の前半くらいと推測されている。いろんな城主がいるがやはり城の呼び名通り、青柳氏であろう。900メートル近くある山の先端に城を築いているのだが、周りの山はもっと高いし、盆地の中で突き出た山の途中に築城してることもあり、砦に近い感覚もある。もっとも長野県の城は砦っぽい城が実に多い。良い山が多いだけに、どの山をどうやって使って城を築くか、そして城下町をどう広げるか、城主達は頭を使ったはずだ。徳川幕府が始まる前、戦国時代が終わりにさしかかろうとしていた1587年に廃城となってしまった青柳城だが、城の麓には館の跡もあり、町の作りも城下町の名残が残っている。町の交通を考えて観光地となっている「大切通し」や「小切通し」などが今でも機能している。善光寺にお参りに行けるように作られた通路とも言われており、この周辺の人たちがいかに善光寺を大切にしていたかがわかる。いかにも長野県と言った感じだ。そして何より青柳氏が庶民に対し移動の手間を考え、山を越えることなく切通しを歩けば楽に行き来出来ることを考慮した結果である。素晴らしい。中島卓偉と同じくらいの気遣い屋さんだ。ロケの冒頭のコメントはこの大切通しのど真ん中で撮影をスタートさせたのだが、岩を切り開いた空間は見事なまでのアンビエンスでとってもライブな音だった。響く→ライブ。響かない→デッド。音楽界ではそう呼ぶので覚えていてほしい。ミュージシャンはスタジオに入るとクラップしてアンビを確認してしまう癖があるのだが、私もすかさず手を叩いて響き具合を確認。ライブだとわかるとすかさず「HEY!」と大きな声を出してしまった。ここでドラムを録ったらマジでかなり良い音で録れると思う。国道だけに絶対に無理なのはわかっているのだが最高なアンビだった。出来るならここでドラムを叩くよりもでかいケツをスパンキングしてみたい。そう、あなたにはお尻という素晴らしいものがあるのだから。
ちなみにボーカリストとドラマーはライブな場所を好むがギタリストとベーシストはデッドな場所を好む傾向にある。よってライブするハコによってもアンビエンスは変わるので楽器のパートによってやりやすさ、歌いやすさ、叩きやすさ、弾きやすさは違うのである。よってやり易さ、やりづらさが理由で簡単に解散するのがバンドである。いやボーカルの失敗した二重まぶた整形か引き金になったかもしれない。だいたいお前寝てる時も目が開いてんだよ!とか言っちゃってな。ちなみに私が日本で一番好きなハコは名古屋ダイアモンドホールである。超ライブ、超歌いやすい。昔ダイアモンドホールでリハを終え、良い音とやりやすさにテンションが上がり、ケータリングのポットでカップラーメンにお湯を注ごうと思ったらコーヒーのポットで、私、カップラーメンにコーヒーを注いだ経験がある奴になってしまった。是非皆さんも同じことをして、むしろ食ってみてほしいと思う。むしろブラジル人と中国人の会話を成立させてみてほしいと思う。いや、ブラジル人と中国人の両方に謝ってくれ。二重堀切を二重まぶた整形にかけて、どうもすみません、ってな。
城の麓に館の跡があると書いたが本来はここを住居にして、いざ戦となると城まで登っていたとされる。城の麓にある清長寺から三の郭に届く道が残っている。これが本来の城への道となっているがこれを本気で登るとなると見学に半日かかってしまう。現在は城の大手とされる入り口付近まで車で登れるようになっている。その見学は城マニアとして邪道だが体力に自信がない方にはお勧めしない。と言っても我々もロケする時に車で上まで来ちまったけどな。そしてこの入り口に当時はこんなだったと思います的な模擬の城門が復元されている。模擬の城門が復元?なんか言い方おかしくないか?と思うのだがスルーして行こう。この放送の後にいろんな人から
「卓偉くんさ~こないだの青柳城だけどさ~あの城門はさ~あり?なし?」
こういう質問が多いのよ、ここ最近ね。まあ愛を持って言わせてもらうが、当然全然、
なしだよ…。
そりゃそうですよ。いかんよ。もうやめて~。正直この門に金かけるなら堀切を当時の深さに復元して欲しいし、本丸の布目積みの石垣の修復とか?ちょっとした土塁の虎口の復元とか?もしくは中島卓偉のシングル?もしくはアルバムの?制作費?またはツアーの衣装代?ステージ制作費?その辺に?うん!まわしてほしかった的な?思うよね~。まあええか。
確かにこういう門や塀があるとマニアじゃない人からすると雰囲気があってタイムスリップした感もあっていいのかな。でもさ、もっと自分たちの国の歴史に自信持って良いと思うんだけどな。間違ったこと伝えてもしょうがないやんけ。客寄せの意味もあるんでしょうが、それも結局一時的なもので終わってしまう場合も多いしさ。確かなデータが残ってないならまずは発掘調査にお金をかけるべきだし、それでも新たなデータが出てこないなら場内の掲示板にわかってるだけの歴史をわかりやすい文章で書いておくだけで良い。不明な点もありますと正直に書いてくれる方が歴史がより深くなると私は思う。真実は戦国時代の人にしかわからないわけだからね。わからない謎があるから歴史は面白いと思うわけ。話を盛るのは絶対に反対。作り話もうんざり。真実も知らないのに語っちゃううざいファンと同じ。そんなのなくてもこの青柳城は凄い城ですよ。とてつもなく素晴らしい城だとマニアは評価してます。本郭から見える景色。最高じゃないですか。布目積みの石垣も必見。見学は不可でも本郭の真下には更なる堀切も存在しているし、ところどころに小さな曲輪も残っている。城のスペースが非常に細くて長い青柳城だが、その周りにある木で隠れたディティールにマジで感動するのである。
このロケの放送の後に、友達の嫁さんが「青柳城で卓偉くんの後ろに男の人が写り込んでたよ!マジで幽霊っぽかったんだけど?どうなの?」という個人的な問い合わせがあり、意外にもこの話題がどんどんでかくなり、なんと?卓偉の番組で幽霊が?写り込んでる?マジで?と身内から盛り上がり始めた。しかもロケ中に他の見学者は一人も見かけなかったのだ。マネージャーの砂田とVを確認したり、番組ディレクターの天才菊谷さんにも連絡を取ってみたところ、菊谷さんが見ても、確かに!なんか写り込んでる!という事態に。
そんなある日砂田が言った。
「うぇーっと、僕の方でも何度か確認しまして、まあ確かにここだけ見れば、幽霊っぽく見えなくもないっていうか、うぇーっと、でも多分これ、一瞬映ってる男性って、まあ、なんていうか、うぇーっと、僕、ですね、芝生で滑ってカメラにちょっと抜かれたちゃった、んすかね。」
お前かい。
あぁ 青柳城 また訪れたい…。

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