Ian McCulloch

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    Ian McCullochイアン・マッカロク

    リヴァプールの顔役、エコー&ザ・バニーメンは、70年代末から80年代初頭のイギリスのニュー・ウェイヴ・ムーヴメントの頂点にいたバンドであり、イアン・マッカロクはそのフロントマンとして、常に注目を集めていた男だった。ほとんど同時期にデビューしたU2と比べても、当時の彼らのポテンシャルは圧倒的に図抜けていた。
    イアン・マッカロクは59年5月5日生まれ。77年5月、パンク・ムーヴメントの最中に、ジュリアン・コープ、ピート・ワイリーらとザ・クルーシャル・スリーというバンドを組む。だがバンドはたった1回のギグで6月には解散、78年7月にイアンとジュリアンが中心になってア・シャロウ・マッドネスが結成されるが、両雄並び立たずこれも9月になって解散。イアンは10月に初のリーダー・バンド、バニーズを結成、ジュリアンらはティアドロップ・エクスプローズを結成する。
    79年3月にシングル・デビュー。当初はドラマーがおらず、リズム・ボックスで代用していた(「エコー」とは、当時使っていたリズム・ボックスの名)。やがてドラマーが加わり4人組となったバニーズはワーナー傘下の<コロヴァ>と契約、翌80年7月に1stアルバム『クロコダイルズ』を発表する。
    ドアーズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響下にありながら、いかにもイギリス的な陰りを帯びた比類なく美しく激しいサウンドは「ネオ・サイケデリック」とも言われ、高い評価を受ける。とりわけジム・モリソンを思わせる深く神秘的なイアンのヴォーカルはカリスマ的なオーラを放ち、ウィル・サージャントのキラキラと輝く狂気を帯びたノイジーなギター・プレイと共にバニーズの魅力の中核をなした。『ヘヴン・アップ・ヒア』(81年)、『ポーキュパイン』(83年)と歴史的名作を立て続けに発表した彼らは足早にシーンの頂点に立つ。
    しかし本来微妙なバランスの上に成り立つ精巧なガラス細工のようだったバニーズの音楽はそれ以降バランスが狂いはじめ、バンド内部のゴタゴタやイアンのアルコール耽溺も手伝い、修正するいとまもないまま88年7月に解散。ソロとなったイアンは2枚のアルバムを発表するが、凍てついた氷の世界のような清冽で透明なバニーズ全盛期の姿はほとんどうかがえなかった。
    しかし94年、イアンとウィルによるユニット、エレクトラフィクションの結成をきかっけに切れた糸はたぐり寄せられ、バニーズは再結成、97年に再結成第一弾『エヴァーグリーン』を発表してからは順調に作品を重ねている。残念ながらその出来映えは全盛期にはまだ遠いが、レトロスペクティヴなボックス・セット『CRYSTAL DAYTS』をリリース、フジ・ロックのパフォーマンスが高く評価されるなど、バニーズへの再評価の機運は高まっている。リヴァプールの貴公子/ビッグマウスの復活を、誰もが待っている。 (小野島 大)

    曲・アルバム

    • Slideling

      2003年01月01日リリース
      アルバム・6曲

      • 1 Kansas
      • 2 Arthur
      • 3 Seasons
      • 4 Love In Veins
      • 5 Playgrounds and City Parks
      • 6 Baby Hold On

      Slideling