【短期集中連載】3つの「シン」から
読み解く『シン・エヴァンゲリオン劇
場版』 現実に還る時、前に「進」め
るエネルギーを与える作品に生まれ変
わった「エヴァ」

『シン・エヴァンゲリオン劇場版(以下本作)』が公開され、26年前に始まった「エヴァンゲリオン(以下エヴァ)」がついに円団を迎えた。
改めて振り返ってみると、「エヴァ」という物語は多くの要素を内包していた。ファンや識者による様々な言説の中で作品は育てられ、大きく膨らんでいった。本作も多くの視点で語り得る充実の内容であったと思う。
2016年、庵野秀明監督は『シン・ゴジラ』の「シン」の意味を問われた時、「観た人それぞれが好きに解釈していただいて構わない」と発言していた。今回の「シン」もきっと同様だろう。
ならば、この多くの要素を持つ物語を、様々な「シン」で読み解いてみたい。この全3回の集中連載は、筆者がとりわけ重要と感じた3つの「シン」を取り上げ、本作について掘り下げてみる。
選んだのは、「親」「sin(英語で罪の意)」そして「進」の3つだ。最終回3回目の今回は、本作を「進」の観点から見つめることにする。
※編集部注 本コラムには『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレが含まれております。ご注意の上ご覧ください。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、主人公が走って幕を閉じる。
前作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では主人公の碇シンジは、最後はうなだれて歩くのが精いっぱいだった。前に進みたくないのに無理やり進まされているような状態だったが、本作のラストカットはあの時の想い足取りが嘘のようだ。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、シンジがそのように前に進む意思を取り戻す過程を描いた作品だったと言ってよいだろう。前に進むという、至極当たり前なメッセージを発する『エヴァンゲリオン』は「らしくない」のかもしれないが、本シリーズはいつだってステレオタイプならしさから脱却しようと試みてきた作品だ。紆余曲折を経て最後に当たり前のことにたどり着くのは、最初からそれをわきまえているのとは全く違う感慨を与える。
3つの「シン」で本作を読み解く短期連載の最後となる今回は、「進」を取り上げ、この連載も前向きに終わらせてみようと思う。
■大人になった旧友と14歳のままのエヴァパイロットたち
アスカや綾波レイ(仮称)と歩くシンジは、疲れ果て、自動販売機の前に座り込んでしまう。アスカに「根性なしが」と罵られてもピクリとも動けないほどに、シンジは自らの罪の意識と疲労で動けなくなる。前回も書いたが、ここでシンジを迎えに来るのは、旧友の相田ケンスケだ。ケンスケの乗ってきた車のライトがシンジを照らす。そのカットが示すように、ここから始まる第3村のシーンは、絶望の闇に囚われているシンジの心に光を当てることになる。
第3村で再会する旧友、ケンスケと鈴原トウジの2人は、すっかり大人になっていた。14歳のままで止まっているシンジとは対照的に、彼らは空白の14年の間にも成長し続けて、人生を歩んできたのだ。本シリーズで、誰かが成長して大人になることがここで初めて、具体的に描かれた。
本シリーズの、エヴァパイロットたちが14歳のまま外見が変化しないという設定は、物語上での役割とは別のメタファーのレイヤーで考えると、成長を拒否して子供のまま大人になってしまった人々の暗喩だと解釈できるかもしれない。日本アニメは思春期の少年・少女を描く作品が多いが、『エヴァンゲリオン』シリーズもその例に漏れない。というか、思春期を描く日本アニメの代表的作品と言っていい。ならば、ケンスケやトウジのような存在は、そうしたものへのアンチテーゼでもあっただろうか。
トウジやケンスケの台詞は、一歩ずつ人生を前に進めてきた者たちの含蓄がある。ケンスケは「ニアサーも悪いことばかりじゃない」と言い、トウジは「生きるためにはお天道様に顔向けできんこともした」と言う。罪の意識で立ち止まってしまったシンジにとって、それらの言葉は大きな力になったに違いない。
■第3村の復興のイメージ
第3村は、カタストロフからの復興のイメージを背負っている。
ニアサードインパクトによって地上のほとんどが人の住める地域ではなくなってしまったところから、小さくはあるが集落を作り、暮らしが戻り始めている。2012年に公開された『:Q』の未曾有のカタストロフを、その前年の東日本大震災に重ねる識者やファンは多かった。第3村のシーンには、やはり未曾有の事態からの復興を連想させる。
ヴィレの装置によって空気が正常化している居住地以外では、人は防護服を着なければ活動できないようだ。本作ではっきり言及されないが、防護服がないと立ち入れない区域があるというのは、やはり放射能汚染区域を連想させる。あの村では、きっと14年かけて汚染区域を少しずつ除去して住める地域を増やしていったのだろう。
庵野秀明総監督は、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』のインタビューで、東日本大震災の被災地に3度訪れたことを明かしている。「現実に起こった惨さ、悲惨さ、無慈悲さ、不条理さを自分なりに感じました」と語った庵野氏は、『シン・ゴジラ』では直接東北を描写することはしなかったが、カタストロフからの復帰していく力を作品全体に込めていた。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』には、そういう庵野氏自身の体験と映画監督としての経験の蓄積が、如実に刻まれた作品になっている。第3村に復興のイメージが重なるのも自身で被災地を見た経験とも無縁ではないだろう。本作には、これまでの庵野氏自身の歩みと成長も刻まれているのだ。
■現実からの避難場所ではない作品
本作を観たファンの多くが「卒業」と言う言葉を使って感想を語った。それは、25年もの間、中途半端な状態で留め置かれて完結を待ち望んだ人々の素直な本音だったろう。25年も経過すれば、『新世紀エヴァンゲリオン』放送当時にティーンエイジャーだった視聴者も、年齢の上では立派な大人だ。かつて、旧劇の劇場版では閉鎖的な観客を突き放すかのような作品を、庵野氏は突き付けた。それは、虚構に浸って留まっていないで成長して現実を見ろ、という意味が言外に含まれていた。しかし、奇妙に宙づりになったような状態で終わってしまった分、ファンは「卒業」するのが難しくなってしまった。そんな長年のファンは本作でやっと、「エヴァ」を思い出のアルバムにしまうことができたから「卒業」という単語が多く使われたのだろう。旧劇の劇場版では、作り手だけが前に進んでいってしまったようなものだったが、今回は一緒に前に進もうよという意志が感じられる作品になっていたのが、意外と言えば意外だった。
だが、『エヴァンゲリオン』シリーズは常に我々の予想を裏切ってくるものだ。鑑賞前は、どこかで完結できないのではないかと筆者も思っていたが、見事に完結させることでその予想を裏切ってくれた。
庵野氏は、妻の安野モヨコの漫画『監督不行届』の後書きで、「マンガを現実からの避難場所にせず、現実に還る時に読者の中にエネルギーが残るようなマンガ」だと評し、それはかつて自身が『新世紀エヴァンゲリオン』で出来なかったことなのだと書いている。当時の観客一人ひとりには色々な考え方があっただろうが、旧劇は庵野氏にとって一時の避難場所にはなっても、観客をその避難場所から背中を押すような作品ではなかったのだ。『シン・エヴァンゲリオン劇場』は、現実に還る観客にエネルギーを与えることに挑戦したのではないだろうか。
ラストシーンで駆け出すシンジとマリの軽やかで躍動感ある姿は、そんな前向きな力に満ちていた。まさしく「希望のコンティニュー」にふさわしいエンディングだった。
ようやく『エヴァンゲリオン』に決着をつけた庵野氏がこれからどんな道を進むのか、楽しみだ。

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