【氷川竜介の「アニメに歴史あり」】
第45回 音楽、スポーツアニメの次な
る革新

(c)2023 映画「BLUE GIANT」製作委員会(c)2013 石塚真一/小学館 3月18日から21日まで「第1回新潟国際アニメーション映画祭」に参加していた。押井守監督を審査委員長として世界中の長編映画を審査する点に新規性があり、初回でありながら作品と参加作家の豪華さで注目を集めたイベントだった。登壇中心の筆者は、数本しか上映を見られなかったが、知っている方に多く出会い、楽しい時間を過ごした。たいていの方とはコロナ禍をはさんで3年ぶりぐらいの再開なので、貴重でもあった。

 帰路、新潟駅に向かうタクシーの中で、すこし驚くことがあった。年配のベテラン運転手と話しているうちに、筆者がアニメーション映画祭への参加だと分かると、こんな興味深い話をしてくれたのである。
「私もね、最近アニメ映画を見ましたよ。『BLUE GIANT』です。いやあ、すごかった。驚きましたよ。でもね、あの、なんて言うんですか。CGは良くないね」
 SNSですでに話題になっていたのと同じオチがついて、思わずコケそうになりながらも、「こんな一般層まで届いているのか」と感服した。2月17日公開からロングランになっているのも、納得である。
 「すごい」という感想は筆者も同じである。クライマックスの演奏とアニメーション表現の一体感がもたらす高揚感の中、言葉を失った瞬間がある。ストーリーや構成の階層では「ここならこう来るだろう」と予想の範疇だから、そこに驚きはない。もちろん演奏それ自体が素晴らしいのは大前提である。
 昔から「音楽もの」の漫画に「天才的に超絶なる音楽家」が登場するたび、「アニメ化したら、ホントにそんな演奏を聴かせないとならないな」と思ってきた。そんな困難を乗りこえてきた歴史もある。「涼宮ハルヒの憂鬱」や「のだめカンタービレ」などでは先行して卓越した音楽を録音し、それに演者の動きをシンクロさせることで難題を乗りこえてきた。「BLUE GIANT」をその文脈に位置づけることはたやすい。
 しかし、それだけでは今回の「驚き」が発生する理由としては不足だ。何か既存の「音楽もの」の限界を更新した気がしてならない。それでは映像表現に何か新しさがあるのか。困ったことに単体で見れば、そういうわけでもない。カット毎に選ばれた演出は様式やクオリティの統一感を無視してバラバラである。カメラワークの移動感で見せたり、色彩と光のエフェクトで音楽のもつパッションを代弁したり、プレイヤー同士の演奏のグルーブ感や呼吸を見せたりしている。
 この適材適所の即興感が、ジャズ演奏に向いていた可能性はある。そして音と光、動きに生じる相互関係の変動が高次の響きあいとなって、観客の心を鳴動させたのだろうか……。と、鑑賞後にいろいろ考えたのだが、要素をひとつひとつ分解しても、これはダメだなと気づいた。これは言語化の敗北である。しかし新しい地平が垣間見えたことで、心地良い敗北でもあるなと、感動の余韻とともに確信を得た。
 本作の立川譲監督には、「デス・ビリヤード」(文化庁若手アニメーター支援事業「アニメミライ2013」)で取材をしたとき以来、今敏監督の助監督をしていた経験への親近感もあって卓越したものを感じていた。実際に「名探偵コナン ゼロの執行人」(18)で長期シリーズを次のステージに持りあげ、「名探偵コナン 黒鉄の魚影」(公開中)では興収100億円のカベを突破しつつあって、今後も目の離せない監督のひとりとなった。
 「BLUE GIANT」の感想を問われると、筆者は「これは見たことのないタイプの作品だ」と言うようにしている。これだけ長くたくさんのアニメを見てくると、すごいかどうかの価値に、あるレギュレーションが生じてくる。しかしレギュレーションをハミ出たり、レギュレーション自体を書き換えられてしまうと、丸裸になって戦うことになる。それがむしろ楽しい。そして驚くべきことに、類似の映画が近い時期にもうひとつ出ている。それが「THE FIRST SLAM DUNK」(2022年12月3日公開、ロングラン中)である。
 原作者の井上雄彦先生自身が監督と脚本を手がけたのみならず、3DCGの要所要所に修正を入れることで、既存の表現技法を突破した。「原作漫画の絵柄を保持したまま終始崩れず動き回るアニメーション映像」は、長年誰もが理想と夢みながらも、集団作業で成立する制作的限界で果たせなかった。だが、そこを突破した。だから「これは見たことのないタイプの作品だ」と共通する感慨が出ていた。
 そして2作並べると、もうひとつ共通性が見えてくる。「BLUE GIANT」の成果は「音楽鑑賞をしているときの生理的体感や興奮をアニメーションが再定義し、ひとつ上位の芸術性を獲得した」と位置づけられる。この「音楽」のところを「スポーツの試合」に置き換えたのが「THE FIRST SLAM DUNK」だ。表面的なジャンルを越えた共通性が存在する。
 SNSで後者の感想を見た結果、興味深いことも分かってきた。バスケットの試合中継を見ると興奮する。しかしライブ中継であるがゆえに、カメラが必要なタイミングで必要なアクションを切りとっているとは限らない。試合会場にいても同じである。だから観衆はバスケットのルールなどを学習し、試合の場数を踏んで展開の経験値を積み、見えなかったことを脳内補完しながら、試合を楽しむ。ところがこの映画は、必要なところを的確に全部見せているので、リテラシーが高まったという。
 自著でも強調している「アニメーションの効能」のひとつに「世界観の更新」がある。アニメ世界とは、何らかの手段やフィロソフィで現実を分解して再構築したものだ。だからそれを見ることにより、既存の「世界の見え方」が更新される。この原理が、両作とも「芸術・スポーツ鑑賞」に対して発動したと考えられる。
 「これは今年の映画賞を選定する審査委員は大変だなあ」と他人事のように思っていた矢先、早くも両作が「第42回藤本賞」(主催:一般社団法人 映画演劇文化協会)を受賞したというニュースが4月18日に入ってきた。自分の考える革新性は、他の方も評価していると思う一方で、自分にとってとても気になることを思い出した。
 20年ぐらい前、アーティストの村上隆さんと雑談したときのことである。当時の氷川は「評論」に対して大変懐疑的であった。「業界の上澄みをすすって生きている提灯記事野郎」みたいな罵倒がネット上で何度もあり、未来を変える役に立てるのか、疑問に思うことが続いていたのだ。そのとき村上さんは、概要こんなことを語ってくれた。
「すぐれたジャズの名演奏があったとする。超絶なプレイを体感した時間は、プレイヤーとその場にいたオーディエンスだけのものだ。レコード録音があったとしても、その興奮を完璧に再現することは不可能となる。しかし芸術は歴史を積むものでもある。演奏が残るのであれば、後になって、新しい世代がその日その時の感動は何だったのか、追いかけてみたくなることもあるだろう。それが何だったのか、来歴を筆頭に言語化して分析した評論は、そのときにこそ必要とされる」
 いまだその域に自分が達したとは思いがたいが、それはさておき。
 2作を並べると、ここで言う「評論」のクリティックな役割を、実作で具現化したことにも気づいたのである。現時点では特殊事例すぎて、両作とも後続を多く生むことは考えにくい。しかし若干抽象化して、「あるクリティックな役割をエンターテインメントの枠組みで実現する姿勢」であれば、まだまだ他にも無限に応用が効きそうではないか。
 そんな「未開拓の地平」が目の前に現れたことに、次なる革新を予感して、大きな喜びを感じているところである。
付記:3月末で明治大学大学院特任教授は任期満了で退官しました。再任の予定もありますので、その際はお知らせします。

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