Aimer、ずっと真夜中でいいのに。、
米津玄師、King & Prince、エレファ
ントカシマシ、ゆず、水樹奈々等、幅
広く活躍するギタリスト、佐々木“コ
ジロー”貴之。知られざるキャリアに
迫る【インタビュー連載・匠の人】

Aimer、ずっと真夜中でいいのに。米津玄師、King & Prince、エレファントカシマシ、ゆず、水樹奈々といったアーティストの楽曲やライブ、さらにアニソン、ドラマやアニメの劇伴まで、驚くほど幅広いフィールドで活躍するギタリスト、佐々木“コジロー”貴之。作曲、アレンジでも才能を発揮している彼に、ジャンルを超越したギタープレイのルーツ、「人との出会いに恵まれた人生」というキャリアについて語ってもらった。
――コジローさんが最初に手にした楽器は、バイオリンだったとか。
3歳から習ってました。母がピアノの先生で、父もクラシック好きだったので、子どもにバイオリンをやらせたかったみたいで。その経験があるから、今があると思ってますね。絶対音感も身に付いたし、耳の感度はそのときに養われました。譜面が読めるのも、すごく役立ってます。ただ、子どもの頃は結構からかわれましたね。僕は野球少年だったんですけど、土曜日に試合をしていると、レッスンの時間に親が迎えに来るんですよ(笑)。「おまえ、女の子みたいだな」って言われたり、かなり恥ずかしかったです。それが変わったのは、中学生のとき。周りのクラスメイトも音楽に興味を持ち始めて、「楽器弾けるの? やべえじゃん!」みたいになって。そのとき初めて「バイオリンやってて良かった」って、親に感謝しました(笑)。
――そしてコジローさんもギターを弾くようになった、と。
ギターを始めたのは中2の終わりくらいですね。文化祭で先輩のバンドを見て、「いいな。ギターを弾いてみたい」と興味を持ったのがきっかけでした。最初はアコースティックギターだったんです。親がクラシックの人間だったんで、エレキはダメと言われてしまって(笑)。その直後に小学校のときの先生がエレキギターを貸してくれて、それを弾いてました。ずっとバイオリンをやってたので、左手の指もよく動いたし、耳コピも何となくできたので、結構すぐ弾けたんですよ。当時、ラルク アン シエルが好きだったので、ずっとコピーしてました。中3のときに文化祭に出たんですけど、そのときはボーカル&ギターだったんです。
――歌ってたんですか?
はい、今は全然歌わないんですけど。親も学校にライブを見に来て、どうやら僕にギタリストとしての可能性を感じてくれたみたいで(笑)、中学を卒業するときにエレキギターをプレゼントしてくれたんです。ESPのギターだったんですけど、高校時代はずっとそれで練習してました。
――中高の頃は、どんな音楽を聴いてたんですか?
クラシックは聴いてましたね。地元(宮城県)に有名なオーケストラが来ると連れて行ってくれたし、東京で三大テノール(ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス)のコンサートを観たこともあって。Mr.ChildrenやB’ zも聴いてたし、ラルクのKenさんのルーツを遡って、イングヴェイ・マルムスティーンや、ハードロックにもハマってMR.Bigなども聴いてました。そこからメタルにいって、ドリーム・シアターを好きになって。
――プログレッシブ・メタルの代表的なバンドですね。やはりテクニカルなギターに魅力を感じていた?
そうですね。高校のときに地元の音楽教室に通い始めてからは、さらにいろいろな音楽を聴くようになりました。元スタジオミュージシャンだった講師であり恩師の石ヶ森宗悦さんに、「器用だし、耳もいい。譜面も読めるから、スタジオミュージシャンを目指せばいいんじゃないか?」と言ってもらって。それがきっかけで、ジャズとかAORを聴くようになったんです。スティーヴ・ルカサー、マイケル・ランドウといったLAスタジオギタリストに傾倒して、「こういうことをやってみたい」と意識するようになりました。それまでは「バンドでやっていきたい」と思ってたんですけど、スタジオミュージシャンは職人気質というか、「これって手に職じゃない?」という感じもあったんですよね。
――職業として意識しはじめた、と。高校時代はギター漬けの日々ですか?
いや、そうじゃなかったんですよ。通っていた高校が地元で有名な進学校で、めちゃくちゃ厳しかったんです。朝8時から夜9時まで授業があったし、とにかく「いい大学に行くために勉強」という感じで、音楽をやる環境じゃなかった。高校時代って本来、伸び盛りじゃないですか。僕は全然そうじゃなかったし、今振り返ってみると、かなりきつい日々でした。自分としては「ギターで食っていきたい」と思ってたんですけど、まったく理解してもらえませんでした。
■いきなりチャートのトップに入るようなアーティストの方々の現場に関わらせてもらうようになった
――コジローさんは高校卒業後、アメリカ・ボストンのバークリー音楽院に留学。この進路も反対を押し切って決めたんですか?
まあ、そうですね。あの高校からバークリーに行くって、100%有り得ないことなので(笑)。日本の大学もいくつか受験したんですけど、「アメリカの大学に留学する」ということで何とか容認してもらって。奨学金で行ける試験にパスしたのも大きかったですね。ただ、すぐ帰ってきちゃったんですよ。英語の壁もあったし、食べ物も合わなくて。「バークリーに留学しました」とも言えないような状況でしたね。
――それは最初の挫折かもしれないですね。帰国後、2006年に22歳で上京したそうですね。
はい。帰ってきてからは、地元でレッスンプロみたいなことをやったり、レストランやパーティーで先輩のミュージシャンのみなさんと演奏させてもらったり。そういう仕事を3年くらいやってました。上京したきっかけは、aikoさんやLINDBERGのサポートをやっているキーボーディストの佐藤達哉さんとお会いしたことでした。たまたま地元のライブハウスで対バンさせてもらったんですけど、「いつか東京に行きたいんですよね」と話したら、「来れるんだったら、すぐおいでよ」って言ってくださって、それで気持ちが固まりました。テレビの音楽番組を観て、「自分もこういうところで演奏してみたい」とずっと思ってたんですけど、どこかで「地元を離れたくない」とも思ってて。佐藤さんの一言で、「やっぱり行こう」と思えたんですよね。
――でも、東京にツテがあったわけじゃないですよね? 仕事はどうだったんですか?
全然なかったです(笑)。たまに佐藤さんがライブに呼んでくれてたんですけど、他に知り合いもいないし、どうやって仕事を見つけていいかわからなくて。自作曲のデモテープを事務所やレコード会社に送ったりしたんですけど、まったく反応がなくて、「どうしよう……」という感じでした。とりあえずスタジオや楽器屋さんに貼ってあったメンバー募集を見て、連絡しまくってましたね。いろんなバンドやソロシンガーの方のバックでギターを弾かせてもらって、たまたまその場で見ていた音楽事務所の方に声をかけてもらったり、人を紹介してもらって。そのなかで少しずつ仕事につながっていった感じです。
――やっぱり人とのつながりが大事なんですね。
そうですね。最初の転機は、シンガーソングライターの松藤量平さんとの出会いですね。めちゃくちゃいい声で歌がとにかく上手くて、曲も最高で。素晴らしいシンガーソングライターなんです。対バンさせてもらったときに「ファンになりました」みたいに声をかけさせてもらったら、「おまえのギター、すごいな。一緒にやろう」と言ってくれて、サポートするようになったんです。松藤さんはメジャーデビュー時に、ずっとギタリストの石成正人さんに作品のレコーディングでギターを弾いてもらってたんですけど、僕も石成さんが大好きだったので、「いつか紹介してください」ってお願いしたんです。その後、松藤さんが平井堅さんのライブでコーラスをやることになって、「石成さんも一緒だから、佐々木のこと話しとくよ」って言ってくれて。それで武道館で石成さんを紹介してもらって、「音源聴いたよ。一緒に仕事できたらいいね」って仰ってくれたんです。それからしばらく経って、2011年の震災があって。あの時期ってツアーのスケジュールとかもかなり変わったじゃないですか。
――数か月はまともにライブが行えなかったですからね。
そうそう。その頃に石成さんから突然連絡があって、「スケジュールが変更になって、JUJUと平井堅のライブの日程が重なる日がある。佐々木くん、JUJUのライブのトラ(代役)を何日かやってくれない?」って言われたんです。僕としてはもちろん「がんばります!」という感じだったんですけど、石成さんはとてもしっかりした方なので、「僕とまったく同じプレイをしてほしい」とご自宅で手ほどきしてくれたんです。ただ、石成さんの演奏はクオリティがすごいので、めちゃくちゃ大変で……おかげでツアーも何とか無事にやれたし、すごく勉強になりました。
――ギタリストとして、すごく貴重な機会ですね。
そうなんです。その後も石成さんから何度か「代わりに弾いてくれない?」とお話をいただいて。古内東子さんのライブで弾かせてもらったときに、バンドマスターの河野伸さんが僕のことを気に入ってくださって、翌年中島美嘉さんのツアーに呼んでくれたんです。藤井フミヤさんのライブにも参加させてもらって、そのたびに石成さんから手ほどきを受けて。あるとき「石成さんを師匠だと思ってます」と言ったら、「僕は弟子は取らないから」って言われてしまって(笑)。
――(笑)もちろんコジローさんの実力を認めていたから、手ほどきしてくれてたんでしょうけどね。
僕としては「まだまだ認めてもらえないんだな」って思ってたんですよ。それから5、6年経って、あるフェスで石成さんとお会いして。僕は片平里菜ちゃんのバンド、石成さんはスキマスイッチのサポートだったんですけど、バックヤードに石成さんと常田真太郎さん(スキマスイッチ)がいらっしゃったのでご挨拶したら、石成さんが真太郎さんに「僕の弟子の佐々木くん」って紹介してくれて。「あっ、今弟子って言いましたよね⁉」って、やっと認めてもらえた!と。泣きそうになるくらい嬉しかったですね。
――素晴らしい。それにしても人の縁を引き寄せる力が強いですね、コジローさん。
そうかもしれないですね(笑)。実はもう一つ転機があるんですよ。これも松藤さんのサポートをやっていた時期なんですが、とあるアーティストのサポートでライブハウスに出たときに──お客さんは数人だったんですけど、たまたま弦一徹さん(バイオリニストの落合徹也)のお知り合いのカメラマンの方がいて、「君、すごいね」って声をかけてくれて。後日、「落合のホームページ用の撮影をするから手伝いにきてくれない?」って誘ってくれたんです。本当にレフ版を持ったりしてお手伝いしたんですが(笑)、そのとき弦一徹さんに「バイオリンも弾けるんでしょ」って言われて、テレビの歌番組の仕事を紹介してくれたんです。それが『FNS歌謡祭』だったんですけど、ちょうどゆずが「虹」(2009年)のプロモーションで出演していて。バンドメンバーに蔦谷好位置さんがいらっしゃって、僕は大ファンだったので、「なんとかつながりたい」と思い、楽屋の前でお待ちして、「連絡先を教えてください」ってお願いしたんです。
――すごい行動力!
(笑)音楽業界のことがわかってなかったんですよね。今振り返ってみると「おまえ、そんなことよくやったな」と思っちゃいますけど、当時はとにかく必死でした。無茶なお願いだったのに、蔦谷さんは「いいですよ」と連絡先を教えてくれたんです。家に帰って速攻でプロフィールと音源を送ったら、「いいですね。いつか一緒に仕事しましょう」と返事をくれて。半年後くらいに新人アーティストの方のレコーディングで弾かせてもらったんですけど、気に入ってもらえたようで、そのあとSuperfly、ゆずなどの現場にも呼んでいただけました。ゆずのお二人にもお会いして、ツアーにも参加させてもらいました。
――その時期にトップアーティストとの仕事がはじまった、と。
そうなんです。それまでは数人のお客さんの前で演奏したり、知り合いのレコーディングで弾くくらいだったのに、いきなりチャートのトップに入るようなアーティストの方々の現場に関わらせてもらうようになりました。“あいだ”がまったくなかったから、差を埋める作業はけっこう大変でした。蔦谷さんにもいろいろ教わって、鍛えられましたね。
■自分のやっていることに少し自信を持てるようになったのは劇伴がきっかけ
――最近は若手アーティスト仕事も増えています。ずっと真夜中でいいのに。にも関わっていらっしゃいますが、キャリアのある方々との現場とはスタンスが違いますか?
そうですね。トップのアーティスト、大御所の方々はしっかりとスタイルが完成されているので、そこに乗っからせてもらうところもあります。でもずとまよはどちらかというと、みんなと一緒に押し上げていく感じなんですよね。作品作りにしてもライブにしても、こちらから「こういうのはどうだろう?」と提案するし、バンドっぽい雰囲気がある。もちろんACAねさんのクリエイティブがもとになっていて、すごい才能なんですよ。「こういうイメージでやりたい」というディレクションもしっかりしてるし、そこに僕らがアイデアをぶつけていく感じですね。ライブの規模も目に見えて大きくなってるし、ビックリしています。
――さらにKing & Princeからさだまさしさんの作品まで、驚くほど幅広いジャンルで演奏されていて。まさにオールマイティなギタリストだなと。
それは目指してたことでもあるんですけど、同時にコンプレックスだったんです。「何でも弾けるね」「どんなジャンルも対応できる」と言ってもらえるのはいいんですけど、過去には「何がしたいんだ?」みたいな言葉を投げかけられることもありました。実際、「何が得意なの?」と訊かれても答えられなかったんですよ。すごいギタリストって「この人はロック」「この人はジャズ」みたいなイメージがあると思うんですけど、それもなくて……。自分のやっていることに少し自信を持てるようになったのは、劇伴がきっかけですね。劇伴はどんなジャンルでも弾けないといけないし、ギター以外の楽器を頼まれることも多い。それまでやってきたことがすべて活かせたし、「報われた」という気持ちになれたんです。
――なるほど。劇伴の数もどんどん増えてますよね。2022年の春も、『17才の帝国』『やんごとなき一族』『持続可能な恋ですか~父と娘の結婚行進曲~』などのドラマのサウンドトラックでギターを弾いています。
2020年の『半沢直樹』の新シリーズをやっていた時期はすごかったですね。1作品以外、21時、22時の時間帯のすべての民放のドラマの劇伴で弾いてました(笑)。劇伴のレコーディング現場って、その場で譜面を渡されて、「よろしくお願いします」っていきなり聴いたことの無い楽曲がクリックと共に流れるんです。3時間くらいで20トラックから30トラック録るので、結構壮絶なんですけど、めちゃくちゃ楽しいんですよね(笑)。スケジュールが決まっていて時間内に必ず終わらせなくちゃいけなくて、試されてる感じもあるんですけど。さっきもお話しましたけど、ギター以外の楽器も色々弾くのですが、自宅スタジオで劇伴などを録ることも結構な頻度であって、譜面に“ウード”(アラブ音楽圏で使用される弦楽器)って書いてたり。所有していない必要な楽器は、すぐに民族楽器の専門店に注文して送ってもらって、YouTubeで弾き方を調べてそのままレコーディングすることも多々あります。バンジョーやマンドリン、ブズーキーやウクレレなどを弾くこともあるし、楽器の数もそうやって増えていきましたね。
――米津玄師さんの「POP SONG」でも民族楽器を弾いてますよね?
あの曲で弾いてるのは、マカフェリというジプシー音楽で使われる楽器ですね。編曲は『大豆田とわ子と三人の元夫』の劇伴を手がけた坂東祐大さんなんですが、以前僕が『大豆田とわ子と三人の夫』の劇伴で弾いたジプシーっぽい雰囲気のギターを聴いてくれたようで、米津さんのレコーディングに呼んでもらいました。スタジオで坂東さん、米津さんとディスカッションしながら、いろんなフレーズを弾いたんですよ。いい意味で「普通じゃないものを目指している」という感じがあったし、やっぱりすごいアーティストだなと思いました。
■それまではきちんと弾くことを意識してたんだけど、宮本浩次さんを見て「これがロックなんだ」と思った
――数多くのレコーディングに関わる一方、今年の2月から6月にかけてAimerさんのツアーに参加されてます。
週末はツアーで平日は様々なレコーディングにお声掛け頂いたり、自宅スタジオでアレンジ作業もしているので、結構ヤバいスケジュールですよね(笑)。ただ、ライブはストレス発散でもあるんですよ。ありがたいことに常に締め切りに追われているんですけど、ツアーに出ると地方で美味しいものを食べて、大勢の前で演奏して、晴れやかな気持ちになるんです。そこでバランスが取れてるんでしょうね。
――ライブパフォーマーとしても、キャリアを重ねるごとに向上している手応えがあるんでしょうか?
そこに関しては、エレファントカシマシの現場の経験が大きいですね。アレンジャー&プロデューサーの村山☆潤くんが声をかけてくれたんですけど、とにかく宮本浩次さんに圧倒されたんです。それまでは割と正統派のギターというか、きちんと丁寧に弾くことを意識してたところがあったんですが、宮本さんを見て「これがロックなんだ」と思ったし、感情むき出しの魂で弾く荒ぶるようなプレイスタイルをしないと確実に振り落とされるな、と。きれいにしっかり弾くことがすべてではなくて、ときにはぶち壊しにいくようなスタイルも大事だし、それが今の時代のニーズに合ってるのかなと。一つ一つの経験の一つ一つに意味があるし、すべてが活かされてますね。
――素晴らしい。今後の目標は?
海外の仕事に挑戦してみたいです。ハリウッド映画の劇伴だったり、海外のアーティストの制作などにも参加してみたくて。こうやって声に出すと仕事が舞い込んでくることがあるんですよ(笑)。
――なるほど! それにしてもコジローさん、自分でつながりを掴みにいく姿勢がすごいですね。
昔から人に恵まれてる部分はすごくあるなと思います。ギターが上手い方はたくさんいらっしゃって、「こんなふうには自分は弾けないな」と思うこともあるんですよ。でも、僕はいろんな方に助けてもらえた。引きの強さ、運の強さもありますが、やっぱり人とのつながりでここまでやってこれたんだと思いますね。
取材・文=森朋之

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