イッセー尾形「人は生きているだけで
面白い」~古希の節目に10年分のセレ
クトで構成する『イッセー尾形一人芝
居』インタビュー

2022年12月22日(木)~12月24日(土)有楽町朝日ホールにて、『イッセー尾形一人芝居 妄ソー劇場・すぺしゃるvol.4』が開催される。
市井の人々のわずかなしぐさや言葉を瞬間的にとらえる一人芝居の第一人者として、長年国内外での公演を重ねてきたイッセーが、フリーになって10年、そして古希という節目を迎え、これまでの10年の間に演じた中からセレクトした特別なステージを届ける。
演目は当日のお楽しみとのことだが、どのようなステージにしようと考えているのか、イッセーに話を聞いた。
いつだって進行形で「これでおしまい」というのはない
ーー今回は10年分のセレクトということですが、10年前にフリーになられたときから作品の作り方というのは変わったのでしょうか。
それまでは作ったものを一度演出家に見せて、反応をもらってまた作り変える、という作業があったのですが、それがなくなりました。でもやっぱり客観的な視点は必要ですから、まず一回書いてみて、一週間ぐらいしてからそれをもう一度読んでみて、「ここは違うだろう」みたいな自己対話を繰り返して作っていきます。前に比べるとじっくり作品と向き合う時間は多くなりましたね。
イッセー尾形
ーーご自分で時間をかけて練り上げる面白さもあるのでしょうね。
それもありますし、終わりがないな、とも思います。ノートを開くたびに「ここ違うな」とか思いつくんですよ。それはもう「そういうものなんだな」と諦めています。ネタにしても、自分の活動にしても、いつだって進行形で「これでおしまい」というのはないんだ、と。
ーー過去のネタを振り返って変えたくなる部分も出て来るのではないでしょうか。
人間のとらえ方については変わっていないと思うんですけど、10年前と今ではこだわっているものが違うと思います。もっと視野が広くなったというか、視野が移動したのかもしれないな、という気がしますね。前はここを面白がっていたけど、今は違うところが面白くなっちゃった、みたいなね。じゃあ前に面白がっていたところは忘れたのかというと、そうではなくて残像として残っているとは思います。そうやって世の中のことを今の自分なりの切り取り方で観察して、作品を作って、という作業ですね。年齢が変われば変わるほど、また違って見えたりもするし。頑固になりましたね、ってよく言われるんですよ。年を取ると「自分は正しい」ってみんな頑固になるんですよね。
ーーイッセーさんは非常に柔軟な方だというイメージがあります。
いやいや、もっともっと柔軟になりたいですよ。古希という節目を迎えたんだから変わらなきゃいけない、みたいな空気感がむしろ軽いプレッシャーかもしれないです(笑)。ただ、年取らない部分っていうのは自分の中にありますよね。小学校3年生の頃、真夏に坂道を上りながらザリガニをバケツで運んだことをよく思い出すんですよ。その時のザリガニの感じとか、真夏の日光とか、石垣とか、そこから出て来るトカゲとか全部覚えていて、いくつになっても新鮮にそのときのまま現れるんです。だから古希といえど、そうやって永遠に年を取らない部分も自分の中にあって、二つの時間を生きているような気がしないでもないです。芝居って、演じているのはいつだって「今」なんですね。「今」の自分、そして「今」を見ているお客さんで成り立っている。でも「今」の中には「過去」が兼ね備えて入っている。そんなことを一人芝居で表現できないかな、というのが私の夢です。
イッセー尾形
人は生きているだけで面白い
ーーイッセーさんから見て、コロナ前とコロナ後で人々が大きく変わってしまったなと思う部分はどのようなところでしょうか。
マスクをして顔の下半分が見えなくなっちゃった状態で人と人が会ったときに、目だけで読み取ろうとしますよね。見えている部分がうんと狭くなっちゃっている分、人と人との関係も狭くなっちゃっているんじゃないかなという気がします。ただ、人間ってだんだん慣れていくんですね。慣れるというのは人間の持っている能力のひとつで、世界を受け入れていく方法でもあると思います。でも、狭まったことに慣れてしまうことで、それが狭まった状態であることを忘れてしまう、あるいは狭まった状態であることを知らない、というのは怖いことだなとも思いますね。
あと、コロナ禍の始まりの頃は、オーバーシュートだとかクラスターだとか、いろんな新しい言葉が出たでしょう。それと、何百人とか何千人といった数字も日々飛び交うようになりました。非常に抽象的な言葉と数字があふれて、それとどう関わればいいのか非常に戸惑いましたよね。コロナというのは、価値観を揺るがすくらいの大きい出来事だったんだろう、とはとらえていますが、開かれた世界がやってきたわけではなく、閉ざされた世界がやってきたというのが大きな印象です。じゃあ一人芝居で何をやるかと言うと、コロナで閉ざされた人たちを演じなきゃいけない、閉ざされたからにはそれを跳ね返す力、庶民が“どっこい生きている”っていう表現をどうにか探さなきゃいけない、というのもテーマのひとつですね。
ーー閉ざされた世界の中から笑いを見つけていくことは、難しさもありそうです。
笑いというのは、ひとつの認識なんですね。何かを認識したから笑うのではなくて、笑いそのものが認識なんです。「笑い」は時代に影響されることだし、かつ普遍的なことだし、ということをどのように見定めるのかをいつも探しています。人は生きているだけで面白いんです。人間そのものが笑う対象であり、笑う認識であるという確信というか、そうであらなければならない、そうありたい、という願いを持って自分の活動に取り組んでいます。
ーーコロナ禍ならではの人間の面白さ、というのはどのようにご覧になっていますか。
例えば、中華料理店で餃子を注文した客にお店の人が「麦茶でごめんね、餃子だったらビール飲みたいよね」って謝った後で、客がノンアルコールビールを注文して出されたものを飲んだら本物のビールだった、っていうネタをやりましたね。飲食店でアルコールを提供できなかったときがありましたからね。あと、地方にいて就職を控えている女の子が、コロナ禍で東京に行くことを諦めて地元の市役所に勤めることにしたけれど、友達は東京に行ってしまう、というネタがあって、その女の子が視力検査をしたら老眼だと言われてしまうんです。「18歳なのに老眼なんて、そんなの私じゃない」って思うんだけど、でもそれが現実で、そういう自己イメージと実態の分離と、東京に行くはずだった自分との分離と、友達との分離とを重ねた劇構造にしました。それをお客さんが笑い飛ばすことで、女の子の状態をおかしいと笑うと同時に、その状態を突き破ろうとしている女の子に賛同してくれるところもあるんだと思います。やっぱり「笑い」という認識には力があるんですよね。
ーーコロナ前の作品もやることになると思いますが、コロナ禍にコロナ前の作品をやることで何か変化を感じたりはしますか。
大して世の中変わってないな、と思いますね。今ぱっと思い出したネタが、コロナ前からやっている「記者会見」というやつで、ひたすら頭を下げるんですね。とにかく頭下げればいいんだっていう、それはコロナで加速されたかもしれないですね。謝罪会見とか、日本は特にそういう儀式が好きじゃないですか。そうやって、コロナ禍を経ても結局変わっていないことも脈々とあるなと思います。「コロナで全部変わっちゃった」ということにしてはいけない、という思いはどこかにありますね、「そんなもんじゃないだろう」と。
イッセー尾形
観客がばらけた視線になるということが大事
ーー今年4月の近鉄アート館での公演の前に行われた記者会見で「人間は追い込まれてナンボだと思う」といった主旨のコメントをされていました。
舞台の上というのは、追い込まれた状況の最たるものですからね。お客さんが笑う保証なんてひとつもないんですよ。これをやれば笑ってくれる、という直取引はお客さんとの間にないですから。清水の舞台から毎回飛び降りてます(笑)。追い込まれているときは孤独だし、そのことを笑うという作業も孤独ですよね。なんの保証もない中で、自分で何とか得ようとする力、それが「笑い」とダイレクトに繋がる力だと思います。人に何かを与えるとかそういうことではなくて、自分のために一生懸命汗を流してやることが何かの力になるだろう、と自分で信じているのが大きいです。
ーー今は(取材時)三人芝居のお稽古(ハロルド・ピンター作、小川絵梨子演出『管理人/THE CARETAKER』(以下、『管理人』)をされているところですが、相手役がいる芝居をすることで一人芝居に還元されたり触発されたりすることはあるのでしょうか。
一人芝居って、ダイアローグのふりをしながら結局はモノローグの世界なんですね。だから『管理人』で相手役がいる状態を体験してから一人芝居に戻ることで、より楽しめるようになると思います。でも、一人芝居だと語りかけても返事するのは自分自身でしょう。『管理人』で誰かが応えてくれるのに慣れちゃったら、一人芝居に戻ったときに誰も応えてくれる人がいないことが寂しくなるかもしれないですね(笑)。あと、僕の一人芝居はひとつの役をずっとやるわけじゃなくて、何役も代わる代わるやるんです。『管理人』とか「リア王」でもいいですけど、演劇というのはひとつの役をずっとやるわけですから、それは大きく違うところだと思います。人物がいっぱい出てくることによって、観客がひとつの視線に固定されない、ばらけた視線になるということが大事だなと思っているんです。
ーー一人芝居は「究極の演劇」などと言われることもありますが、一人芝居の第一人者として長くやってこられたイッセーさんにとって、一人芝居とはどのようなものだと思われますか。
僕の場合は自分でセリフを書いているので、舞台の上で演じる人物は自分と離れていない、くっついてるんですね。言ってみれば劇作家が自分で演出もして演じているようなもので、それが逆に頼りになる部分でもあるんです。舞台の上に立ったとき、生身でのお客さんとのやり取りじゃなくて、「書く」というワンクッションを置いた上でのやり取りといいますか、書いたものを演じているんだ、という感覚なんです。お客さんが見ているのは生身の僕ではなくて、書かれたものを通じた僕を見ているんですね。生身の自分を見られるほど不自由なものはないですからね、それだと身動きが取れなくなってしまう。だからどれだけ生身から離れて自由になれるかが大切で、自由になれるからこそこれからも一人芝居を続けていけると思っています。
イッセー尾形
取材・文・撮影=久田絢子

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