L→R 桜井 賢(Vo&Ba)、坂崎幸之助(AG&Par)、高見沢俊彦(EG)

L→R 桜井 賢(Vo&Ba)、坂崎幸之助(AG&Par)、高見沢俊彦(EG)

“気がついたらこうだった”
っていうのが重なって今がある

1983年8月に初の日本武道館公演を行なわれましたが、その時にはまだヒット曲がなかったという事実に驚きました。6月にリリースしていたシングル「メリーアン」が武道館公演後にヒットし、『第34回NHK紅白歌合戦』にも出演されましたが、第一弾のヒット曲が生まれた時はどんなお気持ちでしたか?

高見沢
本当は「メリーアン」の前の曲でヒットするはずだったんですよ。それで武道館公演をやる予定だったのに不発に終わって、そうなると何が売れるのか分からなくなりましたよ。で、僕は“THE ALFEEでシングルヒットはもういいや。無理!”と思っちゃいましたね(笑)。で、その時に作っていたアルバムの一曲が「メリーアン」だったんですけど、当時のディレクターの方に先見の明があったんでしょうね。僕らはもうヒット曲は諦めていたので“なんでもいいや”って感じだったんですけど、そのディレクターさんに“これシングルカットしよう!”と言われてリリースしたら売れたっていう。自分たちでは“この曲でいくぞ!”っていうのがなかったから、“えっ、ヒットしたの?”って感じでしたよ。あんまり実感がなかった。
坂崎
6月にリリースしたシングルが9月に入ってからジワジワと売れてきたから、ヒットまでに2カ月以上かかっているしね。目が覚めて、朝になったら突然ヒット曲が出たって感じではなかったな。
高見沢
で、紅白にも出られたから“これでもう10年は平気だろう”と安心していたんですけど、そしたらディレクターさんが“さぁ、高見沢、次はどうする?”って訊いてきて、“えっ、次ってまだあるんですか?” “当ったり前だろ! 一発屋で終わるのか!? 次の曲が勝負だ!!”と言われ、僕は“え〜、また勝負するの!?”って(笑)。「メリーアン」以降はずっと終わりのない中間テストを受けているような感じですよ。でもその後、狙いに狙って作ったのが「星空のディスタンス」。だから、それが売れた時は嬉しかったですね。自分たちの狙いどおりチャートに入って代表曲になりましたし、「メリーアン」を越えたというのも実感しましたね。それからずっと現在に至るってことですが。
坂崎
でも、「メリーアン」が売れる前に武道館公演ができたっていうのは、自分たちでも“やったな”っていうのはありました。逆にヒット曲がなくても武道館に立てたから、“ライヴのみで武道館まで行けたからいいじゃん”って。
高見沢
会社としてはそうはいかないだろうけど、“これからはライヴで生きよう!”と密かに思ったのは確か。いろんなことをやって、あとは何をしたらいいのか分からなくもなっていたけど、自分たちが今歌いたいものを歌えば、結果がついてくるっていうのを教えてくれたのが「メリーアン」でしたね。あの時のディレクターさんには、今でも心から感謝していますよ。

ライヴも引き続きかなりの本数をやっていますよね。THE ALFEE は昨年12月で2,782本目のライヴを達成しましたが、これほど多くの公演を開催し続けるようになったきっかけはありますか?

高見沢
きっかけはありません。(笑)。知らないうちに次が決まっちゃっているから。でも、本来ライヴが好きですから、それが苦とは全然思いませんよ。
桜井
ライヴツアーが夢だったしな。
坂崎
初めての武道館公演をやってからは、スタッフと一緒にライヴツアーのひな形を作ったりしたから、それが定番になっているもあるね。
高見沢
それとパンフも含め、大々的にコンサートグッズを作ったのは僕らが最初らしいですね。春ツアーのあと夏はイベントに出て、秋からまたツアーに出るっていうサイクルを定番化したのは80年代からでしたね。
坂崎
それも誰かが “嫌だ”って言っていたらやめていたかもしれないね。NOと言えない日本人だよな(笑)。
高見沢
まぁ、とにかく3人ともライヴは好きだからね。

では、最後にTHE ALFEEにとってのキーパーソンとなる人物は?

高見沢
3人としてもそうかもしれないけど、自分で考えると吉田拓郎さんですね。拓郎さんはTHE ALFEEを早めに見つけてくれたんですよ。“お前ら絶対に売れるよ”って…まぁ、音楽以外の部分でしたけど(笑)。楽曲のほうでは81年だったかな? 当時Stars on 45っていうグループがいて、The Beatlesの曲をメドレーでつなげてLPを出していたんですね。で、ニッポン放送のディレクターの方が、坂崎がモノマネがうまいからってそれを拓郎さんでやろうって話になって。しかもTHE ALFEE 名義ではなく、“BEAT BOYS”というバンド名で拓郎さんの曲を拓郎さんのモノマネで歌った「ショック!! TAKURO23」っていう曲を作って、拓郎さんを驚かせる企画があったんです。そしたらそれを聴いた拓郎さんが非常に喜んでくれたんだけど、THE ALFEEがやっているって言っていなかったから、僕らはずっと名前を伏せたままで、しかも覆面を被っていたんですよ。
坂崎
覆面バンドって普通は名前を伏せるだけなのに、なぜかプロレスラーみたいに本当に覆面を被っていた(笑)。
桜井
マントもつけて竹下通りを歩いたよね。
高見沢
でも、それがヒットしたんですよ。それまでTHE ALFEEとしてオリジナル曲も出していたのに、それよりも売れた! もうそれがショックで、“BEAT BOYSの売り上げを超えなきゃいけない!”って火がつきましたね。あと、拓郎さんにはテレビにも引っ張り出されて、僕はもともとテレビが苦手だったけど、ふたりでトーク番組をやっていたんですよ。そういう何か面白いところにはいつも拓郎さんがいましたね。
坂崎
拓郎さんの存在は大きかったね。プロデューサーみたいな視点で見てくれていましたから。高見沢がテレビ向きだっていうのは、俺と桜井もずっと言ってたんだけど、業界の人は誰もそこに目を向けなかったから実際に引っ張り出すということはなかったんです。
高見沢
拓郎さんは繊細だけど大胆な部分もありますね。掴みどころがない一面もあるし、ご本人が聞いたら怒るかもしれないけど、ちょっとTHE ALFEEに似ているのかもしれないね。それは言っちゃマズいかな?(笑) “そんなわけねぇだろ!”と言われるかもしれないけど。
桜井
研ナオコさんにもステージを提供してもらって、ナオコさんはいつも満席のところに出ているから、ライヴの基本はあそこで体験できたと思いますね。お世話になったって言ったら、ガロだってそうだね。
坂崎
そうだね。本当にたくさんいるから、あちらを立てればこちらが立たずで(笑)。
高見沢
入った事務所が大手の芸能プロだったから、そういう方々の背中を見ていたっていうのもありますよ。
坂崎
僕らみたいなバンドってあんまりいないんじゃないかな? 研ナオコさんから拓郎さんまでお世話になっていて、不思議な立ち位置というか。
高見沢
変な癖もないしね。文句は一切言わないし、扱いやすかった(笑)。
坂崎
筒美京平さんに“君たちは今まで会ったフォークの人たちの中で一番素直だよ”って言われたこともありましたね。あれってダメだって意味なのかな?(笑) キーパーソンとしてひとりを挙げるなら拓郎さんですけど、本当にたくさんの方にお世話になっていますよ。
高見沢
拓郎さんの感覚って不思議で、前にTBSホールでの録音の時に幕に向かって僕らがお辞儀をしたら、それが“誰もいねえよ!”ってウケたらしくて、自分たちでは何もおかしくないと思っていたのに、そこを面白いと思うアンテナを持っているんですよ。人って笑わせようとして笑わせられるわけじゃないし、こっちがやったことに対して、それが良いか悪いかは見た人や聞いた人の感覚だから、自分たちでは分からないことを引き出してくれたのが拓郎さんやナオコさんなのかな?

THE ALFEEの音楽性にロックが加わったお話に通ずるというか、ありのままの自分たちでやってきたっていうのが筋としてあるんですね。

高見沢
そうですね。無理して何かをしようとしたことは一度もないです。“気がついたらこうだった”っていうのが重なって今があるんでしょうね。でも、トークに関しては最初から変わらずにこの雰囲気なので(笑)、ずっと変わっていないですよ。

取材:千々和香苗

OKMusic編集部

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