その音楽は限りなく自由に、時空を超
えて羽ばたく 角野隼斗の「現在地」
を体現した全国ツアー“Reimagine”
、圧巻のファイナル公演

あらゆる芸術家は、吸収と模索を繰り返しながら、ときに凄まじいパワーを放出する。

「ピアノの時代」を象徴する角野隼斗は今、その幸福な爆発期にある――。2023年3月、2か月にわたって繰り広げられた全国ツアー“Reimagine”は、そんな角野の「現在地」を示す圧巻の千秋楽をもって閉幕した。
舞台は、東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル。高い天井にピラミッド型の天窓、その下には巨大なパイプオルガン。礼拝堂を思わせる荘厳な空間に、グランドピアノとアップライトピアノがぽつんと並ぶ。
前半はバッハ、ラモーというバロックの大家と、20世紀の奇才フリードリヒ・グルダを往来しながら「クラシックとジャズの共通点」を探す旅。定刻を過ぎるとステージに角野が現れ、ピアノに対峙した。
鳴り響いたのは、バッハのインベンション第1番。シンプルな旋律が捧げられるように丁寧に紡がれた――かと思うと、おもむろに立ち上がった彼は背後のアップライトに向き直り、同じ曲をアレンジ。何が起こるかわからない、「自由な音楽の世界」の幕開けだ。
2曲目はラモーの新クラヴサン組曲集第2番から、「雌鶏」と「未開人」。フレンチ・バロックの名品もまた、角野の手にかかれば時空を超える。時に立ち上がり、指を鳴らし、縦横無尽に駆けめぐる音。そのままグルダの「プレリュードとフーガ」に流れ込んだことにも気づかないほど、自然で、心地いいグルーヴ。グレン・グールドや、現代のジャズ奏者たち――さまざまな出会いを経て、バロック音楽の自由なあり方に気づいたピアニストの歓びが炸裂する。
「“Reimagine”の意味は再構築、(クラシック音楽の魅力を)新たにとらえ直すという思いをこめてつけました。古いものを新しく感じたり、異なる音楽に親和性を感じたりする経験をしてもらえたら」。演奏後こう語った彼は、つづいて16公演のツアーをともにしてきた傍らのアップライトを紹介。「アップライトの音の、やさしさと懐かしさが好きです。ひとり部屋で弾いているような、内省的な魅力がある」と添えた。
4曲目は、そのアップライトで作曲された「追憶」。ショパンのバラード第2番の旋律を、角野自身が解釈した作品だ。照明が落とされ、スタンドライト一つを残した暗がりは親密で、ピアニストの動きに合わせ揺らぐ光と、浮かび上がるシルエットが美しい。音が響いた瞬間から無意識に潜水し、高い天井へと浮かび上がっていくような感覚に震えた。
残響の中、あえかな光がパイプオルガンを照らすと、曲はバッハ「主よ、人の望みの歓びよ」へ。打鍵の音、かすれる弦の音を強調したアップライトピアノが、ギターのように響く不思議。前半を締めくくったバッハ「パルティータ第2番」の、鮮烈かつ遊び心に満ちた表情も含めて、まったく新しいバッハとの出会いだった。
後半は、角野隼斗による「胎動」でスタート。ショパンのエチュードOp. 10-1からインスピレーションを受けて作られた、未来への希望の曲だ。つづく「Human Universe」は、角野が愛する宇宙への旅。バロック風の旋律が自由に壮大に展開していき、天空をかけめぐって地上に帰結する。
目玉となるカプースチン「8つの演奏会用エチュード」は、8曲の間にバッハのインベンションをはさみ、4つのスタンドライトによる「二進法」で楽曲の番号を知らせるという角野らしいアレンジ。聴いているうち、どこからどこまでが誰の曲かあいまいになっていく、不思議な「再構成」。ともに数学を愛したバッハとカプースチン、そして角野の共鳴が伝わる、白熱の11曲だった。
過去現代を往来し、宇宙まで旅をする。広がり続けるピアニストの好奇心が表出したようなプログラムに、彼が以前語っていた「巨人の肩の上に乗る」という言葉を思い出す。先人たちが積み重ねてきた学問や技術があってこそ現在がある。角野はつねに、その言葉を楽しそうに実践している。
もう一つ、会場につめかけた人々が忘れられないのは、アンコールでの出来事だろう。
拍手に応え、4つのスタンドライトが15までをカウント。その後、暗闇の中でパイプオルガンの傍らのライトが点る。そこに現れた角野の姿に、会場のボルテージは一気に上がった。挑戦をほのめかしていた、パイプオルガン演奏を披露してくれたのだった。
まるで、ホールが一つの楽器になったようだった。赦しに満ちたバッハの「G線上のアリア」と、荘厳かつ峻烈に響き渡る「Human Universe」。体中を震わす音と振動に涙が止まらなくなったし、周囲の人々も同様だった。
それはたぶん、角野から万感の思いを受け取ったからに違いない。彼は語る。「このツアーは新しい挑戦だらけでした。でも、やりたいことをサポートしてくれるチームがいたので……Lonelyじゃなかった」。
どんなに出会いに恵まれていても、表現者は、最後にはいつも孤独と向き合う。自ら探して得られたものだけが、自分の力になる。「怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ」と岡本太郎は言ったが、そこに至るにはどれほどの覚悟がいることだろう。
すべてを乗り越えたところに、この景色があるのだ――。観客総立ちのカーテンコールの中で、そんな感慨を噛みしめた。
自由と孤独の先にある、音楽への愛。それこそがあの一体感を生み出すのだと。
取材・文=高野麻衣  写真=Ryuya Amao

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