アレルギー

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    アレルギーアレルギー

    アレルギーは、後にデ・ラックスのヴォーカリストとして人気を集めた宙也(現ルーパス)がかつて率いていたグループであり、80年代前半の東京のインディーズ・シーンを代表するバンドのひとつだった。
    81年結成。同年9月に新宿JAMスタジオでデビュー。マダム・エドワルダ/チャンス・オペレーション/メトロファルスといったバンドとの対バンを繰り返しながら次第に評価を高め、82年11月からは新宿ロフトにてシリーズ・ギグ『副都心—副作用第二幕劇』を開始。12月には<徳間ジャパン>からのオムニバス『レベル・ストリート』に参加、翌83年には、雑誌『DOLL』が主宰するインディ・レーベル、<シティ・ロッカー>から1stアルバム『アレルギー作用』を発表する。
    アレルギーは当時勃興していたハードコア・パンクのムーヴメントとの関わりも深く、その文脈で語られることも多いが、サウンド的には、熱心な洋楽リスナーでもある宙也の嗜好を反映してバウハウスやジョイ・ディヴィジョンの影響も色濃いポジティヴ・パンク〜ネオ・サイケデリック的なニュー・ウェイヴ・ロックの要素も強くもっていた。そして、後にデ・ラックスで全面的に開花した宙也の軽やかなポップ・センスも見逃せないところだ。サディ・サッズ/ガーゼ/BOφWY/町田町蔵/オート・モッド/シーナ&ザ・ロケッツ/E.D.P.S./ゼルダ/ローザ・ルクセンブルグ/スタークラブ/パーソンズ/P-MODELなどが当時アレルギーと対バンをつとめたバンドだが、これをもってしても彼らがひとつのジャンルにとどまらない幅広いサウンドと支持を得ていたことがわかる。
    人気のピークを迎えた84年には、後に宙也自らが最高傑作と語ったシングル「J.B.の夢」を発表。85年にはメジャー進出が決定するも、1月の法政大学ホールでのライヴを最後に解散。解散後の4月に唯一のメジャー・リリース・アルバム『El Dorado(黄金郷)』を発表している。A面が解散後にスタジオ録音した新曲、B面がライヴという構成だが、特にA面は後のデ・ラックスに直接的に通じるポップかつダンサブルなサウンドが全面展開されている。
    解散後、ギターの小野昌之はスターリンで、ドラムスの荒木康弘はP-MODELなどで、ベースのU子はパフォーマー古庄信夫と"水の羽"で、それぞれ活動。U子は92年フランスで急死し、それ以来宙也はアレルギーの歌を歌うことを封印している。 (小野島 大)

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