【編集Gのサブカル本棚】第17回 映
像作品を見返す効用と「映像言語」

 映画やアニメを見返さず、見るのは基本一回だけという人はけっこう多いと思う。同じ作品を何度も見るより違う作品を楽しみたい、そもそも見返す意味が分からないという人も多いのではないだろうか。筆者自身もある時期までそうだった。

 Amazon Prime VideoやNetflixなど配信サービスが普及し、新作から旧作まで見きれないほど作品があふれている今、作品を“消化”する目的で見るのなら早送りしたり飛ばしたりして見たほうが効率がいいのかもしれない。そうすることで自分好みの作品がみつかることもあるので鑑賞数を第一に見ていくのもありだと思うが、同じ作品を繰り返し見ることでみえてくるものもある。いいなと思った作品があったら、騙されたと思ってぜひ一度再見してみてほしい。
ストーリーに縛られがちな初見
 映像作品を再見すると、ストーリーを把握したうえで細部に目をやることができることがまず大きい。言い方をかえると、初見はどうしてもストーリーに縛られて、物語を追うことがメインになってしまう。物語を追うことから解放された2回目以降は細かい描写に自然と目がいき、作り手がさりげなく忍ばせた工夫に気がつくことができる。ストーリーについても、初見で分かったと思っていたことが実はそうでもなくて、再見することでより深い理解が得られる作品も多いはずだ。
 今年11月11日に新作「すずめの戸締まり」が公開される新海誠監督に以前取材したとき、「天気の子」では初見で分かってほしいところ、2回目以降に気がついてもらえれば大丈夫なラインを意識的につくりわけていたという話を聞いたことがある(編注1)。実写・アニメを問わず、最近では一度ではすべてを把握しきれないほど情報量の多い作品が珍しくない。繰り返し見ることで、初見では気がつかなかった仕掛けを味わうことができるのも再見の楽しみのひとつだろう。
セリフ以外の「映像言語」
 劇場アニメ「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」などで知られ、自他ともに認める映像マニアでもある押井守監督は、映画とドラマの違いについて、画面を見ずにセリフを聴くだけで話が分かるのがドラマだと著書のなかで説明していた。“ながら見”でも大丈夫なのがドラマというわけだ。映画では、登場人物の心情や作り手の意図が映像のみで説明される場合が多々あり、そうしたセリフ以外の要素を「映像言語」と呼ぶことがある。
 例えば、ある人物の出生の秘密を話す人物が映されているとき、それを聴いている別の人物が俯いている姿が意味ありげにインサートされたとする。セリフでは説明されていないが、観客はインサートされた人物が出生の秘密を知っていたのかもしれないと想像するはずだ。これは「キャシャーン Sins」というテレビアニメの一場面だが、異色の演出家として知られる山内重保監督にその場面の意味について尋ねたところ、「ちゃんとドラマが観られる人には分かってもらえるよう作ったつもりです」と答えながら、人によってはインサートされた人物が邪魔だなと思ったかもしれないと笑っていた(編注2)。ここでの「ドラマが観られる人」は押井監督の言う意味とは違って「映像言語を読みとれる人」というニュアンスで用いられている。
 山内監督は、キャラクターやアクションといった表層的な部分だけでなく、その裏に流れる情感のようなものを感じてもらうよう何とかパターンにならないものを作っていきたいとも語り、パターンだけで作ればすむようになることがいちばん怖いことだとも話していた。主人公に良くないことが起こる予兆として急に天気が悪くなったり雨が降ったりする、あふれだす気持ちをグッとこらえるときにアップで手を握り締めるところを映すなど、文章の定型文のように映像言語にもテンプレートの表現が存在する。定型の表現は伝わりやすいメリットがある一方、多用すると陳腐に見えてしまうこともある。言葉と同じように映像言語も日々変化していて、監督や演出家は新しい表現をつくりだそうとしている。
 大作の邦画や劇場アニメで、「登場人物がすべてセリフで説明してしまっている」との批判がでることがあるが、これは映像言語をなぜ使わないのだと言いかえることができる。作品によっては狙いとしてやっていることもあるので一概には言えないが、映像言語を読みとれない観客に「分からない」と思われることを怖れて、セリフで説明しているケースも多いはずだ。本来映画は、自宅とは違って暗闇で画面に集中せざるをえない環境のなかで見るため、ドラマのように“ながら見”はされない前提でつくられているはずだが、映像言語だけでは伝わらないと判断されることもある。
 「映画的」という言葉には、いろいろな意味合いが含まれるが、そのひとつに「映像言語で見事に語られている」という称賛の意味があると思う。けれど、新しい映像表現を多用し、複雑なメタファーや映像でかもす気分に重きをおきすぎると、一般向けのエンタテインメント作品ではなくなってしまう。映像の作り手は、どこまで映像言語で語れば見る人に伝わるか頭をしぼりながらつくっているはずで、作品を再見するとそんなところにも気がつくことができるはずだ。
解像度を上げて失われるもの
 ここまで書いてきたことは、今風の言い方をすると「解像度を上げる」ための映像の見方だが、それは必ずしも正解ではないこともお伝えしておきたい。なんとなく映画を見て面白かった(あるいはつまらなかった)という見方もとても大切で、そうした視点は分析的な見方をしていくと失われやすい。
 前述の新海監督の取材で、「天気の子」を最速上映で見たファンの感想が好評だったことを伝えると、新海監督は元気づけられたと喜びつつも、それは作品を楽しみに待っていてくれたファンの声であり、フラットな感想こそを知りたいと話してくれた。監督の名前を知らずに見る観客、時間つぶしに見る観客――数ある映画の1本として広く見られていくなかで、どう受けとめられていくかが大事なのだと。どんなジャンルでもマニアばかりになったら衰退しかないと言われるが、映像作品についても同じことが言えるのだなと当時気づかされた思い出がある。けれど、作品のメイキング記事が好きで、自分で取材する立場でもある筆者としては、マニアックな見方をする人が今よりもう少し増えて、そうした記事の需要が増えるとうれしいなとは思っている。(「大阪保険医雑誌」22年5月号掲載/一部改稿)
編注1:「天気の子」を“みんなの映画”にするために新海誠と川村元気が考えたこと
https://anime.eiga.com/news/109168/
編注2:「キャシャーン Sins」DVD&ブルーレイ特別装丁BOX4巻、「アーカイブ オブ キャシャーン4」収録インタビューより

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